萩野由之

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萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日1860年6月6日[1] - 大正13年(1924年1月31日)は、日本歴史学者国文学者東京帝国大学名誉教授文学博士

研究領域は幅広く、一つに、古代・近世の法制史の研究で、『日本制度通』(小中村義象と共著)・『日本財政史』・『江戸幕府職官考』等を著した。二つに、古代から中世の古典の研究で、特に『神皇正統記』や四鏡等の校訂や研究に力を注いだ。三つに、幕末維新史の研究で、渋沢栄一著の『徳川慶喜公伝』の監修(実際は渋沢は注文主に過ぎず、萩野自身が執筆した[2])や『王政復古の歴史』を著した。ほか、萩野の郷土である佐渡島の研究や史料蒐集も行い、佐渡関係の著述も多数ある。彼の蒐集した佐渡関係史料は未刊の『佐渡群書類従』を中核に千余冊が新潟県立佐渡高等学校同窓会の「舟崎文庫」に所蔵されている。また、萩野の蔵書は九州大学附属図書館に「萩野文庫」(七千五百余冊)、東京大学附属図書館に「萩野本」(六百五十冊)として架蔵されている。さらにその他諸機関に収蔵されることなく、萩野の死後も、長く子孫の邸宅に保管され続けていた資料が、学習院大学史料館に受贈され、「萩野由之博士史料」として収蔵された。

略年譜[編集]

※日付は明治5年まで旧暦

  • 万延元年(1860年)4月17日、佐渡国雑太郡相川下戸炭屋町(現在の新潟県佐渡市相川下戸炭屋町)に、彫刻師の萩野咲蔵の長男として生まれる。母はちゑ。幼名は平作。幼時より修教館(佐渡の官学)教授をつとめた丸岡南陔方へ出入りし、講話などを聴いた。
  • 慶応2年(1866年)、円山溟北が主宰する学古塾に入門。
  • 明治4年(1871年)、修教館に特待生として入学。同6年には助教。
  • 明治5年(1872年
    • 4月、相川県(現在の新潟県)より「学問所生員申付候事」(特待生)の辞令を受ける。
    • 11月、大試に甲科で合格。相川県より「県学助読申付候事月給金半円」(県学教員)の辞令を受ける。
  • 明治8年(1875年)10月、下戸校教導生の辞令を受ける。
  • 明治10年(1877年)、上京。興亜会の支那語学校に入学、また重野安繹について国漢を修める。
  • 明治11年(1878年)、帰郷し、県学教員(広間校訓導補)に復職。
  • 明治13年(1880年)、三郡連合会議員選挙に立候補し当選。5月、再び上京して興亜会支那語学校に入学。
  • 明治14年(1881年)、母・ちゑの願いにより帰郷。
  • 明治15年(1882年)、東京大学文学部古典講習科入学。
  • 明治19年(1886年)7月、東京帝国大学文科大学古典講習科国書課卒業。元老院書記生となり第三課に勤務。江戸幕府制度の編纂に関わる。また文部省嘱託として『古事類苑』外交部の編修に携わる。
  • 明治23年(1890年
    • 9月、貴族院属となり、編纂課や速記課に勤務。古代法制の研究に従事。
    • 11月、國學院講師。
  • 明治25年(1892年
    • 11月、学習院教授に就任し、従七位に叙せられる。
    • 12月、帝国議会図書館設立に際し国内図書の調査を嘱託。
  • 明治27年(1894年)、皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)の教科書として『近世国文』(2巻)を編み、東宮職へ奉納。
  • 明治29年(1896年
    • 1月、高等師範学校兼女子高等師範学校教授に就任。
    • 3月、第9回尋常師範学校尋常中学校尋常高等女学校教員検定委員に就任。
  • 明治32年(1899年)2月、東京帝国大学文科大学講師を嘱託される。
  • 明治34年(1901年
    • 4月、日本女子大学教授に就任。博士会の推薦によって文学博士の学位を取得。
    • 9月、東京帝国大学文科大学教授に就任(東京高等師範学校教授と兼任)、国史学第二講座を担当。
  • 明治35年(1902年
    • 11月、国學院研究科の指導講師を嘱託。
    • 12月、勲六等瑞宝章を受ける。
  • 明治40年(1907年)7月、神社調査委員を嘱託。
  • 明治41年(1908年)9月、教科用図書調査委員会委員を嘱託。
  • 明治42年(1909年)11月、学術調査のため朝鮮へ出張。
  • 明治44年(1911年)5月、維新史料編纂会委員を嘱託。
  • 大正2年(1913年)9月、神宮皇學館評議委員を嘱託。
  • 大正3年(1914年)4月、神社奉祀調査会委員を嘱託。
  • 大正4年(1915年)5月、明治神宮造営局評議委員を嘱託。
  • 大正5年(1916年)4月、帝国学士院会員に列せられる。
  • 大正6年(1917年)6月、高等官一等に叙せられる。
  • 大正7年(1918年)9月、学術調査のため満州中国へ出張。
  • 大正9年(1920年)12月、勲二等瑞宝章受章。
  • 大正12年(1923年
    • 3月、東京帝国大学教授、東京高等師範学校教授を定年退官。
    • 6月、宮内省御用掛に就任し、勅任官待遇で図書寮に勤務。
    • 7月、勅旨に依り東京帝国大学名誉教授の名称を受ける。
  • 大正13年(1924年
    • 1月、経筵進講者控を命ぜられる。
    • 1月31日、狭心症により死去。享年65(宮内省の都合によって2月1日死去と発表)。旭日重光章

栄典[編集]

位階
勲章

脚注[編集]

  1. ^ また学習院大学史料館「萩野由之博士史料」には、萩野由之直筆と思しき履歴書が収められており、そこに「万延元年庚申閏三月十七日生 以四月十七日為誕辰」とあることから、その生月日を、万延元年閏3月17日(1860年5月7日)とする説もある。
  2. ^ 海音寺潮五郎 『さむらいの本懐』 文春文庫 ISBN 4167135221、93p
  3. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  4. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。

参考文献[編集]

  • 田保橋潔「評議員萩野博士の薨去」 『史学雑誌』35-2、1924年2月
  • 揚原敏子「評伝 萩野由之」 『学苑』315、1966年3月
  • 中嶋諒「萩野由之幼少期の足跡 学習院大学史料館所蔵「萩野由之博士史料」を手がかりに」 『学習院大学史料館紀要』24、2018年3月