コンテンツにスキップ

「重井鹿治」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
21行目: 21行目:


==経歴==
==経歴==
[[岡山県]]{{R|議衆}}[[吉備郡]][[日近村]]{{R|岡歴}}([[足守町]]日近{{R|岡百}}を経て現[[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]])で、農業・重井隆治、ぬい の息子として生まれる{{R|昭岡山220}}。1919年(大正8年)足守高等小学校を卒業し、同年夏、[[北海道]]に渡る{{R|岡歴}}{{R|岡百}}{{R|昭岡山220}}。旭川新聞社、問題社(社会問題啓蒙団体)に勤め、旭川文化協会を設立して文芸活動を推進した{{R|岡歴}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』220-221頁。</ref>。1924年(大正13年)夏、妻しげ子が長男・博を出産し、同年秋、しげ子の故郷、[[児島郡]][[藤田 (岡山)|藤田村]]都(現:岡山市[[南区 (岡山市)|南区]][[藤田 (岡山市)|藤田]])に家族で帰郷したところ、藤田[[小作争議|農業争議]]が進行中で、この支援に積極的に係わり、以後、農民運動に加わった{{R|岡歴}}{{R|岡百}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』217-220頁。</ref>。北海道に戻り、[[農民組合]]の結成に尽力し、全日本農民組合北海道連合会書記長に就任した{{R|岡歴}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』221-222頁。</ref>。
[[岡山県]]{{R|議衆}}[[吉備郡]][[日近村]]{{R|岡歴}}([[足守町]]日近{{R|岡百}}を経て現[[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]])で、農業・重井隆治、ぬい の息子として生まれる{{R|昭岡山220}}。1919年(大正8年)足守高等小学校を卒業し、同年夏、[[北海道]]に渡る{{R|岡歴}}{{R|岡百}}{{R|昭岡山220}}。旭川新聞社、問題社(社会問題啓蒙団体)に勤め、旭川文化協会を設立して文芸活動を推進した{{R|岡歴}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』220-221頁。</ref>。1924年(大正13年)夏、妻しげ子が長男・博を出産し、同年秋、しげ子の故郷、[[児島郡]][[藤田 (岡山)|藤田村]]都(現:岡山市[[南区 (岡山市)|南区]][[藤田 (岡山市)|藤田]])に家族で帰郷したところ、藤田[[小作争議|農業争議]]が進行中で、この支援に積極的に係わり、以後、農民運動に加わった{{R|岡歴}}{{R|岡百}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』217-220頁。</ref>。北海道に戻り、[[農民組合]]の結成に尽力し、全日本農民組合北海道連合会書記長に就任した{{R|岡歴}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』221-222頁。</ref>。


1928年(昭和3年)[[倉敷市]]に移り、[[倉敷駅]]前で菓子店を経営したが、1930年(昭和5年)倉敷一般労働組合を結成して委員長に就任し、[[労働争議]]の指導を行った{{R|岡歴}}{{R|岡百}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』222-223頁。</ref>。政治にも関心を持ち、倉敷市政刷新同盟を結成し、1936年(昭和11年)倉敷市会議員に当選{{R|岡歴}}{{R|岡百}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』223頁。</ref>。庶民のための実費診療所を開設した<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』223-224頁。</ref>。1937年(昭和12年)4月、[[第20回衆議院議員総選挙]]で岡山県第2区から[[社会大衆党]]公認で立候補したが次点で落選{{R|岡歴}}{{R|岡百}}{{R|一覧20}}。同年12月、[[人民戦線事件]]で検挙され投獄された{{R|岡歴}}<ref name=昭岡山224>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』224頁。</ref>。[[西村丹治郎]]の死去に伴い、1938年(昭和13年)1月、繰上補充となり衆議院議員となるが{{R|昭岡山224}}<ref>『官報』第3319号、昭和13年1月28日。</ref>、獄中のため登院は不可能で{{R|昭岡山224}}、同年8月23日に議員を辞職した{{R|岡歴}}{{R|岡百}}{{R|昭岡山224}}<ref>『官報』第3497号、昭和13年8月29日。</ref>。1941年(昭和16年)に出所したが[[特高警察]]の監視を受けた{{R|昭岡山224}}。1944年(昭和19年)思想犯追放の対象となり[[ボルネオ島]]に送られ、当初は農作業に従事したが、「鉄砲をもたぬ一等兵」として召集され、[[マラリア]]にかかり連合軍の捕虜となり、[[広島県]][[大竹市]]に上陸<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』224-225頁。</ref>。陸軍病院で静養後、1946年(昭和21年)倉敷に戻った<ref name=昭岡山225>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』225頁。</ref>。
1928年(昭和3年)[[倉敷市]]に移り、[[倉敷駅]]前で菓子店を経営したが、1930年(昭和5年)倉敷一般労働組合を結成して委員長に就任し、[[労働争議]]の指導を行った{{R|岡歴}}{{R|岡百}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』222-223頁。</ref>。政治にも関心を持ち、倉敷市政刷新同盟を結成し、1936年(昭和11年)倉敷市会議員に当選{{R|岡歴}}{{R|岡百}}<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』223頁。</ref>。庶民のための実費診療所を開設した<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』223-224頁。</ref>。1937年(昭和12年)4月、[[第20回衆議院議員総選挙]]で岡山県第2区から[[社会大衆党]]公認で立候補したが次点で落選{{R|岡歴}}{{R|岡百}}{{R|一覧20}}。同年12月、[[人民戦線事件]]で検挙され投獄された{{R|岡歴}}<ref name=昭岡山224>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』224頁。</ref>。[[西村丹治郎]]の死去に伴い、1938年(昭和13年)1月、繰上補充となり衆議院議員となるが{{R|昭岡山224}}<ref>『官報』第3319号、昭和13年1月28日。</ref>、獄中のため登院は不可能で{{R|昭岡山224}}、同年8月23日に議員を辞職した{{R|岡歴}}{{R|岡百}}{{R|昭岡山224}}<ref>『官報』第3497号、昭和13年8月29日。</ref>。1941年(昭和16年)に出所したが[[特高警察]]の監視を受けた{{R|昭岡山224}}。1944年(昭和19年)思想犯追放の対象となり[[ボルネオ島]]に送られ、当初は農作業に従事したが、「鉄砲をもたぬ一等兵」として召集され、[[マラリア]]にかかり連合軍の捕虜となり、[[広島県]][[大竹市]]に上陸<ref>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』224-225頁。</ref>。陸軍病院で静養後、1946年(昭和21年)倉敷に戻った<ref name=昭岡山225>『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』225頁。</ref>。

2024年4月6日 (土) 22:57時点における最新版

重井鹿治
しげい しかじ
生年月日 1902年1月1日
出生地 日本の旗 日本 岡山県吉備郡日近村
(現岡山市北区)
没年月日 (1966-02-16) 1966年2月16日(64歳没)
出身校 足守高等小学校卒業
前職 菓子店経営
現職 重井病院総務理事
所属政党 (社会大衆党→)
(日本社会党→)
統一社会党
配偶者 重井しげ子

選挙区 (岡山県第2選挙区→)
旧岡山2区
当選回数 2回
在任期間 1938年1月 - 1938年8月23日
1947年4月 - 1948年12月23日

テンプレートを表示

重井 鹿治(しげい しかじ、1902年明治35年)1月1日[1][2][3] - 1966年昭和41年)2月16日[1][2][4][5])は、大正末から昭和期の労働運動家、農民運動家、政治家衆議院議員

経歴[編集]

岡山県[5]吉備郡日近村[1]足守町日近[2]を経て現岡山市北区)で、農業・重井隆治、ぬい の息子として生まれる[3]。1919年(大正8年)足守高等小学校を卒業し、同年夏、北海道に渡る[1][2][3]。旭川新聞社、問題社(社会問題啓蒙団体)に勤め、旭川文化協会を設立して文芸活動を推進した[1][6]。1924年(大正13年)夏、妻しげ子が長男・博を出産し、同年秋、しげ子の故郷、児島郡藤田村都(現:岡山市南区藤田)に家族で帰郷したところ、藤田農業争議が進行中で、この支援に積極的に係わり、以後、農民運動に加わった[1][2][7]。北海道に戻り、農民組合の結成に尽力し、全日本農民組合北海道連合会書記長に就任した[1][8]

1928年(昭和3年)倉敷市に移り、倉敷駅前で菓子店を経営したが、1930年(昭和5年)倉敷一般労働組合を結成して委員長に就任し、労働争議の指導を行った[1][2][9]。政治にも関心を持ち、倉敷市政刷新同盟を結成し、1936年(昭和11年)倉敷市会議員に当選[1][2][10]。庶民のための実費診療所を開設した[11]。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から社会大衆党公認で立候補したが次点で落選[1][2][12]。同年12月、人民戦線事件で検挙され投獄された[1][13]西村丹治郎の死去に伴い、1938年(昭和13年)1月、繰上補充となり衆議院議員となるが[13][14]、獄中のため登院は不可能で[13]、同年8月23日に議員を辞職した[1][2][13][15]。1941年(昭和16年)に出所したが特高警察の監視を受けた[13]。1944年(昭和19年)思想犯追放の対象となりボルネオ島に送られ、当初は農作業に従事したが、「鉄砲をもたぬ一等兵」として召集され、マラリアにかかり連合軍の捕虜となり、広島県大竹市に上陸[16]。陸軍病院で静養後、1946年(昭和21年)倉敷に戻った[17]

1947年(昭和22年)公選初の岡山県知事選挙日本社会党から立候補したが次点で落選[17]。同年4月の第23回総選挙岡山県第2区から社会党公認で出馬して再選され[1][2][12]、衆議院議員に通算2期在任した[5]

1955年(昭和30年)倉敷市に重井診療所(翌年、重井病院に改称)を開設して総務理事に就任した[1][2][5][4]

国政選挙歴[編集]

親族[編集]

  • 妻 重井しげ子(1904-1991、社会運動家)[1]
  • 長男 重井博(重井病院長)[20]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『岡山県歴史人物事典』503頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『岡山県大百科事典 上』1157頁。
  3. ^ a b c 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』220頁。
  4. ^ a b 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』226頁。
  5. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』306頁。
  6. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』220-221頁。
  7. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』217-220頁。
  8. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』221-222頁。
  9. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』222-223頁。
  10. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』223頁。
  11. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』223-224頁。
  12. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』427頁。
  13. ^ a b c d e 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』224頁。
  14. ^ 『官報』第3319号、昭和13年1月28日。
  15. ^ 『官報』第3497号、昭和13年8月29日。
  16. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』224-225頁。
  17. ^ a b 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』225頁。
  18. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』443頁。
  19. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』305頁。
  20. ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』217頁。

参考文献[編集]

  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
  • 山陽新聞社編『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』山陽新聞社、1979年。
  • 『岡山県大百科事典 上』山陽新聞社、1980年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
先代
天野久(代理)
日本の旗 衆議院通信委員長
(代理)
次代
土井直作