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[[新進棋士奨励会|奨励会]]への入会は1965年。当時は、ライバルの[[有野芳人]]と1日100局指すという熱の入れようであった<ref name="sekai2000">「[[将棋世界]]」2000年1月号付録</ref>。 |
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1969年度後期から[[新進棋士奨励会#過去の三段リーグ|旧制度の三段リーグ]](奨励会A組)で指すが、同制度が廃止されるまでの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。この間、奨励会員であるにもかかわらず、第15回(1971年度)[[古豪新鋭戦]]で優勝している。 |
1969年度後期から[[新進棋士奨励会#過去の三段リーグ|旧制度の三段リーグ]](奨励会A組)で指すが、同制度が廃止されるまでの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。この間、奨励会員であるにもかかわらず、第15回(1971年度)[[古豪新鋭戦]]で優勝している。 |
2014年2月4日 (火) 10:47時点における版
菊地 常夫(きくち つねお、1949年6月11日 - )は、将棋棋士。2008年、引退。廣津久雄九段門下。棋士番号は119。静岡県熱海市出身。
棋歴
奨励会への入会は1965年。当時は、ライバルの有野芳人と1日100局指すという熱の入れようであった[2]。
1969年度後期から旧制度の三段リーグ(奨励会A組)で指すが、同制度が廃止されるまでの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。この間、奨励会員であるにもかかわらず、第15回(1971年度)古豪新鋭戦で優勝している。
その後、三段で12勝3敗を記録し、1975年6月19日に26歳でプロ入りを果たす。
プロ1年目(1975年度)は、第15期十段戦と第24回王座戦で一次予選を突破、第3回名棋戦でベスト8進出、第2期棋王戦で丸田祐三 を破るなどして、上々のスタートを切る。
当時、名人戦と順位戦の主催紙が朝日新聞社から毎日新聞社に移行する関係で、順位戦が1977年度に再開されるまで待たされる。その間、菊地(棋士番号119)と同時昇段の伊藤果(同118)から松浦隆一(同132)まで15人が次々とプロ入りする。その中には、中学生の谷川浩司(同131)や後にタイトルを獲る田中寅彦(同127)もいた。これにより、C級2組の人数は19名から33名に膨れ上がった。
しかし、菊地は初参加の第36期C級2組順位戦(当時の名称は「昇降級リーグ戦4組」)で10戦全勝の成績を収め、1期でC級1組へ上がる。また、この1977年度には、全棋戦を通して27勝・7割近い勝率を挙げる。
第1期(1988年度)竜王戦5組で師匠の廣津を破るなどして3位となり、4組へ昇級。
1996年度には全棋戦を通して16勝を挙げ、久々に勝ち越す。
1998年に順位戦でフリークラスへ陥落。以降10年間、順位戦に復帰することができず、2008年に引退となった。
棋風
居飛車、振り飛車のどちらも指し、四間飛車、矢倉、三間飛車が多い。
攻守のバランスが取れているが、どちらかと言えば受け将棋である。
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- 1965年 6級 = 奨励会入会
- 1975年6月19日 四段(三段で12勝3敗) = プロ入り
- 1978年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1986年4月1日 六段
- 1998年6月4日 七段(勝数規定)
- 2008年3月31日 引退
主な成績
優勝
- 第15回(1971年度)古豪新鋭戦
優勝合計 1回
在籍クラス
- 竜王戦 自己最高4組
- 順位戦 自己最高C級1組
表彰
- 現役勤続25年表彰(2000年)