「関西学院大学ファイターズ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
115行目: 115行目:
1993年 関西学院大学/[[アリゾナ州立大学]] 37-27 京都大学/[[ミシガン大学]]
1993年 関西学院大学/[[アリゾナ州立大学]] 37-27 京都大学/[[ミシガン大学]]
1994年 関西学院大学/アリゾナ州立大学 7-37 京都大学/[[UCLA]]
1994年 関西学院大学/アリゾナ州立大学 7-37 京都大学/[[UCLA]]
1998年 関西学院大学/[[ワシントン州立大学]] 0-13 立命館大学/ミシガン大学
1998年 関西学院大学/[[ワシントン州立大学 (プルマン)|ワシントン州立大学]] 0-13 立命館大学/ミシガン大学
2000年 関西学院大学/[[スタンフォード大学]] 37- 0 立命館大学/アリゾナ大学
2000年 関西学院大学/[[スタンフォード大学]] 37- 0 立命館大学/アリゾナ大学
2001年 関西学院大学/スタンフォード大学 24-10 京都大学/[[オレゴン州立大学]]
2001年 関西学院大学/スタンフォード大学 24-10 京都大学/[[オレゴン州立大学]]

2011年11月27日 (日) 13:19時点における版

関西学院大学ファイターズ(かんせいがくいんだいがくファイターズ)は関西学院大学体育会に所属するアメリカンフットボール部のチーム名である。1941年創部、関西学生アメリカンフットボール連盟所属。ファイターズという名称は、1973年に当時監督だった武田建が部歌"Fight On, Kwansei"にちなんで命名した。チームカラーは1991年に現在のKGブルーに制定。それまでは(ヘルメットはメタリック・ブルー)、が使われていた。なお「FIGHTERS」の書体および三日月に「KG」の文字をあしらったロゴマークもこの年に制定されている。

創生期

関西学院大学鎧球部(アメリカンフットボール部)が発足したのは、1941年2月のことである。初代監督である川井和男の尽力により防具等が準備され、部員20名を以て発足した。3月には同年創設された関西鎧球連盟に加盟する。5月には記念すべき初戦を同志社大学を迎え、関学グラウンドで行い、0-20で関学の敗戦に終わる。その年の11月の関大・同志社・関学・関西OBクラブの4チームによる秋季リーグ戦では同志社大学に20-13で公式戦初勝利を収める。関学は関西OBクラブにも勝利したものの、関西大学に敗れ2位に終わる。

1942年には甲子園南運動場で4大学対抗鎧球大会が開催され、関東2位の慶應義塾大学と対戦。初の関西以外のチームとの対戦となったが、0-20と惨敗した。また、5月(春季)と10月(秋季)に行われた関大・同志社・関学の3校によるリーグ戦はいずれも関西大学が優勝し、関学は2位(春季)、3位(秋季)に終わった。

第二次世界大戦が激しくなった1943年、アメリカンフットボールなどのスポーツは「敵性スポーツである」と批判を浴び、文部省の解散令により関学アメフト部は解散を余儀なくされた。結局、戦時中の関学は同志社大学から3勝を挙げたが、関西大学には手も足も出ず、1勝も出来なかった。

戦後の関学

1946年にアメリカンフットボール部が再結成され、関西米式蹴球連盟設立に参加する。4月に行われた、OBも含めた全関大、全同志社による戦後初のリーグ戦は、全関大に敗れ2位に終わる。現役学生のみとなった秋季リーグ戦は、関西大学に公式戦初勝利を挙げるものの同志社大学と引き分け同率1位となる。優勝決定のプレーオフでも0-0と再び引き分け、2度目のプレーオフで7-2と同志社大学に敗れ、初代優勝校の座を逃がす。

1948年には関西大学とリーグ戦では引き分け、両校優勝ながらリーグ初優勝するがプレーオフに敗れ甲子園ボウル初出場は逃がした。

1949年は、ともに初の甲子園ボウル出場を目指す京都大学と優勝を争う。関学は京大戦に逆転勝利した勢いで、全勝で2度目のリーグ優勝を果たす。初出場した甲子園ボウルでは、慶應義塾大学を下し初優勝を飾った。

黄金時代到来

1949年に甲子園ボウル初優勝を達成して以降、1982年に京大に敗れ甲子園ボウル出場を逃がすまでの33年間、関学は大学日本一を決める甲子園ボウルに出場し続けた。この黄金時代を作り上げた要因の一つ目として、1949年の関西学院高等部、中学部におけるタッチフットボール部の創設が挙げられる。これにより関学は他校に先駆けて中学・高校・大学の10年間のフットボール一環教育を実現した。1951年に大学監督に就任した米田満は、中学部、高等部の監督も兼務することでその基礎を築いた。

二つ目の要因は、アメリカの最先端のフットボール理論をチームに導入したことである。1966年にヘッドコーチに就任した武田建は、長期の米国留学で学んだ理論をチームに導入し、甲子園ボウル5年連続優勝(1972-1976)を達成した。後に監督を務めた伊角富三、広瀬慶次郎や鳥内秀晃(現監督)も米国にコーチ留学する等それに続いた。

関学の黄金時代には、以下のような大記録が達成されている。いずれの記録も当面破られることが無い記録ばかりである。

34年連続リーグ優勝(1948-1981)

1948年は関西大学と2校同時優勝するがプレーオフに敗れ、甲子園ボウル出場は逃がしているが、リーグ戦の優勝記録としては、34年連続優勝となる。また、1976年には京都大学と、1979年には同志社大学と1980年には近畿大学と2校同時優勝となるが、いずれもプレーオフに勝利し甲子園ボウルに出場している。ちなみに連続リーグ優勝記録の第2位は、立命館大学の4年連続(2002-2005)である。なお、関学は現在までにリーグ1位となる通算47回の優勝を達成している。

33年連続甲子園ボウル出場(1949-1981)

1982年に京都大学が甲子園ボウル出場を決めた時に言われた「関学の連続優勝記録は33でストップ」は、関学の甲子園ボウル出場が33年連続で途絶えたことを意味する(リーグ優勝は上述のように34年連続である)。また、この記録には、1976年・1979年・1980年の2校同時優勝・プレーオフ勝利による出場(上述)が含まれる。これまた空前絶後の記録であり、連続出場記録の第2位は、立命館大学の4年連続(2002-2005)である。

リーグ戦145連勝(1948-1976)

リーグ戦の連勝記録は、2勝1分で関大と同率優勝となった1948年から始まっていることに留意する必要がある(プレーオフの成績は含まれない)。この連勝記録の中には、1955年から1961年にかけての27戦連続無失点勝利が含まれている。1976年に京大が21-0で勝利し連勝をストップさせたことで、関京戦におけるライバル関係が決定付けられた。しかし、前述したように関学の甲子園ボウル連続出場が途絶えるのは、それから6年後の1982年である。リーグ戦連勝記録の第2位は、関学の25連勝(1999-2002)である。

甲子園ボウル5年連続優勝(1972-1976)

関西学生リーグでは連続優勝を続けた関学であるが、甲子園ボウルでは、1953年から1956年にかけて引分けによる両校優勝(1955年対日本大学)を挟んで3連覇した後、1957年から1966年まで同じく1965年の両校優勝(対日本大学)を挟んで、日本大学、立教大学相手に9連敗を喫している。しかし、1972年から1976年には、明治大学、日本大学相手に5年連続優勝を達成した。これは甲子園ボウル史上初の快挙であった。関学は、2007年の甲子園ボウルで通算19勝となったが、これは通算18勝と並んでいた日本大学を凌いで最多勝利であり、出場回数45回、両校優勝となる引分けを含めた優勝回数23回はいずれも単独1位の記録となっている。

ライバル関係

関京戦

1947年京都大学のリーグ加盟により実現した「関京戦」は、当初、関学が圧倒的に上回っていたが、1976年京都大学が初勝利をおさめる。関学、京大が同率優勝だったその年はプレーオフで関学が勝利し、甲子園へ出場する。しかし1982年には惨敗を喫し、連続優勝は34でストップし、甲子園連続出場記録も33でついに途切れた。両校は1990年代中盤までは常に優勝を争うライバル関係であった。

赤と青の対決

甲子園ボウルにおいて、1955年の初対決(26-26で両校優勝)以降、関学と日本大学は合計25回対戦した。ともに甲子園ボウル5連覇を達成する等大学フットボールを代表するライバル関係が構築され、甲子園ボウルでの対戦では幾多の名勝負が生まれた。この間の通算成績は日大16勝、関学7勝、2引分けと日大が大きく勝ち越している。この日大との対決は関学のチームカラー:青、日大のチームカラー:赤から「赤と青の対決」と呼ばれているが、1989年の第44回大会での対戦から17年間「赤と青の甲子園」は長らく途絶えていた。2007年の第62回大会で両校は18年ぶりに対戦が実現したが、当時のルールでは、どちらか一方のチームが必ず白ジャージを着用するよう定められていたため、日大が「白」を着用し、ジャージでは「赤と青」の再現はならなかった。ただし、2004年・2006年春季の定期戦では、特別に両校がカラージャージを着用して「赤と青」が久々に見られた。

日本一への挑戦

甲子園ボウルでは最多である優勝23回を誇る関西学院大学ではあるが、ライスボウルが1983年度に日本選手権となって以降、日本大学京都大学が順調に優勝を積み重ねていくのに対し、関西学院大学は優勝に一歩届かない年が続き、一時期「社高学低」と呼ばれる一因ともなっていた。

初出場となった1985年度には「ショットガンの申し子」QB芝川龍平(現毎日放送勤務)を擁して挑んだものの、前年度に日本大を初の日本一に導いたQB松岡率いるレナウンに序盤で大量リードを許し第4クォーターの猛反撃も3点届かずに敗れる。2回目の1991年度は、怪我を克服したQB東村率いる攻撃陣がオンワード守備に封じられ、終始後手に回る展開で大敗する。3回目(1993年度)・4回目の出場(1999年度)は、いずれもアサヒビールシルバースターと対戦。1993年度は、前島・八田・林のRBトリオを始め、攻守にタレントの揃った歴代でも屈指のチームで、第4クォーター終盤にQB芝原から植村への逆転TDパスが決まり、一旦は日本一を手中にしかけたが、シルバースターQB東海辰弥の冷静かつ老練なプレーの前に再逆転を許し、僅差で日本一を逃した。1999年度は、1年時から注目されたQB有馬率いる攻撃陣がリズムをつかめない中、シルバースターRB吉岡、中村、QB金岡らに易々とゲインを許して突き放され、終盤の反撃も及ばなかった。

こうして迎えた2001年度のシーズンは、シーズン当初から日本一を目指して始動する。主将石田力哉を中心としたチームは、リーグ戦を全勝で3連覇し、甲子園ボウルでも前年苦杯をなめた法政大を一蹴し、5度目のライスボウル出場を果たした。アサヒ飲料との試合は手探り状態の続く中から、榊原のパントフェイクランを契機に流れを引き寄せ、第2クォーターに4つのタッチダウンを挙げて優位に立つ。終盤、アサヒ飲料の反撃を許すも石田率いる強力守備陣の活躍で辛くも逃げ切り、創部60年の集大成として、念願の日本一を達成した。

一つの時代の終焉

初の日本一となった関学だったが、2002年以降は立命館大学の後塵を拝することになる。2004年は3年ぶりに関立戦勝利を挙げるものの、関京戦に負け6勝1敗で立命と同率優勝。オーバータイムにもつれ込んだプレーオフに敗れ、甲子園ボウル出場はならなかった。 2005年の秋季リーグ最終戦、全勝対決となった関立戦で15-17と敗れた事で、チーム史上初めて4年連続で甲子園ボウル出場を逃す結果に終わった。2002年に入学した4年生は1947年の同ボウル開始以来初めて、一度も出場できずに引退・卒業することになり、ここで1つの時代に幕を降ろすこととなった。関立戦の終了後、2005年度主将松本喬行は試合後のインタビューの中で、未曾有の状況で新シーズンに臨む後輩に対し「あいつらならやってくれる」と話していた(読売テレビでの録画中継内)。

甲子園奪還へ

2006年春には上ヶ原キャンパス内の第3フィールドに練習拠点を移転した。人工芝敷設の新グラウンドが完成したことで練習環境も改善された。「聖地奪還」を目標とし、柏木佑介主将のもと「Fighters Unity for New Birth」をスローガンに掲げたチームは関西学生リーグを全勝で制し、5年ぶりの甲子園ボウル出場を果たすが、史上初の中断をはさむ大雨の中、法政大学に43-45で敗れる。真の「奪還」は翌2007年に、日本大学との18年ぶりの対戦となった第62回大会で41対38で勝利したことで達成された。

リクルート戦略

関学の選手育成の特徴は上述の中学部、高等部からの一貫教育が主体であったことから、かつてはほとんどが高等部から内部進学した選手であったが、現在は高等部以外の学校の卒業生も積極的に受け入れ、高等部出身者の占める割合は約半分になっている。他高の出身者も基本的に、アメフト経験者が多いのが特徴である。ライバル校である立命館大学と比べて経験者が多い分1回生から活躍する選手が多い反面、選手育成のノウハウでやや立命に遅れを取っており、それが(立命と比べての)選手層の薄さという課題となって現れていると指摘されることもある。近年では、少数だが高校までのフットボール未経験者も入部しており、スターターの座を射止めるアスリートもいる。現鳥内監督の長男、次男も入部し彼らは元高校球児の未経験者でありながら部員として将来、親子で甲子園に立つことを期している。

獲得タイトル

  • 関西学生リーグDiv.1 優勝49回(1948-1981・1984-1985・1988-1989・1991・1993・1996-1997・1999-2001・2004・2006-2007・2010)
  • 東西大学王座決定戦・甲子園ボウル
 出場45回(1949-1981・1984-1985・1988-1989・1991・1993・1997・1999-2001・2006-2007)/優勝23回※
1991年 関西学院大学 25-20 専修大学
1993年 関西学院大学 35-10 日本体育大学
1997年 関西学院大学 21-21 法政大学
1999年 関西学院大学 52-13 法政大学
2000年 関西学院大学 21-28 法政大学
2001年 関西学院大学 24- 6 法政大学
2006年 関西学院大学 43-45 法政大学
2007年 関西学院大学 41-38 日本大学 

※優勝は両校優勝4回(1955年対日本大学、1965年対立教大学、1984年対日本大学、1997年対法政大学)を含む。1991年以前の対戦成績は甲子園ボウル参照。

1985年度 関西学院大学 42-45 レナウンローバーズ
1991年度 関西学院大学  6-28 オンワードオークス
1993年度 関西学院大学 23-28 アサヒビールシルバースター
1999年度 関西学院大学 17-33 アサヒビールシルバースター
2001年度 関西学院大学 30-27 アサヒ飲料チャレンジャーズ
2007年度 関西学院大学 38-52 松下電工インパルス
  • 西日本選手権大会 優勝21回(1955-1959・1961-1965・1967-1971・1974-1976・1979・1981・1983)
  • 西日本学生選手権大会 優勝2回(1986-1987)

定期戦・交流戦

定期戦

  • 対明治大学(1947年開始)対戦成績 関学45勝 明治12勝 1引分
  • 対日本大学(1967年開始)対戦成績 関学24勝 日大14勝 2引分
※いずれも一年毎に関東/関西で交互に開催。遠征が重ならないように明治大戦が関西開催の年は、日大戦は関東開催となり、翌年はその逆となるよう調整されている。

交流戦

  • 総合関関戦(1941年開始)…毎年6月に開催される関西大学との交流戦。
  • 日本体育大学1978年開始)…毎年春季に日本体育大学を招く形で関西で開催される。
  • K.G.ボウル…関西学院大学が主催する春季の交流戦。1989年に関西学院創立100周年を記念して開催されたのが最初である(対日本大学戦・定期戦の一環)。その後、1995年の日本体育大学との東西交流戦の際に復活する。2001年からは、関西学院大学の新入生歓迎プログラムの一環として、春季シーズンのオープニングゲームに変更され現在に至る。対戦相手は毎年変わる(2006年は慶應義塾大学)。会場は王子スタジアムである。
  • フラワーボウル…K.G.ボウルの実施以前から関西学院大学の春季の主催試合につけられてきた名称。明治大・日本大との定期戦の内の関西での開催分、あるいは日本体育大学との定期交流戦にこの名が割り当てられることが多い。K.G.ボウル同様、対戦チームが固定されているわけではない。
1987年 関西学院大学 37-30 明治大学(定期戦)
1988年 関西学院大学 21-34 日本大学(定期戦)
1988年 関西学院大学 13-20 明治大学(定期戦)
1989年 関西学院大学  7-42 日本大学(定期戦)
1990年 関西学院大学 38- 7 明治大学(定期戦)
1991年 関西学院大学 28-10 日本大学(定期戦)
1994年 関西学院大学 27-36 日本体育大学
1997年 関西学院大学 25-57 法政大学
1998年 関西学院大学 34-11 東海大学
2000年 関西学院大学 59- 7 日本大学(定期戦)
2002年 関西学院大学 30-39 鹿島ディアーズ
2006年 関西学院大学  3-45 法政大学
1990年 関西学院大学/カリフォルニア大学 30-26 立教大学/アリゾナ大学
1991年 関西学院大学/ワシントン大学 45-12 明治大学/オレゴン大学
1992年 関西学院大学/ワシントン大学 10- 6 京都大学ブリガムヤング大学
1993年 関西学院大学/アリゾナ州立大学 37-27 京都大学/ミシガン大学
1994年 関西学院大学/アリゾナ州立大学 7-37 京都大学/UCLA
1998年 関西学院大学/ワシントン州立大学  0-13 立命館大学/ミシガン大学
2000年 関西学院大学/スタンフォード大学 37- 0 立命館大学/アリゾナ大学
2001年 関西学院大学/スタンフォード大学 24-10 京都大学/オレゴン州立大学

関連項目

外部リンク