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2012年8月30日 (木) 09:46時点における版
林 正之助 | |
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生誕 |
1899年1月23日 日本・兵庫県明石市 |
死没 | 1991年4月24日 |
職業 | 実業家・芸能プロモーター |
林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年1月23日 - 1991年4月24日)は、吉本興業元会長・社長。興行師、芸能プロモーター。
風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていた。
経歴・人物
興行師として
兵庫県明石市生まれで大阪府大阪市北区出身。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。実子は林マサでその夫(娘婿)は林裕章。
1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に総監督として入社。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に初代の社長に就任。1950年に初代会長に就任していた姉吉本せいの死に伴い会長も兼務した。1963年に社長から一旦退いたが、1970年に社長に復帰した。1973年には再び社長を退いたが、1986年にはまたも社長に復帰し、1991年に死去するまで社長を務めた。
初代桂春團治・横山エンタツ・花菱アチャコ等の多くの芸人を育て上げ、なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、吉本興業を日本最大手の芸能事務所に発展させた。
一方、松竹芸能とは脅す行為を含めて、引抜きを禁止するなど激しく対立。このことから、自身の死去までは、松竹芸人とのテレビで共演させることは少なかった。
1968年1月11日、当時の山口組組長・田岡一雄と組んでレコード会社を乗っ取ろうとした容疑で兵庫県警に逮捕されている。
1991年4月24日に死去、享年92。日本の芸能プロモーターとしては当時最も高齢であり、その長寿をまっとうした。死去する3ヶ月前まで劇場運営等などを指揮をした。墓所は豊中市の服部霊園にある。
芸能プロモーターとしての評価
タレントや芸人の扱い、会社経営の全般を取り仕切り、興行師としての職務なども上手く、関西はもとより日本の芸能界・お笑い界に対して多大な影響力や同時に関西の政財界にも大きな人脈を持っていた事で知られている。また、創業者の吉本吉兵衛の死去後は、その未亡人で正之助の姉でもある吉本せいのもとで、社長・会長に就任する以前から正之助が吉本興業の経営権を事実上握っていたともいわれる。
「ビートルズを呼んだ男」であるキョードー東京の永島達司は、二周りほど年の離れた自分に対しても丁寧な態度で接してくる田岡と林の態度にも敬意を持ったが、自分たちと客の間の世代の感覚のズレを的確に認識し、その上で周囲に意見を求めるスマートな人物として後のインタビューでもこの二人を賞賛している。
演じた俳優
- 沢田研二『にっぽん笑売人』(1988年 関西テレビ 花王名人劇場枠)
- 桂三枝(現・六代目桂文枝)『桂三枝が書いた、サスペンス吉本興業~吉本興業殺人事件~』(1988年、火曜スーパーワイド (ABC/テレビ朝日系))
- 松方弘樹『俺は浪花の漫才師 笑わせまっせ泣かせまっせ!波瀾万丈の51年を生きた最後の芸人』(1997年、MBS/TBS系)
- 鎌苅健太『吉本百年物語 大将と御寮ンさん・二人の夢』(2012年)
- 六角精児『吉本百年物語 キミとボクから始まった』(2012年)
- 間寛平『吉本百年物語 舶来上等、どうでっか?』(2012年)
- 小籔千豊『吉本百年物語 笑う門には大大阪』(2012年)
- 山内圭哉『吉本百年物語 わらわし隊、大陸へ行く』(2012年)
- ぼんちおさむ(ザ・ぼんち)『吉本百年物語 焼け跡青春手帖』(2012年)
エピソード
- 大正テレビ寄席打ち切りの一件と、自身の山口組との黒い交際で永六輔から非難された。なお現在で言うところの「暴力団周辺者」であることは公然の事実である。
- 昭和34年、過労で肺炎になり入院中の大村崑を当時高価なメロンを持って見舞いに行った。その際、吉本興行との契約の話を申し出たが「これからは仕事をセーブせな又、倒れるから」と大村が断ると「メロンを持って行って断られたのはあんたが始めてや」と言われている。諦めきれず(うめだ花月劇場の開館当初の客寄せの為)花登筺を通じて契約。しかしギャラ問題で契約は短期に終わる。その後、吉本と疎遠になっていた大村だが(会長の)晩年に「崑ちゃん、あの時は悪い事したなー」と話す会長と抱き合って再会している。
- 横山やすしを可愛がり、やすしがトラブルを起こした時もかばい続けた。しかしやすしが吉本との契約解消に至った時は、「反省の色が無い。これ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」とコメントした。また仁鶴に対しては「さん」付けで呼んでいた。
- ダウンタウンが東京進出する前になんばグランド花月で漫才を公演した時、浜田雅功が冗談で「会長の杖は殴るために持っている」と言った後に、公演後に「人を殴る為に持ってへんぞ」と突っ込みを入れた。
- なんばグランド花月の完成から亡くなる3ヶ月前まで、毎日行われる興行を視察した。
- 当時の部下だった木村政雄が劇場の興行システムを10日ごとから7日ごとに変更することを直訴したところ一発返事で承認した。
- 自身の一代記を描いた「にっぽん笑売人」で冒頭とエンディングに出演。自身を演じた沢田研二等と対談した。最終回前にナレーションの桂三枝(現・六代目桂文枝)と自身の銅像前で対談し、三枝に「わしの銅像の隣に、お前の銅像も作ったるわ」と笑いながら話した。なお、未だに三枝の銅像は作られていない。
- レコード会社乗っ取り未遂を起こした際には相手方の会社に乗り込んで、「わしが田岡親分に電話一本連絡すれば、山口組の300人の兵隊が来て血の雨を降らすぞ」と息巻いた。
- 晩年、のちに東京本社の社長になる横沢彪に向かって「こんなん(新入社員)が(会社に)入ってきたら日本はつぶれまっせ」と落胆した。これは横沢によると、バブル景気が盛んな時期に男が女の便利な遊び道具にされ、結果使い捨てられるところを偶然見ていたからとの事で、これを見た林は悔しくてたまらなかったとのこと。
関係項目・人物
- 家族
- 部下
- その他
- 劇場関係
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