石川義孝
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 万治2年7月30日(1659年9月16日) |
死没 | 宝永7年9月2日(1710年10月23日) |
改名 | 昌信(初名)→義孝 |
別名 | 主税 |
戒名 | 方圓院殿日周 |
墓所 |
東京都北区田端の大久寺 京都府京都市上京区の本禅寺 |
官位 | 従五位下、越前守→主殿頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→徳川家宣 |
藩 | 山城淀藩主 |
氏族 | 三河石川氏(本姓:清和源氏) |
父母 | 父:石川憲之、母:梅園実清の娘 |
兄弟 | 昌能、義孝、堀尾勝明、阿大(酒井忠胤正室)、阿直(米倉昌照正室) |
妻 | 正室:北条氏治の娘 |
子 | 養子:総慶 |
石川 義孝(いしかわ よしたか)は、山城淀藩の第2代藩主。伊勢亀山藩石川家5代。
生涯
[編集]万治2年7月30日(1659年9月16日)、山城淀藩石川家初代藩主・石川憲之の次男として誕生した。延宝元年12月22日(1674年1月28日)、元服し、元禄元年4月(1688年5月)中奥小姓となり、元禄4年2月(1691年3月)、狭山藩主・北条氏治の娘を正室として迎えた。元禄6年12月18日(1694年1月13日)従五位下・越前守に叙任した。長兄で嫡子であった昌能、その長男であった勝之とも早世し、勝之の子・総慶が幼少であったことから、宝永2年2月28日(1705年3月23日)嗣子となり、主殿守に改められた。併せて総慶を義孝の養子とした。宝永3年2月25日(1706年4月8日)、父の隠居により家督を継いだ。
宝永5年3月8日(1708年4月28日)、宝永の大火により仙洞御所が炎上したことから、被災後の処理・御所護衛を仰せつかる。また、同6年1月15日(1709年2月24日)寛永寺で行われた5代将軍・徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられた加賀大聖寺新田藩主・前田利昌が、大准后使饗応役であった大和柳本藩主・織田秀親を同年2月16日(3月26日)に寛永寺吉祥院宿坊で刺殺した。事件後、利昌は淀藩石川義孝預かりとなり、2月18日(3月28日)下谷大名小路の淀藩石川家上屋敷(現東京都台東区上野1丁目)で切腹した。
宝永7年9月2日(1710年10月23日)、52歳で死去し、養嗣子の総慶が家督を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 北条氏治の娘
養子