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[[1981年]]に[[慶應義塾大学]][[法学部]]政治学科卒業し、[[日本興業銀行]](現[[みずほ銀行]])に入行。[[1986年]]から米国ブルッキングス研究所客員研究員を経て、[[1996年]]に[[落下傘]]ながら元[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|蔵相]][[藤井裕久]]から中選挙区時代の地盤の一部を譲り受け[[新進党]]公認で[[第41回衆議院議員選挙|衆院選]]に出馬するも、落選。[[2000年]]、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]公認で[[神奈川県第12区]]から出馬し54,237票を獲得、前職[[桜井郁三]]([[自由民主党 (日本)|自民党]])の50,814票を抑え、初当選を果たす。
[[1981年]]に[[慶應義塾大学]][[法学部]]政治学科卒業し、[[日本興業銀行]](現[[みずほ銀行]])に入行。[[1986年]]から米国ブルッキングス研究所客員研究員を経て、[[1996年]]に[[落下傘]]ながら元[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|蔵相]][[藤井裕久]]から中選挙区時代の地盤の一部を譲り受け[[新進党]]公認で[[第41回衆議院議員選挙|衆院選]]に出馬するも、落選。[[2000年]]、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]公認で[[神奈川県第12区]]から出馬し54,237票を獲得、前職[[桜井郁三]]([[自由民主党 (日本)|自民党]])の50,814票を抑え、初当選を果たす。


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しかし、{{要出典範囲|date=2013年9月|[[2002年]][[12月25日]]に[[熊谷弘]]、[[佐藤敬夫]]らと共に民主党を離党し、[[保守新党]]に参加。その際、[[小泉純一郎]]首相から「江崎君、ぼくは君のお父さんには世話になった。[[藤山愛一郎|藤山]]派で君のお父さんと僕の親父は一緒だった。選挙区もぼくの2つ隣り。君の評判はよく聞いているよ」と携帯電話で民主党離党を説得されたといわれる。}}


[[2003年]]、選挙区事情から[[第43回衆議院議員総選挙|総選挙前]]に自民党に移籍。小選挙区を桜井郁三に譲り、比例代表南関東ブロック単独2位で当選。保守新党の元所属議員らが立ち上げた[[二階派]]ではなく、[[山崎派]]に入会する。[[2005年]]の[[第44回衆議院議員総選挙|総選挙]]でも同じく衆議院比例代表南関東ブロック単独2位で当選する。
[[2003年]]、選挙区事情から[[第43回衆議院議員総選挙|総選挙前]]に自民党に移籍。小選挙区を桜井郁三に譲り、比例代表南関東ブロック単独2位で当選。保守新党の元所属議員らが立ち上げた[[二階派]]ではなく、[[山崎派]]に入会する。[[2005年]]の[[第44回衆議院議員総選挙|総選挙]]でも同じく衆議院比例代表南関東ブロック単独2位で当選する。

2013年9月12日 (木) 06:31時点における版

江﨑洋一郎
えさき よういちろう
生年月日 (1958-04-20) 1958年4月20日(66歳)
出生地 東京都新宿区
出身校 慶應義塾大学
前職 日本興業銀行職員
所属政党新進党→)
民主党→)
保守新党→)
自由民主党
親族 父・江崎真澄
兄・江崎鉄磨
公式サイト [1]

選挙区神奈川県第12区→)
比例南関東ブロック
当選回数 3回
在任期間 2000年6月25日 - 2009年7月21日
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江崎洋一郎(中央の背広を来た人物。2008年12月6日撮影)

江崎 洋一郎(えさき よういちろう、1958年4月20日 - )は、日本の政治家、元衆議院議員(3期)。

経歴

父は通産相などを務めた江崎真澄元衆議院議員で、異母兄の江崎鉄磨も自民党元衆議院議員である。

1981年慶應義塾大学法学部政治学科卒業し、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行。1986年から米国ブルッキングス研究所客員研究員を経て、1996年落下傘ながら元蔵相藤井裕久から中選挙区時代の地盤の一部を譲り受け新進党公認で衆院選に出馬するも、落選。2000年民主党公認で神奈川県第12区から出馬し54,237票を獲得、前職桜井郁三自民党)の50,814票を抑え、初当選を果たす。

しかし、2002年12月25日熊谷弘佐藤敬夫らと共に民主党を離党し、保守新党に参加。その際、小泉純一郎首相から「江崎君、ぼくは君のお父さんには世話になった。藤山派で君のお父さんと僕の親父は一緒だった。選挙区もぼくの2つ隣り。君の評判はよく聞いているよ」と携帯電話で民主党離党を説得されたといわれる。[要出典]

2003年、選挙区事情から総選挙前に自民党に移籍。小選挙区を桜井郁三に譲り、比例代表南関東ブロック単独2位で当選。保守新党の元所属議員らが立ち上げた二階派ではなく、山崎派に入会する。2005年総選挙でも同じく衆議院比例代表南関東ブロック単独2位で当選する。

2006年6月佐藤ゆかり衆議院議員と神楽坂のフレンチレストランで会食していた模様を週刊新潮にスクープされ、不倫デートと報じられた。江崎のボディータッチについて、佐藤は「散発的な不規則行為」「不倫ではなくセクハラ」とTVやHPで反論。その後、江崎は離婚。[1][2][3][4][5][6]

2006年9月安倍内閣財務大臣政務官に就任。また日韓議員連盟幹事を務める。

2009年総選挙では順位を大きく下げ比例代表南関東ブロック単独32位で立候補したが、落選した。

所属していた議員連盟

著作

  • 2002「解説 不良債権処理を促進するため、RCCの積極活用を提言する-早期の産業再生のためには金融機関に不良債権売却損の分割償却を認めることも必要-」『金融財政事情』53(27) (通号 2513)、32~37ページ。
  • 2002「レクチャー&ディスカッション 金融再生への処方箋 (特集 日本経済と雇用の再生、経済・雇用危機、今、議事堂から熟議をおこす)」Discussion journal『民主』(1) 06] 50~59ページ、翁 百合、松本 剛明らと共著。

脚注

関連項目

外部リンク

公職
先代
西田猛野上浩太郎
日本の旗 財務大臣政務官
椎名一保と共同

2006年 - 2007年
次代
宮下一郎小泉昭男