「ユナイテッド航空232便不時着事故」の版間の差分

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{{Infobox Airliner incident
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|name=ユナイテッド航空 232便
|name=ユナイテッド航空232便不時着事故
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|Image caption=着陸直前に撮影されていた事故機の写真<br>(赤色で示された部分が損傷個所)
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'''ユナイテッド航空232便 緊急事故'''(ユナイテッドこうくう232びん きんきゅうちゃくりくじこ)は、[[1989年]][[7月19日]]に[[ユナイテッド航空]]の定期232便が油圧操縦不能のまま[[アイオワ州]][[スーシティ (アイオワ州)|スーシティ]]に設置されている{{仮リンク|スーゲートウェイ空港|en|Sioux Gateway Airport}}に緊急着陸、大破した事故である。乗員乗客296人中111人が死亡した
'''ユナイテッド航空232便不時着事故'''(ユナイテッドこうくう232びんふじちゃくじこ、{{lang-en|'''United Airlines Flight 232'''}})は、[[1989年]][[7月19日]]に[[ユナイテッド航空]]の定期232便が、[[アメリカ合衆国]][[アイオワ州]][[スーシティ (アイオワ州)|スーシティ]]{{仮リンク|スーゲートウェイ空港|en|Sioux Gateway Airport}}に緊急着陸を試み、大破した事故である。


事故機は[[マクドネル・ダグラス]]製[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10型機]]だった。[[ステープルトン国際空港]]から[[シカゴ・オヘア国際空港]]へ向けて飛行中に、第2エンジンのファン・ディスクが破断し、設計上の保護水準を超えたエネルギーで破片が飛散した。これにより全ての[[油圧]]操縦系統が機能喪失し、[[操縦翼面]]を操作できなくなった。偶然、事故機にはDC-10型機の機長資格を持つ訓練審査官が[[デッドヘッド|非番で搭乗]]しており、コックピットに入り正規の乗務員と協力して操縦にあたった。パイロット達は左右2基のエンジン[[推力]]の調整により操縦を試み、スー・ゲートウェイ空港まで辿り着いた。しかし、着陸寸前に機体姿勢が崩れて右翼端から接地し、機体は横転しながら大破炎上した。待機していた消防救助隊が直ちに救出活動を開始した。乗客乗員296人の半数以上が救助されたが、最終的に112人が死亡した<ref name="nbDiedLater" group="注釈"/>。
なお、ユナイテッド航空の定期232便は、「UA232」「UAL232」とも表記する。


事故調査の結果、ファン・ディスク破砕の原因は、材料のチタン合金製造時における欠陥に起因することが判明した。この欠陥から[[疲労 (材料)|疲労]]亀裂が成長し、最終的に破断に至った。ファン・ディスクは定期検査を受けていたが、検査手順における[[ヒューマンファクター|人的要因]]の限界について検討が不十分だったため、亀裂が見逃されたと結論された。
== 事故当日のユナイテッド航空232便 ==


事故機は、さらに多くの犠牲者が出てもおかしくない状況であったため、184人が生存できたことは航空界を驚かせた。事故後の[[フライトシミュレーター|シミュレーター]]試験では、油圧系統が完全に機能しなくなった状態では安全に着陸させることは困難という結論に至った。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記し、本事故は、クルー・リソース・マネジメントの成功例として知られることとなった。
* 使用機材:[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10-10]]型([[機体記号]]N1819U、[[1973年]]の製造)
* コールサイン:ユナイテッド232ヘビー
** ヘビーは重量25000ポンド以上の航空機に対して、その機の識別信号の末尾に付される。
* 予定フライトプラン:[[コロラド州]][[デンバー]]・[[ステープルトン国際空港]]発、[[イリノイ州]][[シカゴ]]・[[オヘア国際空港]]経由、[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア国際空港]]行
* 乗員:11名
* 乗客:285名
[[File:UA232map.png|thumb|300px|事故機の飛行経路。図の右上の▲印の辺りで、機体が破損した。]]


== 事故当日のユナイテッド航空232便==
== 運航乗務員の略歴 ==
{{Location map+ |USA
事故当時の運航乗務員の略歴は次の通り。年齢は共に事故当時。
|relief=2 |width=300
|caption=UAL232便の出発地である[[ステープルトン国際空港]] (DEN)、経由地の[[シカゴ・オヘア国際空港]] (ORD) 、目的地の[[フィラデルフィア国際空港]] (PHL)、事故現場のスー・ゲートウェイ空港 (SUX) を示す。
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{{Location map~ |USA |lat_deg=39 |lat_min=45 |lat_sec=38.6 |lat_dir= N |lon_deg=104 |lon_min=53 |lon_sec=31.1 |lon_dir= W |position=left |label=DEN |mark=blue_pog.svg}}
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}}
[[ユナイテッド航空]]232便(以下、UAL232便と表記<ref group="注釈" name="nbUAL">UALは、[[ユナイテッド航空]]の[[航空会社コード]]である。</ref>)は、アメリカ合衆国の国内定期旅客便であった。出発地は[[コロラド州]][[デンバー]]の[[ステープルトン国際空港]]、[[イリノイ州]][[シカゴ]]の[[シカゴ・オヘア国際空港]]を経由し、[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の[[フィラデルフィア国際空港]]へ向かう路線だった{{sfn|NTSB|1990|pp=1–2}}{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。[[1989年]][[7月19日]]の便には、乗客285人、乗員11人が搭乗していた{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。


[[File:McDonnell Douglas DC-10-10, United Airlines AN1021175.jpg|thumb|事故機と同型機]]
* 機長:アルフレッド・C・ヘインズ ({{Lang-en|[[:en:Alfred C. Haynes|Alfred C. Haynes]]}})57歳。
使用機材は、[[マクドネル・ダグラス]]社の[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10-10]]型機だった{{sfn|NTSB|1990|pp=1–2}}。DC-10型機は左右の主翼下に1基ずつと、垂直尾翼の付け根に1基の計3基の[[ターボファンエンジン]]を備えた[[旅客機]]である{{sfn|NTSB|1990|pp=1–2}}。[[機体記号]]は「N1819U」であり、1971年にユナイテッド航空へ納入された{{refnest|group="注釈"|納入年はNTSBの事故調査報告書では1971年と記されているが、1973年とする資料も複数ある<ref name=andino/><ref name=ASN/><ref>{{Cite web |title=Accident information : McDonnell Douglas DC-10 United Airlines N1819U |work=Airfleets.net |url=http://www.airfleets.net/crash/crash_report_United%20Airlines_N1819U.htm |accessdate=2016-11-04}}</ref>}}。当該便直前までの総飛行時間は43,401時間、飛行回数は16,997回だった{{sfn|NTSB|1990|pp=11–12}}。装備エンジンは[[GE・アビエーション|ゼネラル・エレクトリック]] (GE) 社の[[ゼネラル・エレクトリック CF6|CF6-6D]]だった{{sfn|NTSB|1990|pp=11–12}}。CF6-6Dエンジンは、高バイパス比{{refnest|group="注釈"|ターボファンエンジンでは、吸引された空気は、コアを通り燃焼・噴出されるものと、コアを通らず排出される(バイパスされる)ものに分けられる<ref name=encyclopedia-31/>。コアをバイパスする空気流量をコアを通る空気流量で割ったものがバイパス比であり、一般にこの値が大きいほど推進効率が高くなる<ref name=encyclopedia-31/><ref name=PHAK-6-20/>。詳細は[[ターボファンエンジン]]を参照。}}の[[ターボファンエンジン]]である{{sfn|NTSB|1990|pp=11–12}}。
*: ユナイテッド航空に1956年2月入社。総飛行時間29,967時間、そのうちDC-10での飛行時間は7,190時間で、DC-10と[[ボーイング727]]の操縦資格を持つ。
* ファーストオフィサー:ウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) 48歳。
*: 1969年8月に[[ナショナル航空]]入社。その後[[パンアメリカン航空]]を経てユナイテッド航空勤務。ファーストオフィサー(≒副操縦士)としての総飛行時間はおよそ20,000時間で、DC-10のファーストオフィサーとしては665時間を有する。[[全日本空輸]] (ANA) の機長で「事故のモンタージュ」の編者である前根明(ペンネームは岡野正治)によれば、この総飛行時間から考えれば「パンアメリカン航空で機長として飛んでいたのでは?」という。
* セカンドオフィサー:ダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) 51歳。
*: ユナイテッド航空に1986年5月入社。セカンドオフィサー(≒航空機関士)としての総飛行時間はおよそ15,000時間。そのうち727での飛行時間は1,903時間、DC-10での飛行時間は33時間。
* 機長(DC-10教官兼任):デニス・E・フィッチ({{Lang-en|[[:en:Dennis E. Fitch|Dennis E. Fitch]]}}) 46歳。
*: [[空軍州兵]]として約1,500時間程飛行した後、ユナイテッド航空に1968年2月入社。ユナイテッド航空におけるDC-10の飛行時間は総計2,987時間、内訳はセカンドオフィサーとして1,943時間、ファーストオフィサーとして965時間、機長として79時間。当時デンバーのユナイテッド航空訓練センターで教官(訓練チェッカー)として勤務していた。事故機には[[デッドヘッド|非番で便乗]]しており、事故発生後は不時着の瞬間まで彼が事故機のスラストレバー(エンジン推力制御レバー。自動車のアクセルペダルに相当)を握った。彼は[[日本航空123便墜落事故|JAL123便事故]]の教訓から油圧が抜けて操舵不能になった場合の操縦法を研究していた。2012年5月7日、[[脳腫瘍]]のため死去<ref>[http://www.dailyherald.com/article/20120508/news/705089775/ St. Charles pilot who helped save 184 dies] DailyHerald.com 2012年5月8日閲覧</ref>。


機長の{{仮リンク|アルフレッド・C・ヘインズ|en|Alfred C. Haynes}} (Alfred C. Haynes) は57歳で、1956年2月にユナイテッド航空に入社した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。同航空での飛行時間は29,967時間で、そのうち7,190時間がDC-10型機での飛行である{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。DC-10と[[ボーイング727]]の運航資格を保有し、1987年4月にDC-10の機長の資格を取得していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。
== 事故の概要 ==
[[Image:Dc10-ua2jp.png|thumb|250px|UA232便の油圧系統の破損状況の図。]]


副操縦士のウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) は48歳で、1969年8月に[[ナショナル航空]]に入社、その後[[パンアメリカン航空]]を経て1985年12月にユナイテッド航空への転職教育を完了した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。レコーズの総飛行時間は約20,000時間で、DC-10と[[ロッキード L-1011 トライスター|ロッキードL-1011]]の運航資格を取得していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。ユナイテッド航空でDC-10の副操縦士として665時間飛行していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。
[[中部夏時間]]の14時9分に[[離陸]]した当該機はアイオワ州上空11,000m(37,000フィート)付近を[[巡航]]飛行していた15時16分、機体尾部の第2エンジンの[[チタン]]合金製[[ファンブレード]]が、内在していた製造時の微少な金属構造欠陥から、[[疲労 (材料)|疲労破壊]]を起して3つの部分に破断し飛散した。


航空機関士のダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) は51歳で、1986年5月にユナイテッド航空に入社した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。総飛行時間は15,000時間で、ユナイテッド航空入社後は航空機関士としてボーイング727で1,903時間飛行、DC-10で33時間飛行していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。
飛散したファンブレードの破片はエンジンカウルを突き破り機体を貫通(アンコンテインドフェイラー)し、エンジン下に配置されていた3系統の油圧操縦系統がすべて破断された。そのためUA232便はエンジン出力の制御以外の操縦(方向舵や昇降舵の操舵など)が全くできない状態に陥った。


当該機には、DC-10の機長の資格を持つ{{仮リンク|デニス・E・フィッチ|en|Dennis E. Fitch}} (Dennis E. Fitch) も非番で[[ファーストクラス]]に搭乗していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。フィッチは46歳で1968年1月にユナイテッド航空に入社した{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。同航空への入社前に、[[空軍州兵]]として1,400から1,500時間の飛行経験があった{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。DC-10の飛行時間は2,987時間であり、そのうちで1943時間を航空機関士、965時間を副操縦士、79時間を機長として飛行していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。DC-10の訓練審査官 (Training Check Airman; TCA) の資格も保有しており、ユナイテッド航空のフライト・トレーニング・センターに勤務していた{{sfn|NTSB|1990|pp=112–113}}{{sfn|加藤|2001|pp=223–225}}。以降、彼のことをTCA機長と呼ぶ。
なお、事故の発端となったファンブレードの構造欠陥は、製造元の[[ゼネラル・エレクトリック]]やユナイテッド航空整備部門の[[探傷検査]]で見落とされ、事故の発生を防ぐ事ができなかった。


== 運航乗員対応 ==
== 事故経過==
[[File:UA232map.png|thumb|400px|事故機の飛行経路。図の中央下から右上に飛行し、▲印の辺りで機体が破損、右旋回を繰り返しながらスー・ゲートウェイ空港(図の左中央)に向かった。]]
機長のアルフレッド・C・ヘインズを始めとする3名の運航乗務員と、[[デッドヘッド|非番で便乗]]しておりヘインズに支援を要請された機長(兼任DC-10教官)デニス・E・フィッチは、目視点検により機体は油圧系統・3系統全てが切断され全滅してしまった(=操舵不能になった)ことを知る。


=== 離陸からエンジン異常発生まで===
この緊急事態にも、フィッチが[[日本航空123便墜落事故]]を教訓に、JAL123便で運航乗務員たちが行っていた油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究しシミュレータにより訓練していたことと、ヘインズ達232便運航乗務員は極めて豊富な経験を有していたことが幸いした。また、JAL123便の垂直尾翼脱落のような、機体形状へのダメージが無かったことも幸いであった(JAL123便は、油圧喪失による操縦不能に加え、尾翼喪失によって航空機として安定した飛行をする為の機体形状も失われていた)。
[[中部夏時間]]の14時09分、当該機はステープルトン国際空港を[[離陸]]した{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。予定していた巡航高度37,000フィート(約11,300メートル)まで平常通り上昇した{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。操縦は副操縦士が担当していた{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。[[オートパイロット]]が作動され、[[対気速度|指示対気速度]]270ノット(約時速500キロメートル)に飛行速度を維持するモードが使用された{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。[[飛行計画]]では[[マッハ数]]0.83で巡航することになっていた{{sfn|加藤|2001|pp=218–219}}。
彼らは残る1番(左翼)および3番(右翼)エンジンの推力操作だけで、機体の姿勢を立て直した。そして、[[アイオワ州]][[スーシティ]]の[[スーゲートウェイ空港]](IATA: SUX/ICAO: KSUX)までたどり着き、冷静沈着に不時着を試みた。


[[File:DC-10-3engines.svg|thumb|DC-10型機のエンジン配置。]]
後に彼らの行動は[[クルーリソースマネージメント]] (CRM; [[:en:Crew (or Cockpit) Resource Management]]) の成功例として全世界に知られることになった。
離陸から約1時間7分経過した15時16分10秒、乗員は大きな爆発音を聞き、続いて機体が激しく振動し始めた{{sfn|NTSB|1990|p=1}}{{sfn|加藤|2001|p=219}}{{sfn|"No Left Turns"|p=1}}。乗員はエンジン計器を点検し、尾部にある第2エンジンに異常が発生したと特定した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}{{sfn|加藤|2001|p=219}}。ただちにオートパイロットを解除し、機長は、エンジン停止時のチェックリストを指示した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}{{sfn|加藤|2001|p=219}}{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。このチェックリストを実施中に、航空機関士が機体の油圧系統の圧力計と油量系がいずれもゼロを指していることに気づいた{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。副操縦士は、機体が右旋回で降下しており、制御不能であると報告した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。機長が操縦を交代し、機体が操縦操作に反応しないことを確認した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。機長は左翼にある第1エンジンの[[推力]]を減らし、機体は左右の水平を取り戻し始めた{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。機長は、[[ラムエア・タービン|風力駆動の発電機]]を展開した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。この発電機から予備の油圧ポンプに給電される仕組みだったが、ポンプのスイッチを入れても油圧は回復しなかった{{sfn|NTSB|1990|p=1}}{{sfn|Haynes|1991|p=1}}。この時点で3系統ある油圧系統が全て機能しなくなっていた。事故後の調査で明らかになることだが、第2エンジンの破損により油圧配管が切断されたためであった{{sfn|加藤|2001|pp=242–243}}。


[[File:Dc10-ua2jp.png|thumb|250px|UA232便の油圧系統の破損状況の図。]]
== 結果 ==
15時20分、乗員は[[ミネアポリス]]の航空路交通管制センター (Air Route Traffic Control Center) に無線連絡し、緊急援助と最も近い飛行場への進路誘導を要請した{{sfn|NTSB|1990|p=1}}。この時、管制センターは、[[デモイン国際空港]]へ向かうことを提案した{{sfn|NTSB|1990|pp=1–3}}{{sfn|加藤|2001|p=221}}。[[デモイン (アイオワ州)|デモイン]]は[[アイオワ州]]の州都で、デンバーとシカゴを結ぶ線上にあたる{{sfn|加藤|2001|p=221}}。15時22分、[[航空管制官|管制官]]は乗員にUAL232便が[[スーシティ (アイオワ州)|スーシティ]]の方角へ飛行していると知らせた{{sfn|NTSB|1990|pp=1–3}}。そして、管制官はスーシティに向かうか尋ね、乗員はそうすると回答した{{sfn|NTSB|1990|pp=1–3}}。UAL232便がスーシティのスー・ゲートウェイ空港に針路をとるよう、[[航空交通管制]]のレーダー誘導が始まった{{sfn|加藤|2001|p=222}}。
トラフィックコントロールセンターに状況を報告した所、[[デモイン国際空港]]への着陸を指示されるも、機体は右旋回を続けており、現在地との関係からスーシティー・ゲートウェイ空港が指示された。不時着までの間に、[[降着装置|ランディング・ギア]]を出したり、また機体の重量削減のためと、不時着時に火災が発生した場合に備えて[[燃料投棄|過剰の燃料を投棄する]]などの対応を取った。


この間、15時21分、乗員は、ユナイテッド航空の運航管理部門にACARS(航空機と地上を結ぶテキストベースの無線データ通信システム)<ref name=encyclopedia-414/>でメッセージを送信した{{sfn|加藤|2001|pp=221–222}}。そして、無線交信を要請し、2分後に交信に成功した{{sfn|加藤|2001|p=222}}。15時25分、乗員はユナイテッド航空の運航管理部門と交信し、同航空の整備施設に直ちに繋いでほしいと要請し、同時に救難信号の「[[メーデー (遭難信号)|メーデー]]」を発信した{{sfn|加藤|2001|p=222}}。
運航乗務員達の卓越した技能と努力により不可能と考えられた不時着は敢行された。[[管制官]]や運航乗務員は、当初は使用中の[[滑走路]]31(滑走路延長2,744m)に着陸させようとした。しかし、滑走路31へ向かうには左旋回を行って空港東側を南下し、さらに右旋回を行わなければならなかった。航空機は、事故で飛行特性が変化して(エンジンの推力を操作しなければ)右旋回する傾向にあり、左旋回が困難な状況であったため、フィッチは前方にある閉鎖されていた滑走路22(滑走路延長2,012m)に正対し着陸することを決断し、要求した。管制官は閉鎖されていた滑走路に待機していた消防隊、救急隊などを移動させた上で232便に着陸を許可した。


=== TCA機長の登場===
232便は接地寸前までかなり良い精度で滑走路に正対することができたが、地上30m付近から機体のバランスが崩れ機首が下がり、また舵面が効かないため通常の着陸時より120km/h以上も速い速度で滑走路に進入し、右主翼翼端から滑走路に接触して発火。機体は文字通り火の車のように回転しながら分解しつつ大破炎上した。しかし、地上の消防救急隊 (CFR) の懸命な救出活動により、乗員乗客296名中185名が生還した。また、空港は数日前に火災訓練が行なわれており、その経験も多分に生かされていた。111名の死者の中には、[[右田・小杉・スティルカップリング|スティルカップリング]]反応に名を残す[[化学者|有機化学者]]・{{仮リンク|ジョン・K・スティル|en|John Kenneth Stille}}教授が含まれる。
第2エンジンの異常発生時、客室では食事用トレーの片付けの最中だった{{sfn|マクファーソン|1999|p=326}}。エンジンの爆発音があり、やがて機長による機内アナウンスが流れて、第2エンジンの停止が乗客に知らされた{{sfn|加藤|2001|p=222}}{{sfn|マクファーソン|1999|p=326}}。先任客室乗務員がコックピットに呼ばれ、緊急着陸に備えるよう指示された{{sfn|加藤|2001|p=222}}。客室に戻った彼女は、乗客を刺激するのを避けるため、客室乗務員を一か所に集めるのはやめて、一人ずつ状況説明して緊急着陸に備えるよう伝えた{{sfn|加藤|2001|p=222}}。客室乗務員は動揺を隠し平静さを保つよう努め、乗客に緊急時の準備をさせた{{sfn|フェイス|1998|pp=257–269}}。


問題発生より約10分後の15時26分42秒から、[[ブラックボックス (航空)|コックピットボイスレコーダー]] (CVR) の録音が残っている{{sfn|加藤|2001|p=222}}。その時、スー・ゲートウェイ空港の管制官(以下、進入管制官と呼ぶ)と交信中で状況説明を行っていた{{sfn|加藤|2001|p=222}}。15時27分、サンフランシスコの整備施設と最初の交信が行われた{{sfn|加藤|2001|p=223}}。パイロットは、整備施設に全油圧システムが停止して油量も失われた旨を伝え、支援を要請した{{sfn|加藤|2001|p=223}}。この後、事故機と整備施設の間で断続的に交信があったが、整備施設から乗員へ何か指示できることはなかった{{sfn|加藤|2001|p=223}}{{sfn|マクファーソン|1999|pp=322–362}}。
本件事故は、1992年アメリカでテレビ映画『Crash Landing: The Rescue of Flight 232(邦題:レスキューズ/緊急着陸UA232)』に描かれることとなった。また、「[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]」(第9シーズン第14話「SIOUX CITY FIREBALL」)、「[[ザ・ベストハウス123]]」、「[[奇跡体験!アンビリバボー]]」及び「[[トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン|トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン3時間スペシャル]]」、「[[世界衝撃映像100連発]]」<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/torihada/ トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン・2014年11月26日放送分の番組内容] - テレビ朝日ホームページ</ref> でも本件事故が紹介された。


15時29分、DC-10型機のTCA機長が[[デッドヘッド|非番で搭乗]]しており協力を申し出ていると、客室乗務員が機長に伝えた{{sfn|NTSB|1990|p=3}}{{sfn|加藤|2001|p=223}}。機長は直ちにTCA機長をコックピットに招き、30秒もかからずして彼はコックピットに到着した{{sfn|NTSB|1990|p=3}}{{sfn|加藤|2001|p=223}}。TCA機長が到着した時、機長と副操縦士は精一杯の力で[[操縦桿]]を左に切っていたが、機体は右旋回をしていた{{sfn|フェイス|1998|pp=260–201}}。コックピット内は緊迫しており、機長が挨拶し乗員を紹介したが、その間、誰もTCA機長の方を向く余裕もなかった{{sfn|フェイス|1998|p=261}}。
また、本件事故を調査した[[国家運輸安全委員会]] (NTSB) はクルーの行動を「期待以上」と賞賛するとともに、油圧操舵不能状態の機体を無事着陸させる訓練を運航乗務員に施すことは事実上不可能であると表明した。後にこの着陸劇は「奇跡の着陸」と呼ばれるようになり、ヘインズ機長以下4名はアメリカ航空界において最も栄誉ある「ポラリス賞」を受賞するに至った。


機長はTCA機長に状況を説明し、機体を制御する手段が全くないと伝えた{{sfn|加藤|2001|p=225}}。機長は、客室の窓から外部の損傷がないか、そして操縦翼面が操作に反応しているか確認するようTCA機長に依頼した{{sfn|加藤|2001|p=225}}{{sfn|フェイス|1998|p=260}}。外観確認を終えたTCA機長は、コックピットに戻り、内側[[エルロン]]は無傷だが僅かに上向きで固定されていたことと、[[スポイラー]]が下げ位置でロックされていることを報告した{{sfn|NTSB|1990|p=3}}{{sfn|加藤|2001|p=226}}。[[操縦翼面|主操縦翼面]]は動作していなかった{{sfn|NTSB|1990|p=3}}。
[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) は本件事故およびJAL123便事故の発生に鑑み、対応策として、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している<ref>{{cite web|url=http://www.nasa.gov/centers/dryden/history/pastprojects/PCA/#.VIC3QHu7a1s|title=NASA Dryden Past Projects: Propulsion Controlled Aircraft (PCA)|publisher=NASA/Dryden Flight Research Center|accessdate=2014-12-05}}</ref>。また、三菱重工でも同様の研究が行われている<ref>{{cite web|url=http://www.mhi.co.jp/technology/review/pdf/484/484002.pdf|title=全舵面不作動時に推力増減のみで航空機を制御する技術|publisher=三菱重工技報|format=PDF|accessdate=2014-12-05}}</ref>。


[[File:DC-10 flight deck.jpg|thumb|DC-10型機のコックピット。写真中央の3本のレバーがスロットル。]]
今日、高品質が要求される航空宇宙材料では、本事故の原因となったチタン合金材の不純物除去のため、真空中で溶解して不純物除去することを3度繰り返す三重溶解が実施されている。これにより、チタン合金の機械強度を低下させ金属疲労発生の原因となる酸素・窒素などの反応性ガスを合金内から徹底して除去している<ref>チタン溶解技術の進歩 チタン開発 50 周年特集 KOBE STEEL ENGINEERING REPORTS/Vol. 49 No. 3 (Dec. 1999)</ref>。
機長は、TCA機長にエンジンのスロットルの制御を指示した{{sfn|加藤|2001|p=226}}。これにより、機長と副操縦士が他の操作や管制塔との通信などに専念できるようになった{{sfn|加藤|2001|p=226}}{{sfn|フェイス|1998|p=262}}。スロットルは、機長席と副操縦士席の間のペデスタル(中央制御卓)にある。TCA機長は、ペデスタルの後ろにひざまずき、スロットル・レバーを調整を担った{{sfn|加藤|2001|p=226}}。TCA機長は、エンジン出力で[[ピッチング|ピッチ]]と[[ローリング|ロール]]を制御しようと試みた{{sfn|NTSB|1990|p=3}}{{sfn|加藤|2001|p=228}}。機体は常に右旋回する傾向があったほか、安定したピッチ姿勢を維持するのが難しくなっていた{{sfn|NTSB|1990|p=3}}{{sfn|加藤|2001|p=228}}。TCA機長は、第1エンジン(左翼側)と第3エンジン(右翼側)の推力を対称にできないと考え、両手でそれぞれのレバーを操作した{{sfn|NTSB|1990|p=3}}{{sfn|加藤|2001|p=228}}。


=== 緊急着陸の決断と準備 ===
== 脚注 ==
15時32分、TCA機長が客室乗務員達はゆっくり準備をしていたと伝えた{{sfn|加藤|2001|p=226}}。これを受けて機長は不時着の可能性を示唆し、備えを急いだ方が良いと答えた{{sfn|加藤|2001|p=226}}。間もなく、機長はスー・ゲートウェイ空港の進入管制官に「油圧の作動液を失い、[[昇降舵]]を制御できないこと、滑走路にたどり着けず、不時着する可能性がある」と伝えた{{sfn|加藤|2001|p=227}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=3}}。ユナイテッド航空の運航管理部門も直接スー・ゲートウェイ空港の管制塔に連絡し、緊急着陸、消火、救命に関する準備を要請していた{{sfn|加藤|2001|p=227}}。

15時34分、機長はスー・ゲートウェイ空港に着陸を試みる決断をした{{sfn|加藤|2001|p=227}}。航空機関士に、[[高揚力装置]]を使用せず着陸する場合の情報を求めた{{sfn|加藤|2001|p=227}}。さらに機長は、進入管制官に[[計器着陸装置]]の周波数、および滑走路の方向と長さを問い合わせた{{sfn|加藤|2001|p=227}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=4}}。管制官は周波数を回答し、UAL232便の現在地と進路、そして滑走路31の長さを伝えた{{sfn|加藤|2001|p=227}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=4}}。この時、UAL232便はスー・ゲートウェイ空港から北東約35マイル(約65km)の地点にいた{{sfn|加藤|2001|p=227}}。

15時35分、機長は航空機関士に急速投棄で[[燃料投棄|燃料を放出]]するよう指示した{{sfn|加藤|2001|p=227}}。燃料は33,500[[ポンド (質量)|ポンド]](約15トン)を残して自動的に放出停止された{{sfn|加藤|2001|p=227}}。15時38分、パイロットの一人が「クリーン形態(高揚力装置と[[降着装置]]を格納した状態)の進入操作速度は200ノット(時速約370km)だろう」と発言した{{sfn|NTSB|1990|p=22}}{{sfn|加藤|2001|p=228}}。副操縦士が、機長に200と185にバグ(速度計の淵にある可動式の目盛り)をセットするよう求めた{{sfn|NTSB|1990|p=22}}{{sfn|加藤|2001|p=228}}。

15時40分、機長は先任客室乗務員に、客室は全員準備できているか尋ねた{{sfn|加藤|2001|p=228}}。機長は、この乗務員に油圧系統の喪失により機体をほとんど操縦できないことと、スーシティに向かっていることを伝えた{{sfn|加藤|2001|p=228}}。そして、難しい着陸で結果がどうなるかわからない、そして脱出を成功させられるかもわからないとも述べた{{sfn|加藤|2001|p=228–229}}。機長は、着陸へ備える時になったら客室へ警報放送「ブレース、ブレース、ブレース」を流すと伝えた{{sfn|加藤|2001|p=228–229}}。「ブレース」とは、衝撃を低減するために体を前に折り曲げる[[不時着時の姿勢]]のことである{{sfn|加藤|2001|p=229}}。

15時41分、空港の進入管制官からUAL232便に緊急時の装備が待機していると連絡が入る{{sfn|加藤|2001|p=229}}。続いて、航空機関士より客室乗務員が翼の損傷を目撃したと言っていると報告が上がった{{sfn|加藤|2001|p=229}}。航空機関士が後部に確認に行くか尋ね、これを機長が許可した{{sfn|加藤|2001|p=229}}。航空機関士はコックピットを離れ約2分半後に戻った{{sfn|加藤|2001|p=229}}。彼は機体の尾部に損傷があると報告し、機長は「それこそ私が考えていたことだ」と言った{{sfn|加藤|2001|p=229}}。

15時48分、降着装置(ギア)が降ろされた{{sfn|加藤|2001|p=229}}。油圧が使えないため、重力を利用する予備 (alternate) の方法でギアが降ろされたとパイロット同士が会話している{{sfn|Aviatin Safety Netwrk CVR/FDR|p=8}}。15時49分、機長はパイロットたちに座席のベルトをしっかり締め、周囲を片付けるよう指示した{{sfn|加藤|2001|pp=229–230}}。TCA機長は航空機関士席でベルトを締め、スロットルの操作を続けた{{sfn|加藤|2001|p=230}}。

=== 最終進入まで ===
15時51分、管制官は、UAL232便が空港の北21マイル(約39キロメートル)の地点にいると知らせた{{sfn|加藤|2001|p=230}}。続けて、旋回を少し広げて経路を左へ向けることを求めた{{sfn|加藤|2001|p=230}}{{sfn|NTSB|1990|p=22}}。これは、UAL232便が最終進入経路の入るためであり、当該機を市街地から遠ざけることもできるためであった{{sfn|加藤|2001|p=230}}。これに対し機長は、何であれ当該機を市街地から離して欲しいと応答した{{sfn|加藤|2001|p=230}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=10}}。数秒後、管制官はUAL232便に方位180度へ旋回するよう求めた{{sfn|加藤|2001|p=230}}。15時52分には進行方向右側に高さ約100メートル前後の障害物があると注意喚起した{{sfn|加藤|2001|p=230}}。続けて、管制官は、どの程度急な右旋回が可能か質問した{{sfn|加藤|2001|p=231}}。機長は、[[ローリング|バンク]]角30度を試みていると答えたが、乗員の1人はそんな急バンクはできないと発言している{{sfn|加藤|2001|p=231}}。

15時55分ごろ、機長は「放送して彼らにあと4分と伝えよ」と指示{{sfn|加藤|2001|pp=231–232}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=11}}。副操縦士が管制官に「あと3、4分で到着」と通信したが、機長はすぐに「放送、放送。乗客に伝えよ」と正した{{sfn|加藤|2001|pp=231–232}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=11}}。これを受けて航空機関士が「あと4分で着陸」と機内放送した{{sfn|加藤|2001|pp=231–232}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|p=11}}。

当初、進入管制官は滑走路31に着陸させようとしていた{{sfn|加藤|2001|pp=232–234}}{{sfn|NTSB|1990|p=3}}。「あと4分」と機内放送されたころ、UAL232便は、空港の北西約18マイル(約33キロメートル)の地点を飛行していた{{sfn|加藤|2001|pp=232–234}}。機長は、ここから滑走路31に回り込むことは困難と判断し、ほぼ直線上に位置していた滑走路22への着陸を決めた{{sfn|加藤|2001|pp=232–234}}。

15時57分から59分にかけて、UAL232便と管制塔との間では、概ね以下のような交信が行われた{{sfn|加藤|2001|p=234}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|pp=12–13}}{{sfn|NTSB|1990|p=23}}。
* 管制官「ユナイテッド232便、空港は12時の方向、13[[海里]](約24キロメートル)」
* 機長「OK、探している」
* 機長「空港の標高は?」
* 管制官「1,100フィート(約335メートル)」
* 機長「ありがとう…、当機は降下を開始している」
* 管制官「ユナイテッド232便、了解。空港は12時の方向、10海里(約19キロメートル)」
* 管制官「ユナイテッド232便、もし空港までたどり着けなければ[[州間高速道路]]がある。空港の東端、南北に通っている、4車線だ」
* 機長「たった今我々は道路を通過した。空港へ向おうとしている」
* 機長「滑走路が見えた、滑走路が見えた、滑走路が見えた。間もなくだ。支援を感謝する」
* 管制官「ユナイテッド232、風は360度(の方向)から11ノット、どの滑走路でも着陸を許可する」
* 機長「(笑い声)了解(笑い声)。君は滑走路を指定して着陸させたいって言うのかい?」
* 機長「OK、3本の滑走路を把握している。風の状況をもう一度」
* 管制官「風は010度から11ノット。滑走路のうちの1本は閉鎖されているが、おそらく使えるだろう。北東から南西へ走っている」
* 機長「我々は非常にうまく、この滑走路と一直線になっている…」
* 管制官「ユナイテッド232便、一直線になっている滑走路は、滑走路22で閉鎖されている。使用可能にする。今、滑走路から機材を取り除いている。この滑走路と一列になっている」
* 機長「滑走路の長さは?」
* 管制官「6,600フィート(約2,012メートル)、機材を撤去中」
* 管制官「滑走路の終端はオープンフィールド(開けた場所)だ」
滑走路が目視できた直後、機長の指示で、コックピットから「あと2分」と機内放送がされた{{sfn|NTSB|1990|p=23}}。そして、乗客に衝撃防止姿勢をとるよう客室乗務員が大声で呼びかけた{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|pp=12–13}}。

=== 着陸そして大破 ===
15時59分時点におけるスー・ゲートウェイ空港の天候は、[[ちぎれ雲|一部曇り]]で周囲には[[積雲]]があった{{sfn|NTSB|1990|p=19}}。視程は15マイル(24キロメートル)、風は360度の方角から風速14ノット(約26キロメートル毎時)だった{{sfn|NTSB|1990|p=19}}。

進入中、高揚力装置は格納されたままだった{{sfn|NTSB|1990|p=3}}。TCA機長は、副操縦士の速度計と機外を見ながら、第1、第3エンジンのスロットルレバーを操作していた{{sfn|加藤|2001|p=236}}。TCA機長は、高揚力装置を使用しない進入の経験から、降下を制御するためには推力を用いる必要があることを知っていた{{sfn|加藤|2001|p=236}}。TCA機長の証言によると、彼は進入中にスロットルを一定にすることはなく、常に調整し続けた{{sfn|加藤|2001|p=236}}{{sfn|NTSB|1990|p=5}}。15時59分44秒から8秒間、[[対地接近警報装置]]が、降下率が大きいことを警告した{{sfn|加藤|2001|p=235}}。

ここから着地までのコックピットボイスレコーダーの記録は概ね以下のとおりである{{sfn|加藤|2001|pp=235–237}}{{sfn|"Aviation Safety Network CVR/FDR"|pp=12–13}}{{sfn|NTSB|1990|p=23}}。
* 15時59分58秒:機長「スロットルを閉じよ」
* 16時00分01秒:TCA機長「いや、スロットルは引けない。そうしたら失敗する」
* 4秒後:副操縦士「左、アル」「左スロットル」「左、左、左、左…」
* 16時09分09秒:別の対地接近警報が鳴り始める
* 続けて、副操縦士「曲がってる、曲がってる、曲がってる」
* 16時00分16秒:衝撃音、そして記録終了

[[File:Sioux Gateway Airport-2006-USGS-mod.svg|thumb|スー・ゲートウェイ空港に不時着したユナイテッド航空232便の経路概略。航空写真は2006年撮影のものであり、事故当時とは異なる。]]
着地までの20秒間、事故機は[[対気速度]]が215ノット(時速約398キロメートル)、降下率が毎分1620フィート(約494メートル)で飛行した{{sfn|加藤|2001|p=235}}。ピッチとロールの緩やかな振動が続いていたが、着地寸前に右主翼が急激に下がった{{sfn|加藤|2001|p=236}}。この時、地上100フィート(約30メートル)で、ほぼ同時に機首が下がり始めたと機長は証言している{{sfn|加藤|2001|p=236}}。機体は滑走路22の終端、センターラインのやや左側に着地した{{sfn|加藤|2001|p=237}}。右主翼の翼端が地面に接触し、続いて右エンジンと右[[降着装置|主脚]]が接地した{{sfn|加藤|2001|p=237}}{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。右エンジンは接地してすぐ爆発炎上した{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。機体は滑走路右側に横滑りし、右主翼と機体尾部が分離した{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}{{sfn|加藤|2001|p=237}}。残りの機体も火の車のように横転しながら分解、炎上しつつ滑走路17を横切って停止した{{sfn|加藤|2001|p=237}}{{sfn|Conroy|2005|p=2}}{{sfn|NTSB|1990|p=5}}{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。裏返しになった胴体中央部は、最初の着地点から3,700フィート(約1キロメートル)離れたトウモロコシ畑で停止した{{sfn|加藤|2001|p=239}}。機体は衝撃と火災で破壊された{{sfn|加藤|2001|pp=237–238}}。

=== 救助活動 ===
スー・ゲートウェイ空港は軍民共用空港であり、消防救助隊 (Aircraft rescue and firefighting ARFF) は、[[州兵]]が担当していた{{sfn|Conroy|2005|p=1}}。15時25分ごろ、消防救助隊に緊急事態の通報が入り、部隊の全車両5台が出動した{{sfn|NTSB|1990|p=35}}。同空港は普段DC-10型機が就航しておらず、同型機の緊急事態に必要な装備を有していなかった{{sfn|NTSB|1990|pp=20–21}}。15時34分に、同空港は最高レベルの緊急事態警報を発令し、ただちに地域緊急対応計画に従いスーシティ消防部の応援車両も加わったほか、スー・シティと相互援助協定を結んでいた近隣自治体からの応援も集まった{{sfn|加藤|2001|p=238}}{{sfn|Larson|Metzger|Cahn|2006|p=491}}。この間、管制塔からは救助隊に、当該機は空港まで到達できず、空港およそ5マイル(約9キロメートル)南に墜落する可能性も伝えられていた{{sfn|加藤|2001|p=238}}。

15時47分、消防救助隊長に、UAL232便は空港に向かっており滑走路31に着陸する見込みとの連絡が入った{{sfn|加藤|2001|p=238}}{{sfn|NTSB|1990|p=37}}。消防救助隊は直ちに滑走路31に沿って配置についた{{sfn|加藤|2001|p=238}}。しかし、15時59分に管制塔から消防救助隊に対し、DC-10型機は滑走路31ではなく滑走路22に着陸するだろうと連絡が入った{{sfn|加藤|2001|p=238}}。管制塔から消防救助隊に、数台の車両が進入経路沿いにいるので直ちに移動するよう指示が入った{{sfn|加藤|2001|p=238}}。

車両の再配置が完了するより早くUAL232便は空港に到達し、前述の通り着陸を試みたが接地後に横転して分解・炎上した{{sfn|加藤|2001|pp=237–239}}。搭乗者の一部は、衝撃で機外へ放り出された<ref name=asahi-19890720-e-19/>{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。機体の停止後は、自力で脱出できた人も多かったが、機内に閉じ込められた人も少なくなかった{{sfn|加藤|2001|p=239}}<ref name=asahi-19890720-e-19/>{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。

当該機の墜落後、消防救助隊の全車両は滑走路22と滑走路17の交点に急行した{{sfn|加藤|2001|p=239}}。隊長は素早く機体尾部を調査し、16時01分頃、全隊にトウモロコシ畑の機体中央部へ進むよう指示した{{sfn|加藤|2001|p=239}}。最初に現場に到着した車両は、胴体中央部分に向けて消火剤を散布した{{sfn|加藤|2001|p=240}}。16時04分ごろ、この車両は搭載していた水を使い果たしたが、後続の車両が到着して消火活動が続けられた{{sfn|加藤|2001|pp=240–241}}。火は右主翼部で激しく機体内部に広がり、17時ごろまで火勢が強くなり続けた{{sfn|加藤|2001|p=241}}。墜落から2時間ほど火災を制圧できず、小さい火は夜まで続いた{{sfn|加藤|2001|p=241}}。

脱出した乗客は「他の乗客がトウモロコシの茎の間にいそうだ」と消防救助隊に伝えた{{sfn|加藤|2001|p=240}}。トウモロコシは約7フィート(約2メートル)の高さがあり、生存者は後に「高いトウモロコシの茎のため方向がわからなかった」と証言した{{sfn|加藤|2001|p=240}}。地代収入を見込んで空港の土地をトウモロコシ畑としてリースしていたが、このトウモロコシは、被害者の捜索・救助活動を困難にした{{sfn|Conroy|2005|pp=3–4}}。

救助活動に際し[[トリアージ]]が実施され、救助された人たちは重症度に応じて搬送された{{sfn|加藤|2001|p=238}}{{sfn|Larson|Metzger|Cahn|2006|p=491}}。34台の救急車と9機のヘリコプターが動員され、救助された人々が地元の病院へ搬送された{{sfn|Conroy|2005|p=3}}<ref name=asahi-19890720-e-1/>。警察は空港と病院の間の主要高速道路を封鎖し、緊急車両の通行を優先させた{{sfn|Larson|Metzger|Cahn|2006|p=491}}。最初の搬送者は事故後16分で病院へ到着した{{sfn|Larson|Metzger|Cahn|2006|p=491}}。

現場の空港では、1987年10月に、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた{{sfn|Conroy|2005|pp=4–5}}。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に生かされた{{sfn|Conroy|2005|pp=4–5}}。救助活動は、後にアメリカ[[連邦航空局]] (Federal Aviation Administration; FAA) により賞賛されたほどの水準だったが、機内に取り残され呼吸困難で亡くなった人も多かった{{sfn|"No Left Turns"|p=2}}。

=== 被害状況===
[[File:UnitedAirlines232SeatInjuryMap.JPG|thumb|各座席における負傷・死亡状況]]
搭乗者296人のうち乗員1人と乗客110人が死亡した{{sfn|加藤|2001|p=238}}。死因は35パーセントが煙による窒息で、残りは衝撃による外傷によるものだった{{sfn|NTSB|1990|p=35}}。犠牲者の中には、[[右田・小杉・スティルカップリング]]の発見者である[[化学者]]・{{仮リンク|ジョン・ケネス・スティル|en|John Kenneth Stille}}がいた<ref>{{Cite journal |journal=Macromolecules |title=In memory of John Kenneth Stille |last=Lenz |first=R.W. |year=1990 |volume=23 |issue=9 |pages=2417–2418 |doi=10.1021/ma00211a001|url=http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ma00211a001}}</ref>。生存者のうち、乗員6人と乗客41人が重傷を負った{{sfn|加藤|2001|p=238}}。重症の乗客のうち1人は事故の怪我により31日後に亡くなった{{sfn|NTSB|1990|p=5}}<ref name="nbDiedLater" group="注釈"/>。残る乗員4人と乗客121人は軽症で、無傷の乗客も13人いた{{sfn|加藤|2001|p=238}}。

コックピット部分は機体から分離して腰高ほどに潰れていたことから、生存者がいるとは思われず、救助隊も後回しにした{{sfn|Haynes|1991|p=10}}。しかし、コックピット内の4人は全員生存していた{{sfn|Haynes|1991|p=10}}。残骸の窓から航空機関士の手が出ていたのを発見され、全員救助された{{sfn|フェイス|1998|p=266}}{{sfn|Haynes|1991|p=10}}。コックピットの救助活動には[[フォークリフト]]も投入された{{sfn|Conroy|2005|p=5}}。4人のパイロット達はそれぞれ、多数の骨折や打撲を伴う重症だったが、幸いにも回復し全員乗務に復帰した{{sfn|Haynes|1991|p=10}}。客室乗務員も1名は亡くなったが、助かった者は後に全員復職した{{sfn|Haynes|1991|p=10}}。

== 事故調査==
アメリカの[[国家運輸安全委員会]] (National Transportation Safety Board; NTSB) を中心に事故調査が行われた<ref name=ASN/><ref name=nikkei-19890721-d-35/>。本事故の情報は、まだUAL232便が飛行しているうちにFAAとNTSBに伝わり、直ちに調査チームが編成された{{sfn|フェイス|1998|p=185}}。調査官らが現場へ向かう飛行機を待っていたところ、テレビで事故機が横転炎上する様子が放映された{{sfn|フェイス|1998|p=185}}。現場への移動中に生存者がいるという情報が入り、調査官は驚いたという{{sfn|フェイス|1998|p=185}}。

事故機の右主翼は接地後すぐに分離したが、胴体中央部と左主翼はほぼ一体のまま滑走路17を横断した先にあった{{sfn|NTSB|1990|p=6}}。機首部は接地後早い段階で分離し、滑走路17を横切る直前の場所に転がった{{sfn|NTSB|1990|pp=6, 10}}。尾部の大部分は滑走路22、滑走路17そして付近の誘導路上にあった{{sfn|NTSB|1990|pp=6, 10}}。

[[ブラックボックス (航空)|フライトデータレコーダー]]は損傷もなく回収に成功した{{sfn|NTSB|1990|pp=23–24}}。フライトデータレコーダーは不時着時まで正常に稼働しており、事故時のフライトを含む25時間分のデータが、概ね良好な状態で得られた{{sfn|NTSB|1990|pp=23–24}}。フライトデータレコーダーの記録から、第2エンジンが損傷したのは15時16分10秒だと分かった{{sfn|NTSB|1990|p=24}}。

[[ブラックボックス (航空)|コックピットボイスレコーダー]]も、15時26分42秒から33分34秒間の音声を良好な状態で記録していた{{sfn|NTSB|1990|p=21}}。

スー・ゲートウェイ空港への進入中に事故機の写真が撮影されており、事故調査のため分析された{{sfn|加藤|2001|p=241}}{{sfn|NTSB|1990|pp=6, 73}}。

=== なぜ油圧系統が喪失したか===
写真解析の結果、機体第2エンジンや機体尾部に損傷があったことが分かった{{sfn|加藤|2001|p=241}}{{sfn|NTSB|1990|p=6}}。第2エンジン右側のファン・カウリング(ファンの覆い)とテイル・コーン(胴体の最後尾部分)が失われ、水平尾翼にも3か所の穴が開いていた{{sfn|加藤|2001|p=241}}{{sfn|NTSB|1990|p=6}}。残りの機体尾部そして第2エンジンは、概ね損なわれずにスー・ゲートウェイ空港の事故現場で発見された{{sfn|NTSB|1990|p=6}}。
尾部を復元、調査したところ、第2エンジンの第1段ファンとその付近の回転軸は、飛行中に分離したことが分かった{{sfn|フェイス|1998|p=185}}{{sfn|加藤|2001|p=241}}{{sfn|NTSB|1990|pp=6–9}}。第2エンジンと尾部のうち飛行中に失われた部品は、後述のとおり、後日[[アイオワ州]]{{仮リンク|アルタ (アイオワ州)|label=アルタ|en|Alta, Iowa}}付近で発見された{{sfn|加藤|2001|p=241}}。NTSBは、油圧喪失は以下のように起きたと結論付けた{{sfn|加藤|2001|p=241}}。まず、第2エンジンの第1段ファン・ディスクが破砕して分離した{{sfn|加藤|2001|p=241}}{{sfn|NTSB|1990|pp=74–75}}。これにより、エンジン回転部分の部品が強いエネルギーで飛散し、機体構造部分を貫通した{{sfn|加藤|2001|p=241}}{{sfn|NTSB|1990|pp=74–75}}。

事故機のエンジンは、ゼネラル・エレクトリック (GE) 社製のCF6-6エンジンだった{{sfn|加藤|2001|p=243}}。このエンジンは、[[ターボファン]]エンジンであり、コア・エンジンのジェットでタービンを回す{{sfn|加藤|2001|p=248}}{{refnest|group="注釈"|コアとは、ターボファンエンジンのエンジン駆動力を発生させる内燃機関部のこと<ref name=encyclopedia-31/>。詳細は[[ターボファンエンジン]]を参照。}}。タービンが回転することで、シャフトで接続された前方のファンが回転する{{sfn|加藤|2001|p=248}}。ファンは、円盤(ファン・ディスク)の周辺に羽根(ファン・ブレード)を多数並べた構造をしている{{sfn|加藤|2001|p=244}}{{sfn|フェイス|1998|p=186}}<ref name=encyclopedia-46/>。第1段ファン・ディスクは鍛造[[チタン]]合金製で、重量は370ポンド(約168キログラム)である{{sfn|加藤|2001|pp=245–246}}。

[[File:General Electric CF6.jpg|thumb|left|CF6エンジンの外観。黄色の円筒部がコンテインメント・リング。]]
ファンは直径も重量も大きいため、エンジンには、ファンが壊れた際に破片が飛び出すのを防ぐ「コンテインメント・リング」(封じ込めリング)が設けられている{{sfn|加藤|2001|p=249}}。前方のコンテインメント・リングは、[[ステンレス鋼]]製の円筒形で、直径が86インチ(約2.18メートル)、軸方向の長さが16インチ(約0.41メートル)である{{sfn|加藤|2001|p=249}}{{sfn|NTSB|1990|p=47}}。このコンテインメント・リングは、ファン・ブレード1枚とその付随物の飛散に対処できるよう設計されていたが、本事故で飛散したのはブレード1枚ではなかった{{sfn|加藤|2001|p=249}}。

[[File:UA232damage.png|thumb|機体尾部と油圧系統の損傷箇所。]]
第1、第3油圧系統は、右の[[水平尾翼|水平安定板]]内で油圧管が破断しており、破断面からはチタン合金が発見された{{sfn|加藤|2001|p=242}}。第1段ファン・ディスクやファン・ブレードを始め、一部のエンジン部品には、チタン合金が用いられていた{{sfn|加藤|2001|p=242}}。一方で、周辺の機体構造にはチタン合金は使用されていない{{sfn|加藤|2001|p=242}}。NTSBは、断面のチタン合金を分析し、第1、第3の油圧管は第2エンジンから飛散した破片で切断されたと特定した{{sfn|NTSB|1990|pp=32–35}}。

第2油圧系統の油圧ポンプは、第2エンジンのアクセサリー・セクション(補機部)にあった{{sfn|加藤|2001|pp=242–243}}。そして、その位置はエンジンのファン・セクション直下だった{{sfn|加藤|2001|p=243}}。第2エンジンのアクセサリー・セクションおよび油圧配管を含む第2油圧系統の一部は、アイオワ州アルタ地区で発見された{{sfn|加藤|2001|p=243}}。したがって、第2油圧系統については、第2エンジンのアクセサリー・セクション付近がエンジン破損時に破壊されたと判断された{{sfn|加藤|2001|p=243}}{{sfn|NTSB|1990|p=75}}。

エンジンが破損した直後、パイロット達は油圧3系統全てで作動液と圧力がゼロになったのを確認している{{sfn|加藤|2001|p=241}}。フライトデータレコーダーの記録では、破損の1分後には操縦翼面は油圧による動きがなくなっていた{{sfn|加藤|2001|pp=241–242}}。油圧系統の破壊は、猛烈かつ突然だった{{sfn|加藤|2001|p=242}}。

=== ファン・ディスクの捜索===
飛行中に落下した部品の捜索が始まった{{sfn|加藤|2001|p=245}}{{sfn|フェイス|1998|pp=185–187}}。事故時にアイオワ州アルタ周辺に部品が落下しており、地元住民から、胴体やテイル・コーン、エンジン部品などの破片の情報が寄せられた{{sfn|加藤|2001|p=245}}。しかし、ファン・ディスクはなかなか発見されなかった{{sfn|フェイス|1998|pp=185–187}}。現場周辺はトウモロコシ畑が広がっていた{{sfn|フェイス|1998|pp=185–186}}。事故が起きた7月には、トウモロコシは大人の背丈ほどまで成長しており、畑の中で周りを見通すことは困難だった{{sfn|フェイス|1998|pp=185–186}}。

50日ほどで刈り入れするので、ディスクも見つかるだろうと地元住民は話したが、NTSBは早急に回収するため、様々な手段で捜索にあたった{{sfn|フェイス|1998|p=186}}。落下位置を計算して捜索範囲を設定し、赤外線カメラで捜索したり、ヘリコプターで上空から探索したりしたが、発見できなかった{{sfn|フェイス|1998|p=186}}。エンジンを製造したGE社が賞金を出すと言いだすほどだった{{sfn|フェイス|1998|p=186}}。結局、事故から3か月後、落下想定地域の農業従事者によってトウモロコシの収穫中にディスクが発見された{{sfn|フェイス|1998|pp=186–187}}。発見者は一躍有名人となり、マスコミに注目された{{sfn|フェイス|1998|p=187}}。

=== なぜファン・ディスクが破断したか===
発見されたのは大きな破片が2つで、それで問題のファン・ディスクのほぼ全体を占めていた{{sfn|加藤|2001|p=245}}。それぞれにファン・ブレードも付いていた{{sfn|加藤|2001|p=245}}。2つのディスク破片は回収され、破断の原因調査のため検査された{{sfn|フェイス|1998|pp=187–188}}。破片を組み合わせた結果、円周方向と半径方向に走る割れ目ができ、ディスクの外輪部の約三分の一が分離していた{{sfn|加藤|2001|pp=246–248}}。
[[File:UAL 232 Fan.png|thumb|回収された第2エンジンの第1段ファン・ディスクとファン・ブレード。写真上部にあたるディスクの隙間は、紛失したのではなく、破壊時の変形による{{sfn|加藤|2001|p=246}}。]]

どこから破断が始まったかを調べるため、[[フラクトグラフィ|断面解析]]が行われた{{sfn|フェイス|1998|p=188}}。割れ目は円周方向、半径方向とも典型的な過大応力により生じたと分かった{{sfn|加藤|2001|p=248}}。そしてこれらの亀裂は、事故前からディスク内に存在していた[[疲労 (材料)|疲労]]亀裂から進展したことが判明した{{sfn|加藤|2001|p=248}}。金属学的調査の結果、材料内部に小さい空洞(キャビティ)が存在し、そこから疲労亀裂が始まっていた{{sfn|加藤|2001|p=248}}{{sfn|フェイス|1998|p=188}}。キャビティは、ディスク表面から約0.86インチ(約2.2センチメートル)入ったところで、大きさは軸方向に0.55インチ(約1.4ミリメートル)、半径方向に0.015インチ(約0.4ミリメートル)だった{{sfn|加藤|2001|p=248}}{{sfn|NTSB|1990|p=45}}。

ファン・ディスクの製造工程は、大きく3ステップに分けられる{{sfn|NTSB|1990|pp=49–50}}。まず、チタン合金の[[地金|鋳塊]]製造、次に[[鍛造]]、そして最終[[機械加工]]である{{sfn|NTSB|1990|pp=49–50}}。NTSBは、疲労亀裂の起点となるキャビティが発生したのは、最終機械加工から表面処理等のための[[ショットピーニング]]工程の間のどこかだと判断した{{sfn|加藤|2001|p=250}}{{sfn|NTSB|1990|p=79}}。

断面解析、金属組織解析、そして[[分析化学]]的解析の結果、キャビティの周辺に[[窒素]]が濃化した「ハードアルファ」と呼ばれる欠陥があったことが明らかになった{{sfn|NTSB|1990|p=45}}<ref name=kobe-1/>{{sfn|藤原|1996|p=5}}。ハードアルファは非常に硬く脆いのが特徴で、これがチタン合金鍛造材内部に存在すると、早期の疲労損傷を引き起こす<ref name=koizumi/><ref name=kobe-1/>。この欠陥は、チタン合金の鋳塊製造時に形成されたものだった{{sfn|藤原|1996|p=5}}。

エンジンが最大推力を発生させたとき、キャビティから亀裂が生じ、荷重が繰り返されるたびに亀裂は成長した{{sfn|加藤|2001|p=250}}。疲労域には荷重がかかる度に縞模様が残るが、その数はファン・ディスクの離着陸回数とほぼ等しかった{{sfn|加藤|2001|p=250}}。このことは、ファン・ディスクの使用開始の早い段階から疲労亀裂が発生していたことを示している{{sfn|加藤|2001|p=250}}。

=== 亀裂は見逃されていた===
第2エンジンの第1段ファン・ディスクは、1971年9月にGE社の工場で製造され、翌年1月にマクドネル・ダグラス社に納品されて新造のDC10-10型機に取り付けられた{{sfn|加藤|2001|p=243}}。エンジンは定期的にオーバーホールされ、整備記録によるとユナイテッド航空やGE社のマニュアルに従って検査されていた{{sfn|加藤|2001|pp=243, 251}}。このファン・ディスクが組み込まれたエンジンにおいて、オーバースピードや[[バードストライク]]の記録はなかった{{sfn|加藤|2001|p=251}}。事故までの17年間、このファン・ディスクは計6回の精密部品検査を受けていた{{sfn|加藤|2001|pp=243, 251}}。調査された全ての記録や使用履歴は、FAAが承認したユナイテッド航空の整備プログラムに従っていた{{sfn|加藤|2001|p=251}}{{sfn|NTSB|1990|p=85}}。

6回の精密検査の際、ディスクは[[浸透探傷検査|蛍光浸透探傷検査]] (Fluorescent penetrant inspections; FPI)を受け、都度合格していた{{sfn|加藤|2001|pp=243, 251}}。蛍光浸透探傷検査は亀裂検査法の一つで、次のようにして亀裂などを検出する{{sfn|加藤|2001|pp=243–245}}{{sfn|NTSB|1990|p=15}}<ref>{{Cite web |title=浸透探傷試験の原理 |publisher=マークテック株式会社 |url=http://www.marktec.co.jp/lecture/tabid/252/Default.aspx |accessdate=2016-12-30 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20161102023435/http://www.marktec.co.jp/lecture/tabid/252/Default.aspx |archivedate=2016-11-02}}</ref>:
# 蛍光染色塗料を含む浸透液(低粘性のオイル)を検査面に塗布する
# 亀裂があれば、毛細管現象によりオイルが浸透する
# 表面の余剰浸透液を除去してから現像剤を塗ることで、亀裂中の浸透液を吸い上げる
# 紫外線を照射すると、亀裂が蛍光として浮かび上がる

最後の蛍光浸透探傷検査は1988年2月に実施されていた{{sfn|加藤|2001|p=245}}。GE社が行った破壊力学的解析では、最後の検査時点でディスク表面にほぼ0.5インチ(約13ミリメートル)の亀裂があったとされる{{sfn|加藤|2001|p=251}}{{sfn|NTSB|1990|p=85}}。事故後の破断面の調査において、疲労亀裂部に変色が見つかっていた{{sfn|加藤|2001|pp=248, 251}}。その長さはディスク表面で0.5インチ弱だった{{sfn|加藤|2001|p=251}}。NTSBは、この変色は蛍光浸透探傷検査の過程で生じたものであり、最後の検査時の亀裂の大きさを示すものと判断した{{sfn|加藤|2001|p=251}}。そして、蛍光浸透探傷検査が適切に実施されていれば、高確率で発見できた亀裂だとしている{{sfn|加藤|2001|p=251}}。

ユナイテッド航空が検査で亀裂を見逃した原因として、NTSBは以下の点を指摘した{{sfn|藤原|1996|p=6}}:
# 蛍光浸透探傷検査の前処理において、ディスクはケーブルで吊り下げられるが、ケーブルの陰に隠れる部分などが目視できるように回転されていなかった
# ケーブルがかかっている部分への現像材の適用が不適切で、亀裂指示が不明瞭だった
# 当時の知見から本事故の亀裂発生部位は重要検査領域と考えられておらず、発見の機会を少なくした可能性があった
ユナイテッド航空は、ショットピーニング処理により、材料に亀裂を閉じる力が働き、浸透液が亀裂に浸透しなかったと主張した{{sfn|藤原|1996|p=6}}。しかし、[[破壊力学]]や金属学、非破壊検査の専門家らの検討により、12ミリメートル程度の亀裂であれば、ショットピーニング処理は発見確率にほとんど影響しないとの結論に至った{{sfn|藤原|1996|p=6}}。

ファン・ディスクは、GE社での製造時にも[[超音波探傷検査]]、マクロエッチ検査(腐食を用いた巨視的表面組織検査法)、そして蛍光浸透探傷検査を受けていた{{sfn|加藤|2001|p=250}}。しかし、これらの検査が実施されたのは、最終機械加工の前だった{{sfn|加藤|2001|p=250}}。事故調査報告書では、加工後にマクロエッチ検査を実施していれば、キャビティを発見できただろうと述べている{{sfn|加藤|2001|p=250}}。

=== シミュレーター試験===
NTSBは、本事故の過程を再現する[[フライトシミュレーター|シミュレーター]]試験を実施した{{sfn|加藤|2001|p=260}}{{sfn|NTSB|1990|p=72}}。試験の目的は、油圧が働かない航空機を操縦して着陸させられるか、そしてそのような訓練がDC-10型機のパイロットに有用かを確認することだった{{sfn|加藤|2001|p=260}}{{sfn|NTSB|1990|p=72}}。

DC-10型機のシミュレーターには、フライトデータレコーダーの記録をもとに事故機の[[空気力学]]的特性が設定された{{sfn|加藤|2001|p=260}}。そして、第2エンジンの破損と3系統全ての油圧喪失が再現された{{sfn|加藤|2001|p=260}}。試験には、DC-10型機の操縦資格を持つ路線機長、訓練審査官、そしてメーカーのテストパイロットが参加した{{sfn|加藤|2001|p=260}}。参加者は事故機と同じ飛行を行うよう指示された{{sfn|加藤|2001|p=260}}。操縦手段は、左右エンジンの操作のみだった{{sfn|加藤|2001|p=260}}{{sfn|NTSB|1990|p=72}}。

推力を左右非対称にすると、ロール姿勢が変化して飛行方位が変わった{{sfn|加藤|2001|p=260}}。推力を増減させると、限定的にピッチ姿勢が変化した{{sfn|加藤|2001|p=260}}。機体は重心まわりにピッチ軸で振動する傾向があり、どのような精度でも制御困難だった{{sfn|NTSB|1990|p=72}}{{sfn|加藤|2001|p=260}}。主にピッチ姿勢によって飛行速度が決まってしまうため、速度も直接制御できなかった{{sfn|NTSB|1990|p=72}}{{sfn|加藤|2001|p=260}}。従って、指定された場所に特定の速度で着陸するのは、極めて偶発的なことだった{{sfn|NTSB|1990|p=72}}{{sfn|加藤|2001|p=260}}。シミュレーターにより、事故のような状況を訓練することは、事実上不可能だという結論に至った{{sfn|NTSB|1990|p=72}}{{sfn|加藤|2001|p=260}}。ただし、シミュレーター試験で得られた知見はマクドネル・ダグラス社によってまとめられ、DC-10型機の運航者に提供された{{sfn|NTSB|1990|p=72}}。

=== 事故原因===
NTSBは、1989年7月19日に事故調査報告書を発行した。報告書で結論付けられた事故原因の要約は以下のとおりである{{sfn|NTSB|1990|pp=v, 102}}。
{{Quotation|事故の原因は、ユナイテッド航空のエンジン整備施設で実施していた検査および品質管理手順において、[[ヒューマンファクター|人的要因]]の限界について検討が不十分だったことである。そのため、ゼネラル・エレクトリック社が製造した第1段ファン・ディスクに内在していた金属学的欠陥に起因する疲労亀裂を発見できなかった。

その結果、第2エンジンのファン・ディスクが壊滅的に破断して破片が飛散した。そのエネルギーレベルは、設計上考慮されていた保護水準を超えており、DC-10型機の飛行制御を担う3本の油圧系統の喪失に至った。}}

== 運航乗務員の対応==
=== 事故機の飛行特性と操縦===
一定速度で水平飛行している時、飛行機に働く力は全て釣り合っている{{sfn|加藤|2001|p=252}}<ref name=encyclopedia-147/>。前後方向では[[推力]]と[[抗力]]が、上下方向では[[揚力]]と[[重力]]がそれぞれ釣り合う{{sfn|加藤|2001|p=252}}<ref name=encyclopedia-147/>。直進していれば、左右には力がかからない<ref name=encyclopedia-147/>。基本的に操縦とは、操縦翼面を動かして機体の姿勢を変え、釣り合いの状態を変えることで、意図した飛行経路を実現することである{{sfn|加藤|2001|pp=252–254}}。この際には、姿勢に応じた推力操作も必要となる{{sfn|加藤|2001|pp=252–254}}<ref name=encyclopedia-147/>。また、飛行中の飛行機は、風などの[[擾乱]]を受ける{{sfn|加藤|2001|p=253}}。これに対して姿勢や速度を修正するためにも、操縦翼面は用いられる{{sfn|加藤|2001|p=253}}。

DC-10型機は、全ての操縦翼面を油圧で動かす設計であった{{sfn|加藤|2001|pp=254–255}}。油圧を失った事故機は、あらゆる操縦翼面を操作できなくなった上、各舵面は必ずしも中立位置で固定されていなかった{{sfn|加藤|2001|p=255}}。異常発生後、事故機は右旋回で降下し始めた{{sfn|加藤|2001|p=255}}。パイロットは、左右エンジンの推力を非対称とすることで、機体の釣り合いをとった{{sfn|加藤|2001|p=255}}。

事故機は一応の釣り合いを保ったが、平衡状態の近傍で振動的な運動をしていた{{sfn|加藤|2001|pp=255–257}}。上昇と下降は推力の増減により行われたが、フゴイド運動を伴うため、変更できるのは、あくまで平均的な経路である{{sfn|加藤|2001|p=257}}{{sfn|NTSB|1990|pp=71–72}}。振動の多くは自然に減衰するが、事故機では[[フゴイド運動]]と呼ばれる減衰しにくい振動が発生した{{sfn|加藤|2001|p=257}}。フゴイド運動は、上昇と下降を繰り返す振動であり、1分程度の長い周期を持ち長周期モードとも呼ばれる{{sfn|加藤|2001|p=257}}<ref name=encyclopedia-150/>。正常な飛行機であれば、操縦翼面により[[迎角]](主翼と気流のなす角)を制御することで抑制できるが、油圧を失った事故機では、推力の微調整でフゴイド運動を抑える必要があった{{sfn|加藤|2001|pp=257–259}}{{sfn|NTSB|1990|pp=71–72}}。

旋回の制御は、左右エンジン推力を非対称にすることで実現した{{sfn|加藤|2001|p=259}}。推力を非対称にすると、主翼の揚力が左右非対称になり、[[ローリング|ロール運動]]を発生させられる{{sfn|加藤|2001|p=259}}。しかし、これも推力を変化させるため、その都度フゴイド運動が発生する{{sfn|加藤|2001|p=259}}。さらに、推力を左右非対称にすると[[ダッチロール]]と呼ばれる振動も発生する{{sfn|加藤|2001|p=259}}。推力は操作しても実際に変化するまでに遅れがある{{sfn|加藤|2001|p=259}}{{sfn|NTSB|1990|pp=71–72}}。事故機は、推力操作から経路変化が現れるまでに20から40秒を要した{{sfn|加藤|2001|p=259}}{{sfn|NTSB|1990|pp=71–72}}。事故機を操縦するためには、さまざまな乱れの中で間隙を縫うように経路を定め、着地の20 - 40秒前に必要な推力変化を予想しなければならなかった{{sfn|加藤|2001|p=259}}。

正常な着陸時には、[[高揚力装置]]を展開し、[[昇降舵]]で迎角を増大させて飛行速度を落とす{{sfn|加藤|2001|p=256}}。DC-10型機の通常の着陸速度は、140 - 150ノット(時速約259 - 278キロメートル)であるが、迎角を変える手段を失った事故機は機首上げができず、平均215ノット(時速約398キロメートル)で着陸した{{sfn|加藤|2001|p=256}}。前述のように、機長は、早い段階でこのような着陸を想定し、高揚力装置を使用しない着陸データを航空機関士に求めていた{{sfn|加藤|2001|p=256}}。

=== クルー・リソース・マネジメント===
DC-10型機の油圧系統は、[[冗長化]]の考え方で設計されていた{{sfn|NTSB|1990|pp=15–19}}。マクドネル・ダグラス社、ユナイテッド航空、そしてFAAは、油圧操縦系統が全て機能しなくなるような事態はまず起こらないと考えていた{{sfn|NTSB|1990|p=76}}。したがって、そのような状況に備えた手順や訓練は用意されなかった{{sfn|NTSB|1990|p=76}}。シミュレーター訓練が実施されていたのは、油圧3系統のうち2系統が喪失した状況までだった{{sfn|"No Left Turns"|pp=3–4}}{{sfn|NTSB|1990|p=76}}。本事故を経験したパイロット達は、全油圧を失った場合の訓練を受けていなかったが、2基のエンジンの操作によりスー・ゲートウェイ空港まで辿り着いた{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}{{refnest|group="注釈"|name=training|{{harvtxt|桑野|前田|塚原|2002|pp=192, 209}}によると、TCA機長は、油圧系統が機能しなくなり墜落した[[日本航空123便墜落事故]]の発生後、自分のシミュレーター訓練の際に、エンジン出力の調整のみで操縦することを試みていたとされるが、事故調査報告書 {{harvtxt|NTSB|1990}} や機長の講演録 {{harvtxt|Haynes|1991}} では触れられていない。}}

296人のうち184人が生存できたことは、航空界を驚かせた{{sfn|フェイス|1998|p=268}}。事故調査報告書では、「安全な着陸は事実上不可能」と述べており{{sfn|NTSB|1990|p=100}}、もっと多くの犠牲者が出てもおかしくない事故だった{{sfn|McKinney|Barker|Davis|Smith|2005|p=212}}{{sfn|桑野|前田|塚原|2002|p=198}}。

乗務員達の行動は{{仮リンク|クルー・リソース・マネジメント|en|Crew Resource Management}} (CRM) の成功例として知られることになった{{sfn|McKinney|Barker|Davis|Smith|2005}}。かつて、機長は機内の権威であり、いわゆる「偉い人」であると捉えられてきた{{sfn|McKinney|Barker|Davis|Smith|2005|pp=200–201}}{{sfn|桑野|前田|塚原|2002|pp=198–208}}。しかし、航空事故の歴史から、「利用可能なあらゆる情報やアイディアを有効活用し、チームとしての総合力を発揮しよう」という考え方が生まれた{{sfn|桑野|前田|塚原|2002|pp=198–208}}。これがクルー・リソース・マネジメントの考え方であり、操縦室内の上下関係に関わらず、機長に対して自由に意見できる文化が育まれるようになった{{sfn|桑野|前田|塚原|2002|pp=198–208}}<ref name=FAA/>。ユナイテッド航空では、1980年からクルー・リソース・マネジメントが訓練に取り入れられていた{{sfn|Haynes|1991|pp=4–5}}。

事故機のパイロット達は、油圧操縦系統の異常に対処するため、適切なコミュニケーションを取っていた{{sfn|加藤|2001|pp=261–262}}。パイロット達は、問題への対処手順、考えられる解決法、取るべき方策を話し合っていた{{sfn|NTSB|1990|p=76}}。機長は、危機的状況の中でも時にジョークを交えコックピット内の良好な雰囲気作りに努めた{{sfn|マクファーソン|1999|p=322}}。TCA機長が協力を申し出たことに対し、機長は速やかに、積極的に、そして適切に受け入れた{{sfn|加藤|2001|p=262}}{{sfn|McKinney|Barker|Davis|Smith|2005|p=212}}。TCA機長は、約20分のスロットル操作を経て、乗務員達と適切なコミュニケーションをとり、推力で事故機を操縦するスキルを身につけていた{{sfn|Haynes|1991|p=7}}。しばらくの間、TCA機長は床にひざまずいてスロットルを操作していたが、着陸に備えシートベルトを着ける必要があった{{sfn|加藤|2001|pp. 229–230}}{{sfn|Haynes|1991|p=7}}。そこで機長はTCA機長に航空機関士席に座るよう指示を出した{{sfn|Haynes|1991|p=7}}。航空機関士は座席を譲り、自分は補助席に移って業務を続けた{{sfn|Haynes|1991|p=7}}{{sfn|加藤|2001|pp. 231–232}}。TCA機長は本来の乗務員ではなかったが、このままスロットル操作を任せた方が適切だと乗員たちは判断し、速やかに行動を取ったのだった{{sfn|Haynes|1991|p=7}}{{sfn|桑野|前田|塚原|2002|pp=194–195}}。

事故調査報告書では、ユナイテッド航空で10年間実施されてきたクルー・リソース・マネジメント訓練の成果がこれら乗務員達の行動に反映されたとしている{{sfn|加藤|2001|p=262}}{{sfn|NTSB|1990|p=76}}。シミュレーター試験の結果から、UAL232便のような状況を模した訓練は有効性がないという結論に至った{{sfn|加藤|2001|p=262}}。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記している{{sfn|加藤|2001|p=262}}{{refnest|group="注釈"|name=|原文は、"The Safety Board believes that under the circumstances the UAL flightcrew performance was highly commendable and greatly exceeded reasonable expectations." である{{sfn|NTSB|1990|p=76}}。}}。

== 事故の教訓と対策==
=== 製造工程の改善===
ファン・ディスクの材料となったチタン合金の鋳塊は、消耗電極式真空アーク再溶解 (Vacuum Arc Remelting) という方法で製造された<ref name=kobe-2/><ref name=koizumi/><ref name=FAA/>。この製造法を用いる場合、鋳塊中のハードアルファを少なくするために、溶解を繰り返す二重溶解や三重溶解が取られる{{refnest|group="注釈"|ただし、溶解を繰り返しても完全に欠陥を除去できる保証はない{{sfn|NTSB|1990|p=50}}<ref name=koizumi/>}}<ref name=kobe-2/><ref name=koizumi/><ref name=FAA/>。事故原因となったファン・ディスクは、その当時主流だった二重溶解で製造されたものだった{{sfn|NTSB|1990|pp=49–52}}<ref name=FAA/>。そして、皮肉にもこのファン・ディスクが製造された1年後(事故の約18年前)には、GE社は製造工程を改善し、より高品質となる三重溶解に切り替わっていた{{sfn|NTSB|1990|p=51}}{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}。

FAAは、旧工程で製造されたファン・ディスクに対し、超音波探傷検査の実施を指示した{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}。この検査により、新たに2基のファン・ディスクに亀裂が発見され、新しいディスクに交換された{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}。そして、GE社は検査マニュアルに超音波探傷検査を追加した{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}。

=== 油圧系統の設計変更===
1989年9月15日、事故を受けてマクドネル・ダグラス社は、全てのDC-10型機に対する設計変更を発表した{{sfn|"No Left Turns"|p=3}}。全ての油圧系統に遮断バルブを追加し、油圧低下を検出した際にバルブを閉じるようにした{{sfn|"No Left Turns"|pp=3–4}}。これにより、本事故と同様の事象が発生した場合に、最小限の油圧と飛行制御を確保できるようにした{{sfn|"No Left Turns"|pp=3–4}}。

=== エンジン制御による操縦の研究===
前述のとおり、NTSBのシミュレーター試験により、全油圧を失った場合の操縦法の訓練するのは非現実的という結論に至った。[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) は本事故を一つのきっかけとして、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している{{sfn|フェイス|1998|p=190}}<ref>{{Cite web |url=http://www.nasa.gov/centers/dryden/history/pastprojects/PCA/#.VIC3QHu7a1s |title=Propulsion Controlled Aircraft (PCA) |publisher=NASA |date=2009-08-21 |accessdate=2017-01-05}}</ref>。また、日本の[[三菱重工業|三菱重工]]でも同様の研究が行われている<ref>{{Citation |和書 |title=全舵面不作動時に推力増減のみで航空機を制御する技術 |journal=三菱重工技報 |publisher=三菱重工業 |year=2011 |volume=48 |number=4 |pages=2–7 |format=PDF |url=http://www.mhi.co.jp/technology/review/pdf/484/484002.pdf |accessdate=2014-12-05}}</ref>。

=== 乳幼児の安全性向上===
事故機には、座席を使用しない(保護者の膝上に座っていた)乳幼児が4人いた{{sfn|NTSB|1990|p=40}}。緊急着陸に備えて子供達は床に寝かせられ、客室乗務員が用意した枕や毛布でできるだけ衝撃を抑えるよう固定したが、不時着時の衝撃で宙に投げ出された子供もいた{{sfn|NTSB|1990|p=40}}{{sfn|マクファーソン|1999|p=365}}。4人の子供のうち3人は助かったが、1名は火災の煙に巻かれ亡くなった{{sfn|NTSB|1990|p=40}}。事故後の1990年5月、NTSBは、FAAに対して乳幼児の安全に関する勧告を発行した{{sfn|NTSB|1990|p=40}}<ref>{{Cite web |title=Safety Recommendation A-90-078 |publisher=NTSB |date=1990-05-30 |url=https://www.ntsb.gov/_layouts/ntsb.recsearch/Recommendation.aspx?Rec=A-90-078 |accessdate=2017-01-22}}、{{Cite web |title=Safety Recommendation A-90-079 |publisher=NTSB |date=1990-05-30 |url=https://www.ntsb.gov/_layouts/ntsb.recsearch/Recommendation.aspx?Rec=A-90-079 |accessdate=2017-01-22}}</ref>。本事故は、機内の乳幼児の安全性向上を進めるきっかけの一つとなった<ref>{{Citation |title=The power of stories over statistics |last=Newman |first=Thomas B |journal=BMJ: British Medical Journal |volume=327 |number=7429 |pages=1424–1427 |year=2003 |publisher=BMJ Publishing Group Ltd}}</ref>。

== 本事故を主題とした映像など==
本事故は、1992年のアメリカのテレビ映画『Crash Landing: The Rescue of Flight 232(邦題:レスキューズ/緊急着陸UA232)』で主題として描かれた<ref>{{Cite web |title=DVD洋画セレクション 25、レスキューズ 緊急着陸UA232 (<DVD>) |work=amazon.co.jp |url=https://www.amazon.co.jp/DVD洋画セレクション-25、レスキューズ-緊急着陸UA232-DVD/dp/4522570554 |accessdate=2017-01-25}}</ref><ref>{{Cite web |title=Crash Landing: The Rescue of Flight 232 (TV Movie 1992) |work=IMDb |url=http://www.imdb.com/title/tt0104020/ |accessdate=2017-01-25}}</ref>。また、[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]の「[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]]」の第9シーズン第14話『ユナイテッド航空232便 (SIOUX CITY FIREBALL)』<ref>{{Cite web |title=11 ・・ 14 | メーデー!9:航空機事故の真実と真相|番組紹介 |work=ナショナル ジオグラフィック チャンネル |publisher=FOX Networks Group Japan |url=http://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/903 |accessdate=2017-01-25}}</ref>、および「[[衝撃の瞬間]]」の第7話『スーシティー空港への不時着 (Crash Landing at Sioux City) 』<ref>{{Cite web |title=第1話 ・・ 第7話 | 衝撃の瞬間 3|番組紹介 |work=ナショナル ジオグラフィック チャンネル |publisher=FOX Networks Group Japan |url=http://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/58 |accessdate=2017-01-25}}</ref>でそれぞれ主題として取り上げられている。

== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注釈"|refs=
{{refnest|group="注釈"|name="nbDiedLater"|事故後31日で亡くなった乗客1人は、アメリカの[[連邦規則集]]の基準により重篤な負傷者に分類された{{sfn|NTSB|1990|p=6}}。}}
}}


== 関連項目 ==
=== 出典===
{{Reflist|2|refs=
* [[航空事故]]
<ref name=ASN>{{ASN accident|19890719-1|title=ASN Aircraft accident McDonnell Douglas DC-10-10 N1819U Sioux Gateway Airport, IA (SUX) |accessdate=2016-10-29}}</ref>
* [[フィアレス (映画)]]
<ref name=encyclopedia-31>{{Citation|和書 |last=渡辺 |first=紀徳 |contribution=エンジンのしくみ |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |page=31 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
* [[ナショナル航空27便エンジン破損事故]]
<ref name=encyclopedia-46>{{Citation|和書 |last=渡辺 |first=紀徳 |contribution=エンジン内部の空気流れ |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |page=46 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
<ref name=encyclopedia-147>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=巡航時の性能 |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=147–149 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
<ref name=encyclopedia-150>{{Citation|和書 |last=上野 |first=誠也 |contribution=運動モード |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=150–155 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>
<ref name=encyclopedia-414>{{Citation|和書 |last=星 |first=次郎 |contribution=通信装置 |editor=飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=414–416 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>

<ref name=PHAK-6-20>{{Citation |contribution=Chapter 6: Aircraft Systems |title=Pilot's Handbook of Aeronautical Knowledge |publisher=Federal Aviation Administration (FAA) |format=PDF |language=English |pages=6-20 |url=https://www.faa.gov/regulations_policies/handbooks_manuals/aviation/pilot_handbook/ |accessdate=2014-07-06 |id=FAA-H-8083-25}}</ref>

<ref name=kobe-1>
{{Citation |和書
|last1=伊藤 |first1=良規
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|last3=木下 |first3=敬之
|title=チタン合金の鍛造プロセス設計のための超音波探傷性の予測技術 (特集 素形材)
|journal=R&D神戸製鋼技報
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<ref name=kobe-2>
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|journal=R&D神戸製鋼技報
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|last=小泉 |first=昌明
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|journal=鉄と鋼
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|title=機体回転...火だるま 米のDC10墜落、炎上 機首部残しバラバラ
|date=1989-07-20
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</ref>
<ref name=asahi-19890720-e-1>
{{Cite news
|title=米でDC10墜落、炎上 「124人死亡」と当局 緊急着陸に失敗
|date=1989-07-20
|newspaper=朝日新聞 東京/夕刊
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</ref>

<ref name=nikkei-19890721-d-35>
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</ref>

<ref name=FAA>{{Citation
|title=Lessons Learned (United Airlines Flight 232, DC-10)
|work=Lessons Learned From Transport Airplane Accidents
|publisher=Federal Aviation Administration (FAA)
|language=English
|url=http://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=4&LLID=17&LLTypeID=2
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<ref name=andino>{{Cite web
|last=Andino |first=Gabe
|title=United Flight 232: Surviving the Unthinkable
|work=NYCAviation
|date=2014-07-18
|url=http://www.nycaviation.com/2014/07/disaster-miracle-united-flight-232/
|accessdate=2016-11-04
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160404072920/http://www.nycaviation.com/2014/07/disaster-miracle-united-flight-232/
|archivedate=2016-04-04
|ref=harv}}</ref>
}}


== 参考文献==
'''油圧操縦システムに問題が発生した事故'''
=== 事故調査報告書===
* [[アメリカン航空96便貨物ドア破損事故]]・[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]] - 貨物ドアが脱落したことによる減圧で操縦システムを損傷。アメリカン航空機は着陸に成功したが、トルコ航空機は墜落した。
*{{Citation
* [[日本航空123便墜落事故]] - 圧力隔壁の修理ミスで垂直尾翼と油圧操縦系統を喪失し、30分余りの迷走飛行の末墜落。単独機では史上最悪の死者数を出した航空事故。
|author=National Transportation Safety Board (NTSB)
* [[DHL貨物便撃墜事件]] - ミサイル攻撃で主翼を損傷し油圧操縦系統を喪失したが、バグダード国際空港への緊急着陸に成功した。
|author-link=国家運輸安全委員会
|title=Aircraft Accident Report United Airlines Flight 232 McDonnell Douglas DC-10-40 Sioux Gateway Airport Sioux City, Iowa, July 19, 1989
|publisher=NTSB
|format=PDF
|language=English
|id=NTSB-AAR-SO-06
|date=1990-11-01
|url=http://libraryonline.erau.edu/online-full-text/ntsb/aircraft-accident-reports/AAR90-06.pdf
|accessdate=2016-10-31
|ref={{sfnref|NTSB|1990}}}}(注:原文PDFの判読が難しい部分は、[[アメリカ連邦航空局]]が公開している[http://www.faa.gov/about/initiatives/maintenance_hf/library/documents/media/human_factors_maintenance/united_airlines_flight_232.mcdonnell_douglas_dc-10-10.sioux_gateway_airport.sioux_city.lowa.july_19.1989.pdf PDF]を参照した)


=== 書籍・雑誌記事等===
== 外部リンク ==
*{{Citation
* {{PDFlink|[http://amelia.db.erau.edu/reports/ntsb/aar/AAR90-06.pdf NTSB Report AAR-90/06]}}
|last=加藤 |first=寛一郎
* [http://www004.upp.so-net.ne.jp/civil_aviation/cadb/wadr/wadr.htm 世界の航空機事故総覧]
|title=驚愕の真実
|publisher=講談社
|year=2001
|series=墜落
|volume=1
|isbn=978-4062106016
|ref=harv}}
*{{Citation
|last=加藤 |first=寛一郎
|title=航空機事故50年史 : 第一人者がはじめてすべてを明かす
|publisher=講談社
|year=2008
|edition=Kindle
|series=講談社+α文庫
|ref=harv}}
*{{Citation
|last1=桑野 |first1=偕紀 |last2=前田 |first2=荘六 |last3=塚原 |first3=利夫
|title=そのとき機長は生死の決断
|publisher=講談社
|year=2002
|isbn=406211349X
|ref=harv}}
*{{Citation
|last=フェイス |first=ニコラス
|others=小路浩史(訳)
|title=ブラック・ボックス : 航空機事故はなぜ起きるのか
|publisher=原書房
|year=1998
|isbn=4-562-03089-5
|ref=harv}}
*{{Citation
|last=マクファーソン |first=マルコム
|others=山本光伸(訳)
|title=墜落!の瞬間 : ボイスレコーダーが語る真実
|publisher=青山出版社
|year=1999
|ref=harv}}
*{{Citation
|title=最近の疲労破壊による航空機事故と疲労基準改訂案
|last=藤原 |first=源吉
|journal=材料
|volume=45
|number=1
|pages=2-8
|year=1996
|doi=10.2472/jsms.45.2
|ref=harv}}
*{{Citation
|last1=Larson |first1=Richard C.
|last2=Metzger |first2=Michael D.
|last3=Cahn |first3=Michael F.
|title=Responding to emergencies: Lessons learned and the need for analysis
|journal=Interfaces
|volume=36
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|ref=harv}}
*{{Citation
|last1=McKinney |first1=Earl H., Jr
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|last4=Smith |first4=Daryl
|year=2005
|month=11
|title=How Swift Starting Action Teams Get off the Ground: What United Flight 232 and Airline Flight Crews Can Tell Us About Team Communication
|journal=Management Communication Quarterly : McQ
|volume=19
|number=2
|pages=198-237
|isbn=08933189
|language=English
|url=http://search.proquest.com/docview/216352487
|ref=harv}}


=== オンライン資料===
注意;下記の3つのサイトでは詐欺的広告が表示されることがあります。
*{{Citation
* [http://www.airdisaster.com/download2/ual232.shtml 事故機のボイスレコーダ音声]
|last=Conroy |first=Mark T.
* [http://www.airdisaster.com/photos/ua232/photo.shtml 事故機の写真]
|title=Aircraft Accidents that Caused Major Changes to Emergency Response Equipment and Procedures
* [http://www.airdisaster.com/eyewitness/ua232.shtml 事故の詳細](英文)
|journal=Presentation to the International Forum on Emergency and Risk Management Singapore Aviation Academy
|year=2005
|language=English
|url=http://www.aviationfirejournal.com/pdf/conroypaper.pdf
|accessdate=2016-10-31
|ref=harv}}
*{{Citation
|last=Haynes |first=Alfred C
|title=United 232: Coping With the" one-in-a-billion" Loss of All Flight Controls
|year=1991
|volume=48
|number=6
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|publisher=Flight Safety Foundation
|url=https://flightsafety.org/ap/ap_jun91.pdf
|accessdate=2011-11-13
|refs=harv}}
* 失敗知識データベース
** {{失敗知識データベース|CA0000219|DC10第2エンジンの脱落によるユナイテッド航空機事故}}、2016-10-31閲覧。
** {{失敗知識データベース|CB0071010|ユナイテッド航空DC-10型機のエンジンディスク破壊に伴うスーゲートウェイ空港へのクラッシュランディング事故}}、2016-10-31閲覧。
* Aviation Safety Network.
** {{ASN accident|19890719-1|title=ASN Aircraft accident McDonnell Douglas DC-10-10 N1819U Sioux Gateway Airport, IA (SUX) |accessdate=2016-10-29}}
** {{Citation
|title=Aviation Safety Network CVR/FDR: United Airlines DC-10-10 – 19 JUL 1989
|work=Aviation Safety Network
|type=PDF
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*{{Citation
|title=United Airlines Flight 232, DC-10
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|publisher=Federal Aviation Administration (FAA)
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|accessdate=2016-10-31}}
**{{Citation
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|url=http://lessonslearned.faa.gov/ll_main.cfm?TabID=4&LLID=17&LLTypeID=2
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*{{Citation
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|work=System Failure Case Studies
|date=2008-07
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|url=https://nsc.nasa.gov/SFCS/SystemFailureCaseStudyFile/Download/433
|accessdate=2016-10-31
|ref={{sfnref|"No Left Turns"}}}}


{{Coord|42|24|29|N|96|23|02|W|region:US-IA_type:landmark|display=title}}
{{Coord|42|24|29|N|96|23|02|W|region:US-IA_type:landmark|display=title}}
{{1989年の航空事故一覧}}
{{1989年の航空事故一覧}}
{{Aviation-stub}}


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2017年2月25日 (土) 07:56時点における版

ユナイテッド航空232便不時着事故
着陸直前に撮影された事故機の写真
(赤色で示された部分が損傷個所)
事故の概要
日付 1989年7月19日
概要 整備手順における人的要因の限界について検討が不十分だったため、エンジンのファン・ディスクに内在していた欠陥に起因する疲労亀裂を発見できなかった。その結果、飛行中にファン・ディスクが破砕して飛行制御を担う3本の油圧系統を損傷した。
現場 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アイオワ州スーシティスー・ゲートウェイ空港
乗客数 285[1]
乗員数 11[1]
負傷者数 172[1]
死者数 112 (事故現場で111人死亡、事故の31日後に1人死亡)[注釈 1][1]
生存者数 185[1]
運用者 ユナイテッド航空 (UAL)
機体記号 N1819U
出発地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ステープルトン国際空港
経由地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国シカゴ・オヘア国際空港
目的地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フィラデルフィア国際空港
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ユナイテッド航空232便不時着事故(ユナイテッドこうくう232びんふじちゃくじこ、英語: United Airlines Flight 232)は、1989年7月19日ユナイテッド航空の定期232便が、アメリカ合衆国アイオワ州スーシティスー・ゲートウェイ空港に緊急着陸を試み、大破した事故である。

事故機はマクドネル・ダグラスDC-10型機だった。ステープルトン国際空港からシカゴ・オヘア国際空港へ向けて飛行中に、第2エンジンのファン・ディスクが破断し、設計上の保護水準を超えたエネルギーで破片が飛散した。これにより全ての油圧操縦系統が機能喪失し、操縦翼面を操作できなくなった。偶然、事故機にはDC-10型機の機長資格を持つ訓練審査官が非番で搭乗しており、コックピットに入り正規の乗務員と協力して操縦にあたった。パイロット達は左右2基のエンジン推力の調整により操縦を試み、スー・ゲートウェイ空港まで辿り着いた。しかし、着陸寸前に機体姿勢が崩れて右翼端から接地し、機体は横転しながら大破炎上した。待機していた消防救助隊が直ちに救出活動を開始した。乗客乗員296人の半数以上が救助されたが、最終的に112人が死亡した[注釈 1]

事故調査の結果、ファン・ディスク破砕の原因は、材料のチタン合金製造時における欠陥に起因することが判明した。この欠陥から疲労亀裂が成長し、最終的に破断に至った。ファン・ディスクは定期検査を受けていたが、検査手順における人的要因の限界について検討が不十分だったため、亀裂が見逃されたと結論された。

事故機は、さらに多くの犠牲者が出てもおかしくない状況であったため、184人が生存できたことは航空界を驚かせた。事故後のシミュレーター試験では、油圧系統が完全に機能しなくなった状態では安全に着陸させることは困難という結論に至った。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記し、本事故は、クルー・リソース・マネジメントの成功例として知られることとなった。

事故当日のユナイテッド航空232便

ユナイテッド航空232便不時着事故の位置(アメリカ合衆国内)
DEN
DEN
ORD
ORD
PHL
PHL
SUX
SUX
UAL232便の出発地であるステープルトン国際空港 (DEN)、経由地のシカゴ・オヘア国際空港 (ORD) 、目的地のフィラデルフィア国際空港 (PHL)、事故現場のスー・ゲートウェイ空港 (SUX) を示す。

ユナイテッド航空232便(以下、UAL232便と表記[注釈 2])は、アメリカ合衆国の国内定期旅客便であった。出発地はコロラド州デンバーステープルトン国際空港イリノイ州シカゴシカゴ・オヘア国際空港を経由し、ペンシルベニア州フィラデルフィアフィラデルフィア国際空港へ向かう路線だった[2][3]1989年7月19日の便には、乗客285人、乗員11人が搭乗していた[3]

事故機と同型機

使用機材は、マクドネル・ダグラス社のDC-10-10型機だった[2]。DC-10型機は左右の主翼下に1基ずつと、垂直尾翼の付け根に1基の計3基のターボファンエンジンを備えた旅客機である[2]機体記号は「N1819U」であり、1971年にユナイテッド航空へ納入された[注釈 3]。当該便直前までの総飛行時間は43,401時間、飛行回数は16,997回だった[7]。装備エンジンはゼネラル・エレクトリック (GE) 社のCF6-6Dだった[7]。CF6-6Dエンジンは、高バイパス比[注釈 4]ターボファンエンジンである[7]

機長のアルフレッド・C・ヘインズ英語版 (Alfred C. Haynes) は57歳で、1956年2月にユナイテッド航空に入社した[10][11]。同航空での飛行時間は29,967時間で、そのうち7,190時間がDC-10型機での飛行である[10][11]。DC-10とボーイング727の運航資格を保有し、1987年4月にDC-10の機長の資格を取得していた[10][11]

副操縦士のウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) は48歳で、1969年8月にナショナル航空に入社、その後パンアメリカン航空を経て1985年12月にユナイテッド航空への転職教育を完了した[10][11]。レコーズの総飛行時間は約20,000時間で、DC-10とロッキードL-1011の運航資格を取得していた[10][11]。ユナイテッド航空でDC-10の副操縦士として665時間飛行していた[10][11]

航空機関士のダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) は51歳で、1986年5月にユナイテッド航空に入社した[10][11]。総飛行時間は15,000時間で、ユナイテッド航空入社後は航空機関士としてボーイング727で1,903時間飛行、DC-10で33時間飛行していた[10][11]

当該機には、DC-10の機長の資格を持つデニス・E・フィッチ英語版 (Dennis E. Fitch) も非番でファーストクラスに搭乗していた[10][11]。フィッチは46歳で1968年1月にユナイテッド航空に入社した[10][11]。同航空への入社前に、空軍州兵として1,400から1,500時間の飛行経験があった[10][11]。DC-10の飛行時間は2,987時間であり、そのうちで1943時間を航空機関士、965時間を副操縦士、79時間を機長として飛行していた[10][11]。DC-10の訓練審査官 (Training Check Airman; TCA) の資格も保有しており、ユナイテッド航空のフライト・トレーニング・センターに勤務していた[10][11]。以降、彼のことをTCA機長と呼ぶ。

事故の経過

事故機の飛行経路。図の中央下から右上に飛行し、▲印の辺りで機体が破損、右旋回を繰り返しながらスー・ゲートウェイ空港(図の左中央)に向かった。

離陸からエンジン異常発生まで

中部夏時間の14時09分、当該機はステープルトン国際空港を離陸した[3]。予定していた巡航高度37,000フィート(約11,300メートル)まで平常通り上昇した[3]。操縦は副操縦士が担当していた[3]オートパイロットが作動され、指示対気速度270ノット(約時速500キロメートル)に飛行速度を維持するモードが使用された[3]飛行計画ではマッハ数0.83で巡航することになっていた[3]

DC-10型機のエンジン配置。

離陸から約1時間7分経過した15時16分10秒、乗員は大きな爆発音を聞き、続いて機体が激しく振動し始めた[12][13][14]。乗員はエンジン計器を点検し、尾部にある第2エンジンに異常が発生したと特定した[12][13]。ただちにオートパイロットを解除し、機長は、エンジン停止時のチェックリストを指示した[12][13][15]。このチェックリストを実施中に、航空機関士が機体の油圧系統の圧力計と油量系がいずれもゼロを指していることに気づいた[12]。副操縦士は、機体が右旋回で降下しており、制御不能であると報告した[12]。機長が操縦を交代し、機体が操縦操作に反応しないことを確認した[12]。機長は左翼にある第1エンジンの推力を減らし、機体は左右の水平を取り戻し始めた[12]。機長は、風力駆動の発電機を展開した[12]。この発電機から予備の油圧ポンプに給電される仕組みだったが、ポンプのスイッチを入れても油圧は回復しなかった[12][16]。この時点で3系統ある油圧系統が全て機能しなくなっていた。事故後の調査で明らかになることだが、第2エンジンの破損により油圧配管が切断されたためであった[17]

UA232便の油圧系統の破損状況の図。

15時20分、乗員はミネアポリスの航空路交通管制センター (Air Route Traffic Control Center) に無線連絡し、緊急援助と最も近い飛行場への進路誘導を要請した[12]。この時、管制センターは、デモイン国際空港へ向かうことを提案した[18][19]デモインアイオワ州の州都で、デンバーとシカゴを結ぶ線上にあたる[19]。15時22分、管制官は乗員にUAL232便がスーシティの方角へ飛行していると知らせた[18]。そして、管制官はスーシティに向かうか尋ね、乗員はそうすると回答した[18]。UAL232便がスーシティのスー・ゲートウェイ空港に針路をとるよう、航空交通管制のレーダー誘導が始まった[20]

この間、15時21分、乗員は、ユナイテッド航空の運航管理部門にACARS(航空機と地上を結ぶテキストベースの無線データ通信システム)[21]でメッセージを送信した[22]。そして、無線交信を要請し、2分後に交信に成功した[20]。15時25分、乗員はユナイテッド航空の運航管理部門と交信し、同航空の整備施設に直ちに繋いでほしいと要請し、同時に救難信号の「メーデー」を発信した[20]

TCA機長の登場

第2エンジンの異常発生時、客室では食事用トレーの片付けの最中だった[23]。エンジンの爆発音があり、やがて機長による機内アナウンスが流れて、第2エンジンの停止が乗客に知らされた[20][23]。先任客室乗務員がコックピットに呼ばれ、緊急着陸に備えるよう指示された[20]。客室に戻った彼女は、乗客を刺激するのを避けるため、客室乗務員を一か所に集めるのはやめて、一人ずつ状況説明して緊急着陸に備えるよう伝えた[20]。客室乗務員は動揺を隠し平静さを保つよう努め、乗客に緊急時の準備をさせた[24]

問題発生より約10分後の15時26分42秒から、コックピットボイスレコーダー (CVR) の録音が残っている[20]。その時、スー・ゲートウェイ空港の管制官(以下、進入管制官と呼ぶ)と交信中で状況説明を行っていた[20]。15時27分、サンフランシスコの整備施設と最初の交信が行われた[25]。パイロットは、整備施設に全油圧システムが停止して油量も失われた旨を伝え、支援を要請した[25]。この後、事故機と整備施設の間で断続的に交信があったが、整備施設から乗員へ何か指示できることはなかった[25][26]

15時29分、DC-10型機のTCA機長が非番で搭乗しており協力を申し出ていると、客室乗務員が機長に伝えた[27][25]。機長は直ちにTCA機長をコックピットに招き、30秒もかからずして彼はコックピットに到着した[27][25]。TCA機長が到着した時、機長と副操縦士は精一杯の力で操縦桿を左に切っていたが、機体は右旋回をしていた[28]。コックピット内は緊迫しており、機長が挨拶し乗員を紹介したが、その間、誰もTCA機長の方を向く余裕もなかった[29]

機長はTCA機長に状況を説明し、機体を制御する手段が全くないと伝えた[30]。機長は、客室の窓から外部の損傷がないか、そして操縦翼面が操作に反応しているか確認するようTCA機長に依頼した[30][31]。外観確認を終えたTCA機長は、コックピットに戻り、内側エルロンは無傷だが僅かに上向きで固定されていたことと、スポイラーが下げ位置でロックされていることを報告した[27][32]主操縦翼面は動作していなかった[27]

DC-10型機のコックピット。写真中央の3本のレバーがスロットル。

機長は、TCA機長にエンジンのスロットルの制御を指示した[32]。これにより、機長と副操縦士が他の操作や管制塔との通信などに専念できるようになった[32][33]。スロットルは、機長席と副操縦士席の間のペデスタル(中央制御卓)にある。TCA機長は、ペデスタルの後ろにひざまずき、スロットル・レバーを調整を担った[32]。TCA機長は、エンジン出力でピッチロールを制御しようと試みた[27][34]。機体は常に右旋回する傾向があったほか、安定したピッチ姿勢を維持するのが難しくなっていた[27][34]。TCA機長は、第1エンジン(左翼側)と第3エンジン(右翼側)の推力を対称にできないと考え、両手でそれぞれのレバーを操作した[27][34]

緊急着陸の決断と準備 

15時32分、TCA機長が客室乗務員達はゆっくり準備をしていたと伝えた[32]。これを受けて機長は不時着の可能性を示唆し、備えを急いだ方が良いと答えた[32]。間もなく、機長はスー・ゲートウェイ空港の進入管制官に「油圧の作動液を失い、昇降舵を制御できないこと、滑走路にたどり着けず、不時着する可能性がある」と伝えた[35][36]。ユナイテッド航空の運航管理部門も直接スー・ゲートウェイ空港の管制塔に連絡し、緊急着陸、消火、救命に関する準備を要請していた[35]

15時34分、機長はスー・ゲートウェイ空港に着陸を試みる決断をした[35]。航空機関士に、高揚力装置を使用せず着陸する場合の情報を求めた[35]。さらに機長は、進入管制官に計器着陸装置の周波数、および滑走路の方向と長さを問い合わせた[35][37]。管制官は周波数を回答し、UAL232便の現在地と進路、そして滑走路31の長さを伝えた[35][37]。この時、UAL232便はスー・ゲートウェイ空港から北東約35マイル(約65km)の地点にいた[35]

15時35分、機長は航空機関士に急速投棄で燃料を放出するよう指示した[35]。燃料は33,500ポンド(約15トン)を残して自動的に放出停止された[35]。15時38分、パイロットの一人が「クリーン形態(高揚力装置と降着装置を格納した状態)の進入操作速度は200ノット(時速約370km)だろう」と発言した[38][34]。副操縦士が、機長に200と185にバグ(速度計の淵にある可動式の目盛り)をセットするよう求めた[38][34]

15時40分、機長は先任客室乗務員に、客室は全員準備できているか尋ねた[34]。機長は、この乗務員に油圧系統の喪失により機体をほとんど操縦できないことと、スーシティに向かっていることを伝えた[34]。そして、難しい着陸で結果がどうなるかわからない、そして脱出を成功させられるかもわからないとも述べた[39]。機長は、着陸へ備える時になったら客室へ警報放送「ブレース、ブレース、ブレース」を流すと伝えた[39]。「ブレース」とは、衝撃を低減するために体を前に折り曲げる不時着時の姿勢のことである[40]

15時41分、空港の進入管制官からUAL232便に緊急時の装備が待機していると連絡が入る[40]。続いて、航空機関士より客室乗務員が翼の損傷を目撃したと言っていると報告が上がった[40]。航空機関士が後部に確認に行くか尋ね、これを機長が許可した[40]。航空機関士はコックピットを離れ約2分半後に戻った[40]。彼は機体の尾部に損傷があると報告し、機長は「それこそ私が考えていたことだ」と言った[40]

15時48分、降着装置(ギア)が降ろされた[40]。油圧が使えないため、重力を利用する予備 (alternate) の方法でギアが降ろされたとパイロット同士が会話している[41]。15時49分、機長はパイロットたちに座席のベルトをしっかり締め、周囲を片付けるよう指示した[42]。TCA機長は航空機関士席でベルトを締め、スロットルの操作を続けた[43]

最終進入まで 

15時51分、管制官は、UAL232便が空港の北21マイル(約39キロメートル)の地点にいると知らせた[43]。続けて、旋回を少し広げて経路を左へ向けることを求めた[43][38]。これは、UAL232便が最終進入経路の入るためであり、当該機を市街地から遠ざけることもできるためであった[43]。これに対し機長は、何であれ当該機を市街地から離して欲しいと応答した[43][44]。数秒後、管制官はUAL232便に方位180度へ旋回するよう求めた[43]。15時52分には進行方向右側に高さ約100メートル前後の障害物があると注意喚起した[43]。続けて、管制官は、どの程度急な右旋回が可能か質問した[45]。機長は、バンク角30度を試みていると答えたが、乗員の1人はそんな急バンクはできないと発言している[45]

15時55分ごろ、機長は「放送して彼らにあと4分と伝えよ」と指示[46][47]。副操縦士が管制官に「あと3、4分で到着」と通信したが、機長はすぐに「放送、放送。乗客に伝えよ」と正した[46][47]。これを受けて航空機関士が「あと4分で着陸」と機内放送した[46][47]

当初、進入管制官は滑走路31に着陸させようとしていた[48][27]。「あと4分」と機内放送されたころ、UAL232便は、空港の北西約18マイル(約33キロメートル)の地点を飛行していた[48]。機長は、ここから滑走路31に回り込むことは困難と判断し、ほぼ直線上に位置していた滑走路22への着陸を決めた[48]

15時57分から59分にかけて、UAL232便と管制塔との間では、概ね以下のような交信が行われた[49][50][51]

  • 管制官「ユナイテッド232便、空港は12時の方向、13海里(約24キロメートル)」
  • 機長「OK、探している」
  • 機長「空港の標高は?」
  • 管制官「1,100フィート(約335メートル)」
  • 機長「ありがとう…、当機は降下を開始している」
  • 管制官「ユナイテッド232便、了解。空港は12時の方向、10海里(約19キロメートル)」
  • 管制官「ユナイテッド232便、もし空港までたどり着けなければ州間高速道路がある。空港の東端、南北に通っている、4車線だ」
  • 機長「たった今我々は道路を通過した。空港へ向おうとしている」
  • 機長「滑走路が見えた、滑走路が見えた、滑走路が見えた。間もなくだ。支援を感謝する」
  • 管制官「ユナイテッド232、風は360度(の方向)から11ノット、どの滑走路でも着陸を許可する」
  • 機長「(笑い声)了解(笑い声)。君は滑走路を指定して着陸させたいって言うのかい?」
  • 機長「OK、3本の滑走路を把握している。風の状況をもう一度」
  • 管制官「風は010度から11ノット。滑走路のうちの1本は閉鎖されているが、おそらく使えるだろう。北東から南西へ走っている」
  • 機長「我々は非常にうまく、この滑走路と一直線になっている…」
  • 管制官「ユナイテッド232便、一直線になっている滑走路は、滑走路22で閉鎖されている。使用可能にする。今、滑走路から機材を取り除いている。この滑走路と一列になっている」
  • 機長「滑走路の長さは?」
  • 管制官「6,600フィート(約2,012メートル)、機材を撤去中」
  • 管制官「滑走路の終端はオープンフィールド(開けた場所)だ」

滑走路が目視できた直後、機長の指示で、コックピットから「あと2分」と機内放送がされた[51]。そして、乗客に衝撃防止姿勢をとるよう客室乗務員が大声で呼びかけた[50]

着陸そして大破 

15時59分時点におけるスー・ゲートウェイ空港の天候は、一部曇りで周囲には積雲があった[52]。視程は15マイル(24キロメートル)、風は360度の方角から風速14ノット(約26キロメートル毎時)だった[52]

進入中、高揚力装置は格納されたままだった[27]。TCA機長は、副操縦士の速度計と機外を見ながら、第1、第3エンジンのスロットルレバーを操作していた[53]。TCA機長は、高揚力装置を使用しない進入の経験から、降下を制御するためには推力を用いる必要があることを知っていた[53]。TCA機長の証言によると、彼は進入中にスロットルを一定にすることはなく、常に調整し続けた[53][54]。15時59分44秒から8秒間、対地接近警報装置が、降下率が大きいことを警告した[55]

ここから着地までのコックピットボイスレコーダーの記録は概ね以下のとおりである[56][50][51]

  • 15時59分58秒:機長「スロットルを閉じよ」
  • 16時00分01秒:TCA機長「いや、スロットルは引けない。そうしたら失敗する」
  • 4秒後:副操縦士「左、アル」「左スロットル」「左、左、左、左…」
  • 16時09分09秒:別の対地接近警報が鳴り始める
  • 続けて、副操縦士「曲がってる、曲がってる、曲がってる」
  • 16時00分16秒:衝撃音、そして記録終了
スー・ゲートウェイ空港に不時着したユナイテッド航空232便の経路概略。航空写真は2006年撮影のものであり、事故当時とは異なる。

着地までの20秒間、事故機は対気速度が215ノット(時速約398キロメートル)、降下率が毎分1620フィート(約494メートル)で飛行した[55]。ピッチとロールの緩やかな振動が続いていたが、着地寸前に右主翼が急激に下がった[53]。この時、地上100フィート(約30メートル)で、ほぼ同時に機首が下がり始めたと機長は証言している[53]。機体は滑走路22の終端、センターラインのやや左側に着地した[57]。右主翼の翼端が地面に接触し、続いて右エンジンと右主脚が接地した[57][15]。右エンジンは接地してすぐ爆発炎上した[15]。機体は滑走路右側に横滑りし、右主翼と機体尾部が分離した[15][57]。残りの機体も火の車のように横転しながら分解、炎上しつつ滑走路17を横切って停止した[57][58][54][15]。裏返しになった胴体中央部は、最初の着地点から3,700フィート(約1キロメートル)離れたトウモロコシ畑で停止した[59]。機体は衝撃と火災で破壊された[60]

救助活動 

スー・ゲートウェイ空港は軍民共用空港であり、消防救助隊 (Aircraft rescue and firefighting ARFF) は、州兵が担当していた[61]。15時25分ごろ、消防救助隊に緊急事態の通報が入り、部隊の全車両5台が出動した[62]。同空港は普段DC-10型機が就航しておらず、同型機の緊急事態に必要な装備を有していなかった[63]。15時34分に、同空港は最高レベルの緊急事態警報を発令し、ただちに地域緊急対応計画に従いスーシティ消防部の応援車両も加わったほか、スー・シティと相互援助協定を結んでいた近隣自治体からの応援も集まった[64][65]。この間、管制塔からは救助隊に、当該機は空港まで到達できず、空港およそ5マイル(約9キロメートル)南に墜落する可能性も伝えられていた[64]

15時47分、消防救助隊長に、UAL232便は空港に向かっており滑走路31に着陸する見込みとの連絡が入った[64][66]。消防救助隊は直ちに滑走路31に沿って配置についた[64]。しかし、15時59分に管制塔から消防救助隊に対し、DC-10型機は滑走路31ではなく滑走路22に着陸するだろうと連絡が入った[64]。管制塔から消防救助隊に、数台の車両が進入経路沿いにいるので直ちに移動するよう指示が入った[64]

車両の再配置が完了するより早くUAL232便は空港に到達し、前述の通り着陸を試みたが接地後に横転して分解・炎上した[67]。搭乗者の一部は、衝撃で機外へ放り出された[68][15]。機体の停止後は、自力で脱出できた人も多かったが、機内に閉じ込められた人も少なくなかった[59][68][15]

当該機の墜落後、消防救助隊の全車両は滑走路22と滑走路17の交点に急行した[59]。隊長は素早く機体尾部を調査し、16時01分頃、全隊にトウモロコシ畑の機体中央部へ進むよう指示した[59]。最初に現場に到着した車両は、胴体中央部分に向けて消火剤を散布した[69]。16時04分ごろ、この車両は搭載していた水を使い果たしたが、後続の車両が到着して消火活動が続けられた[70]。火は右主翼部で激しく機体内部に広がり、17時ごろまで火勢が強くなり続けた[71]。墜落から2時間ほど火災を制圧できず、小さい火は夜まで続いた[71]

脱出した乗客は「他の乗客がトウモロコシの茎の間にいそうだ」と消防救助隊に伝えた[69]。トウモロコシは約7フィート(約2メートル)の高さがあり、生存者は後に「高いトウモロコシの茎のため方向がわからなかった」と証言した[69]。地代収入を見込んで空港の土地をトウモロコシ畑としてリースしていたが、このトウモロコシは、被害者の捜索・救助活動を困難にした[72]

救助活動に際しトリアージが実施され、救助された人たちは重症度に応じて搬送された[64][65]。34台の救急車と9機のヘリコプターが動員され、救助された人々が地元の病院へ搬送された[73][74]。警察は空港と病院の間の主要高速道路を封鎖し、緊急車両の通行を優先させた[65]。最初の搬送者は事故後16分で病院へ到着した[65]

現場の空港では、1987年10月に、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた[75]。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に生かされた[75]。救助活動は、後にアメリカ連邦航空局 (Federal Aviation Administration; FAA) により賞賛されたほどの水準だったが、機内に取り残され呼吸困難で亡くなった人も多かった[15]

被害状況

ファイル:UnitedAirlines232SeatInjuryMap.JPG
各座席における負傷・死亡状況

搭乗者296人のうち乗員1人と乗客110人が死亡した[64]。死因は35パーセントが煙による窒息で、残りは衝撃による外傷によるものだった[62]。犠牲者の中には、右田・小杉・スティルカップリングの発見者である化学者ジョン・ケネス・スティルがいた[76]。生存者のうち、乗員6人と乗客41人が重傷を負った[64]。重症の乗客のうち1人は事故の怪我により31日後に亡くなった[54][注釈 1]。残る乗員4人と乗客121人は軽症で、無傷の乗客も13人いた[64]

コックピット部分は機体から分離して腰高ほどに潰れていたことから、生存者がいるとは思われず、救助隊も後回しにした[77]。しかし、コックピット内の4人は全員生存していた[77]。残骸の窓から航空機関士の手が出ていたのを発見され、全員救助された[78][77]。コックピットの救助活動にはフォークリフトも投入された[79]。4人のパイロット達はそれぞれ、多数の骨折や打撲を伴う重症だったが、幸いにも回復し全員乗務に復帰した[77]。客室乗務員も1名は亡くなったが、助かった者は後に全員復職した[77]

事故調査

アメリカの国家運輸安全委員会 (National Transportation Safety Board; NTSB) を中心に事故調査が行われた[5][80]。本事故の情報は、まだUAL232便が飛行しているうちにFAAとNTSBに伝わり、直ちに調査チームが編成された[81]。調査官らが現場へ向かう飛行機を待っていたところ、テレビで事故機が横転炎上する様子が放映された[81]。現場への移動中に生存者がいるという情報が入り、調査官は驚いたという[81]

事故機の右主翼は接地後すぐに分離したが、胴体中央部と左主翼はほぼ一体のまま滑走路17を横断した先にあった[82]。機首部は接地後早い段階で分離し、滑走路17を横切る直前の場所に転がった[83]。尾部の大部分は滑走路22、滑走路17そして付近の誘導路上にあった[83]

フライトデータレコーダーは損傷もなく回収に成功した[84]。フライトデータレコーダーは不時着時まで正常に稼働しており、事故時のフライトを含む25時間分のデータが、概ね良好な状態で得られた[84]。フライトデータレコーダーの記録から、第2エンジンが損傷したのは15時16分10秒だと分かった[85]

コックピットボイスレコーダーも、15時26分42秒から33分34秒間の音声を良好な状態で記録していた[86]

スー・ゲートウェイ空港への進入中に事故機の写真が撮影されており、事故調査のため分析された[71][87]

なぜ油圧系統が喪失したか

写真解析の結果、機体第2エンジンや機体尾部に損傷があったことが分かった[71][82]。第2エンジン右側のファン・カウリング(ファンの覆い)とテイル・コーン(胴体の最後尾部分)が失われ、水平尾翼にも3か所の穴が開いていた[71][82]。残りの機体尾部そして第2エンジンは、概ね損なわれずにスー・ゲートウェイ空港の事故現場で発見された[82]。 尾部を復元、調査したところ、第2エンジンの第1段ファンとその付近の回転軸は、飛行中に分離したことが分かった[81][71][88]。第2エンジンと尾部のうち飛行中に失われた部品は、後述のとおり、後日アイオワ州アルタ英語版付近で発見された[71]。NTSBは、油圧喪失は以下のように起きたと結論付けた[71]。まず、第2エンジンの第1段ファン・ディスクが破砕して分離した[71][89]。これにより、エンジン回転部分の部品が強いエネルギーで飛散し、機体構造部分を貫通した[71][89]

事故機のエンジンは、ゼネラル・エレクトリック (GE) 社製のCF6-6エンジンだった[90]。このエンジンは、ターボファンエンジンであり、コア・エンジンのジェットでタービンを回す[91][注釈 5]。タービンが回転することで、シャフトで接続された前方のファンが回転する[91]。ファンは、円盤(ファン・ディスク)の周辺に羽根(ファン・ブレード)を多数並べた構造をしている[92][93][94]。第1段ファン・ディスクは鍛造チタン合金製で、重量は370ポンド(約168キログラム)である[95]

CF6エンジンの外観。黄色の円筒部がコンテインメント・リング。

ファンは直径も重量も大きいため、エンジンには、ファンが壊れた際に破片が飛び出すのを防ぐ「コンテインメント・リング」(封じ込めリング)が設けられている[96]。前方のコンテインメント・リングは、ステンレス鋼製の円筒形で、直径が86インチ(約2.18メートル)、軸方向の長さが16インチ(約0.41メートル)である[96][97]。このコンテインメント・リングは、ファン・ブレード1枚とその付随物の飛散に対処できるよう設計されていたが、本事故で飛散したのはブレード1枚ではなかった[96]

機体尾部と油圧系統の損傷箇所。

第1、第3油圧系統は、右の水平安定板内で油圧管が破断しており、破断面からはチタン合金が発見された[98]。第1段ファン・ディスクやファン・ブレードを始め、一部のエンジン部品には、チタン合金が用いられていた[98]。一方で、周辺の機体構造にはチタン合金は使用されていない[98]。NTSBは、断面のチタン合金を分析し、第1、第3の油圧管は第2エンジンから飛散した破片で切断されたと特定した[99]

第2油圧系統の油圧ポンプは、第2エンジンのアクセサリー・セクション(補機部)にあった[17]。そして、その位置はエンジンのファン・セクション直下だった[90]。第2エンジンのアクセサリー・セクションおよび油圧配管を含む第2油圧系統の一部は、アイオワ州アルタ地区で発見された[90]。したがって、第2油圧系統については、第2エンジンのアクセサリー・セクション付近がエンジン破損時に破壊されたと判断された[90][100]

エンジンが破損した直後、パイロット達は油圧3系統全てで作動液と圧力がゼロになったのを確認している[71]。フライトデータレコーダーの記録では、破損の1分後には操縦翼面は油圧による動きがなくなっていた[101]。油圧系統の破壊は、猛烈かつ突然だった[98]

ファン・ディスクの捜索

飛行中に落下した部品の捜索が始まった[102][103]。事故時にアイオワ州アルタ周辺に部品が落下しており、地元住民から、胴体やテイル・コーン、エンジン部品などの破片の情報が寄せられた[102]。しかし、ファン・ディスクはなかなか発見されなかった[103]。現場周辺はトウモロコシ畑が広がっていた[104]。事故が起きた7月には、トウモロコシは大人の背丈ほどまで成長しており、畑の中で周りを見通すことは困難だった[104]

50日ほどで刈り入れするので、ディスクも見つかるだろうと地元住民は話したが、NTSBは早急に回収するため、様々な手段で捜索にあたった[93]。落下位置を計算して捜索範囲を設定し、赤外線カメラで捜索したり、ヘリコプターで上空から探索したりしたが、発見できなかった[93]。エンジンを製造したGE社が賞金を出すと言いだすほどだった[93]。結局、事故から3か月後、落下想定地域の農業従事者によってトウモロコシの収穫中にディスクが発見された[105]。発見者は一躍有名人となり、マスコミに注目された[106]

なぜファン・ディスクが破断したか

発見されたのは大きな破片が2つで、それで問題のファン・ディスクのほぼ全体を占めていた[102]。それぞれにファン・ブレードも付いていた[102]。2つのディスク破片は回収され、破断の原因調査のため検査された[107]。破片を組み合わせた結果、円周方向と半径方向に走る割れ目ができ、ディスクの外輪部の約三分の一が分離していた[108]

回収された第2エンジンの第1段ファン・ディスクとファン・ブレード。写真上部にあたるディスクの隙間は、紛失したのではなく、破壊時の変形による[109]

どこから破断が始まったかを調べるため、断面解析が行われた[110]。割れ目は円周方向、半径方向とも典型的な過大応力により生じたと分かった[91]。そしてこれらの亀裂は、事故前からディスク内に存在していた疲労亀裂から進展したことが判明した[91]。金属学的調査の結果、材料内部に小さい空洞(キャビティ)が存在し、そこから疲労亀裂が始まっていた[91][110]。キャビティは、ディスク表面から約0.86インチ(約2.2センチメートル)入ったところで、大きさは軸方向に0.55インチ(約1.4ミリメートル)、半径方向に0.015インチ(約0.4ミリメートル)だった[91][111]

ファン・ディスクの製造工程は、大きく3ステップに分けられる[112]。まず、チタン合金の鋳塊製造、次に鍛造、そして最終機械加工である[112]。NTSBは、疲労亀裂の起点となるキャビティが発生したのは、最終機械加工から表面処理等のためのショットピーニング工程の間のどこかだと判断した[113][114]

断面解析、金属組織解析、そして分析化学的解析の結果、キャビティの周辺に窒素が濃化した「ハードアルファ」と呼ばれる欠陥があったことが明らかになった[111][115][116]。ハードアルファは非常に硬く脆いのが特徴で、これがチタン合金鍛造材内部に存在すると、早期の疲労損傷を引き起こす[117][115]。この欠陥は、チタン合金の鋳塊製造時に形成されたものだった[116]

エンジンが最大推力を発生させたとき、キャビティから亀裂が生じ、荷重が繰り返されるたびに亀裂は成長した[113]。疲労域には荷重がかかる度に縞模様が残るが、その数はファン・ディスクの離着陸回数とほぼ等しかった[113]。このことは、ファン・ディスクの使用開始の早い段階から疲労亀裂が発生していたことを示している[113]

亀裂は見逃されていた

第2エンジンの第1段ファン・ディスクは、1971年9月にGE社の工場で製造され、翌年1月にマクドネル・ダグラス社に納品されて新造のDC10-10型機に取り付けられた[90]。エンジンは定期的にオーバーホールされ、整備記録によるとユナイテッド航空やGE社のマニュアルに従って検査されていた[118]。このファン・ディスクが組み込まれたエンジンにおいて、オーバースピードやバードストライクの記録はなかった[119]。事故までの17年間、このファン・ディスクは計6回の精密部品検査を受けていた[118]。調査された全ての記録や使用履歴は、FAAが承認したユナイテッド航空の整備プログラムに従っていた[119][120]

6回の精密検査の際、ディスクは蛍光浸透探傷検査 (Fluorescent penetrant inspections; FPI)を受け、都度合格していた[118]。蛍光浸透探傷検査は亀裂検査法の一つで、次のようにして亀裂などを検出する[121][122][123]

  1. 蛍光染色塗料を含む浸透液(低粘性のオイル)を検査面に塗布する
  2. 亀裂があれば、毛細管現象によりオイルが浸透する
  3. 表面の余剰浸透液を除去してから現像剤を塗ることで、亀裂中の浸透液を吸い上げる
  4. 紫外線を照射すると、亀裂が蛍光として浮かび上がる

最後の蛍光浸透探傷検査は1988年2月に実施されていた[102]。GE社が行った破壊力学的解析では、最後の検査時点でディスク表面にほぼ0.5インチ(約13ミリメートル)の亀裂があったとされる[119][120]。事故後の破断面の調査において、疲労亀裂部に変色が見つかっていた[124]。その長さはディスク表面で0.5インチ弱だった[119]。NTSBは、この変色は蛍光浸透探傷検査の過程で生じたものであり、最後の検査時の亀裂の大きさを示すものと判断した[119]。そして、蛍光浸透探傷検査が適切に実施されていれば、高確率で発見できた亀裂だとしている[119]

ユナイテッド航空が検査で亀裂を見逃した原因として、NTSBは以下の点を指摘した[125]

  1. 蛍光浸透探傷検査の前処理において、ディスクはケーブルで吊り下げられるが、ケーブルの陰に隠れる部分などが目視できるように回転されていなかった
  2. ケーブルがかかっている部分への現像材の適用が不適切で、亀裂指示が不明瞭だった
  3. 当時の知見から本事故の亀裂発生部位は重要検査領域と考えられておらず、発見の機会を少なくした可能性があった

ユナイテッド航空は、ショットピーニング処理により、材料に亀裂を閉じる力が働き、浸透液が亀裂に浸透しなかったと主張した[125]。しかし、破壊力学や金属学、非破壊検査の専門家らの検討により、12ミリメートル程度の亀裂であれば、ショットピーニング処理は発見確率にほとんど影響しないとの結論に至った[125]

ファン・ディスクは、GE社での製造時にも超音波探傷検査、マクロエッチ検査(腐食を用いた巨視的表面組織検査法)、そして蛍光浸透探傷検査を受けていた[113]。しかし、これらの検査が実施されたのは、最終機械加工の前だった[113]。事故調査報告書では、加工後にマクロエッチ検査を実施していれば、キャビティを発見できただろうと述べている[113]

シミュレーター試験

NTSBは、本事故の過程を再現するシミュレーター試験を実施した[126][127]。試験の目的は、油圧が働かない航空機を操縦して着陸させられるか、そしてそのような訓練がDC-10型機のパイロットに有用かを確認することだった[126][127]

DC-10型機のシミュレーターには、フライトデータレコーダーの記録をもとに事故機の空気力学的特性が設定された[126]。そして、第2エンジンの破損と3系統全ての油圧喪失が再現された[126]。試験には、DC-10型機の操縦資格を持つ路線機長、訓練審査官、そしてメーカーのテストパイロットが参加した[126]。参加者は事故機と同じ飛行を行うよう指示された[126]。操縦手段は、左右エンジンの操作のみだった[126][127]

推力を左右非対称にすると、ロール姿勢が変化して飛行方位が変わった[126]。推力を増減させると、限定的にピッチ姿勢が変化した[126]。機体は重心まわりにピッチ軸で振動する傾向があり、どのような精度でも制御困難だった[127][126]。主にピッチ姿勢によって飛行速度が決まってしまうため、速度も直接制御できなかった[127][126]。従って、指定された場所に特定の速度で着陸するのは、極めて偶発的なことだった[127][126]。シミュレーターにより、事故のような状況を訓練することは、事実上不可能だという結論に至った[127][126]。ただし、シミュレーター試験で得られた知見はマクドネル・ダグラス社によってまとめられ、DC-10型機の運航者に提供された[127]

事故原因

NTSBは、1989年7月19日に事故調査報告書を発行した。報告書で結論付けられた事故原因の要約は以下のとおりである[128]

事故の原因は、ユナイテッド航空のエンジン整備施設で実施していた検査および品質管理手順において、人的要因の限界について検討が不十分だったことである。そのため、ゼネラル・エレクトリック社が製造した第1段ファン・ディスクに内在していた金属学的欠陥に起因する疲労亀裂を発見できなかった。 その結果、第2エンジンのファン・ディスクが壊滅的に破断して破片が飛散した。そのエネルギーレベルは、設計上考慮されていた保護水準を超えており、DC-10型機の飛行制御を担う3本の油圧系統の喪失に至った。

運航乗務員の対応

事故機の飛行特性と操縦

一定速度で水平飛行している時、飛行機に働く力は全て釣り合っている[129][130]。前後方向では推力抗力が、上下方向では揚力重力がそれぞれ釣り合う[129][130]。直進していれば、左右には力がかからない[130]。基本的に操縦とは、操縦翼面を動かして機体の姿勢を変え、釣り合いの状態を変えることで、意図した飛行経路を実現することである[131]。この際には、姿勢に応じた推力操作も必要となる[131][130]。また、飛行中の飛行機は、風などの擾乱を受ける[132]。これに対して姿勢や速度を修正するためにも、操縦翼面は用いられる[132]

DC-10型機は、全ての操縦翼面を油圧で動かす設計であった[133]。油圧を失った事故機は、あらゆる操縦翼面を操作できなくなった上、各舵面は必ずしも中立位置で固定されていなかった[134]。異常発生後、事故機は右旋回で降下し始めた[134]。パイロットは、左右エンジンの推力を非対称とすることで、機体の釣り合いをとった[134]

事故機は一応の釣り合いを保ったが、平衡状態の近傍で振動的な運動をしていた[135]。上昇と下降は推力の増減により行われたが、フゴイド運動を伴うため、変更できるのは、あくまで平均的な経路である[136][137]。振動の多くは自然に減衰するが、事故機ではフゴイド運動と呼ばれる減衰しにくい振動が発生した[136]。フゴイド運動は、上昇と下降を繰り返す振動であり、1分程度の長い周期を持ち長周期モードとも呼ばれる[136][138]。正常な飛行機であれば、操縦翼面により迎角(主翼と気流のなす角)を制御することで抑制できるが、油圧を失った事故機では、推力の微調整でフゴイド運動を抑える必要があった[139][137]

旋回の制御は、左右エンジン推力を非対称にすることで実現した[140]。推力を非対称にすると、主翼の揚力が左右非対称になり、ロール運動を発生させられる[140]。しかし、これも推力を変化させるため、その都度フゴイド運動が発生する[140]。さらに、推力を左右非対称にするとダッチロールと呼ばれる振動も発生する[140]。推力は操作しても実際に変化するまでに遅れがある[140][137]。事故機は、推力操作から経路変化が現れるまでに20から40秒を要した[140][137]。事故機を操縦するためには、さまざまな乱れの中で間隙を縫うように経路を定め、着地の20 - 40秒前に必要な推力変化を予想しなければならなかった[140]

正常な着陸時には、高揚力装置を展開し、昇降舵で迎角を増大させて飛行速度を落とす[141]。DC-10型機の通常の着陸速度は、140 - 150ノット(時速約259 - 278キロメートル)であるが、迎角を変える手段を失った事故機は機首上げができず、平均215ノット(時速約398キロメートル)で着陸した[141]。前述のように、機長は、早い段階でこのような着陸を想定し、高揚力装置を使用しない着陸データを航空機関士に求めていた[141]

クルー・リソース・マネジメント

DC-10型機の油圧系統は、冗長化の考え方で設計されていた[142]。マクドネル・ダグラス社、ユナイテッド航空、そしてFAAは、油圧操縦系統が全て機能しなくなるような事態はまず起こらないと考えていた[143]。したがって、そのような状況に備えた手順や訓練は用意されなかった[143]。シミュレーター訓練が実施されていたのは、油圧3系統のうち2系統が喪失した状況までだった[144][143]。本事故を経験したパイロット達は、全油圧を失った場合の訓練を受けていなかったが、2基のエンジンの操作によりスー・ゲートウェイ空港まで辿り着いた[145][注釈 6]

296人のうち184人が生存できたことは、航空界を驚かせた[146]。事故調査報告書では、「安全な着陸は事実上不可能」と述べており[147]、もっと多くの犠牲者が出てもおかしくない事故だった[148][149]

乗務員達の行動はクルー・リソース・マネジメント (CRM) の成功例として知られることになった[150]。かつて、機長は機内の権威であり、いわゆる「偉い人」であると捉えられてきた[151][152]。しかし、航空事故の歴史から、「利用可能なあらゆる情報やアイディアを有効活用し、チームとしての総合力を発揮しよう」という考え方が生まれた[152]。これがクルー・リソース・マネジメントの考え方であり、操縦室内の上下関係に関わらず、機長に対して自由に意見できる文化が育まれるようになった[152][153]。ユナイテッド航空では、1980年からクルー・リソース・マネジメントが訓練に取り入れられていた[154]

事故機のパイロット達は、油圧操縦系統の異常に対処するため、適切なコミュニケーションを取っていた[155]。パイロット達は、問題への対処手順、考えられる解決法、取るべき方策を話し合っていた[143]。機長は、危機的状況の中でも時にジョークを交えコックピット内の良好な雰囲気作りに努めた[156]。TCA機長が協力を申し出たことに対し、機長は速やかに、積極的に、そして適切に受け入れた[157][148]。TCA機長は、約20分のスロットル操作を経て、乗務員達と適切なコミュニケーションをとり、推力で事故機を操縦するスキルを身につけていた[158]。しばらくの間、TCA機長は床にひざまずいてスロットルを操作していたが、着陸に備えシートベルトを着ける必要があった[159][158]。そこで機長はTCA機長に航空機関士席に座るよう指示を出した[158]。航空機関士は座席を譲り、自分は補助席に移って業務を続けた[158][160]。TCA機長は本来の乗務員ではなかったが、このままスロットル操作を任せた方が適切だと乗員たちは判断し、速やかに行動を取ったのだった[158][161]

事故調査報告書では、ユナイテッド航空で10年間実施されてきたクルー・リソース・マネジメント訓練の成果がこれら乗務員達の行動に反映されたとしている[157][143]。シミュレーター試験の結果から、UAL232便のような状況を模した訓練は有効性がないという結論に至った[157]。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記している[157][注釈 7]

事故の教訓と対策

製造工程の改善

ファン・ディスクの材料となったチタン合金の鋳塊は、消耗電極式真空アーク再溶解 (Vacuum Arc Remelting) という方法で製造された[162][117][153]。この製造法を用いる場合、鋳塊中のハードアルファを少なくするために、溶解を繰り返す二重溶解や三重溶解が取られる[注釈 8][162][117][153]。事故原因となったファン・ディスクは、その当時主流だった二重溶解で製造されたものだった[164][153]。そして、皮肉にもこのファン・ディスクが製造された1年後(事故の約18年前)には、GE社は製造工程を改善し、より高品質となる三重溶解に切り替わっていた[165][145]

FAAは、旧工程で製造されたファン・ディスクに対し、超音波探傷検査の実施を指示した[145]。この検査により、新たに2基のファン・ディスクに亀裂が発見され、新しいディスクに交換された[145]。そして、GE社は検査マニュアルに超音波探傷検査を追加した[145]

油圧系統の設計変更

1989年9月15日、事故を受けてマクドネル・ダグラス社は、全てのDC-10型機に対する設計変更を発表した[145]。全ての油圧系統に遮断バルブを追加し、油圧低下を検出した際にバルブを閉じるようにした[144]。これにより、本事故と同様の事象が発生した場合に、最小限の油圧と飛行制御を確保できるようにした[144]

エンジン制御による操縦の研究

前述のとおり、NTSBのシミュレーター試験により、全油圧を失った場合の操縦法の訓練するのは非現実的という結論に至った。アメリカ航空宇宙局 (NASA) は本事故を一つのきっかけとして、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している[166][167]。また、日本の三菱重工でも同様の研究が行われている[168]

乳幼児の安全性向上

事故機には、座席を使用しない(保護者の膝上に座っていた)乳幼児が4人いた[169]。緊急着陸に備えて子供達は床に寝かせられ、客室乗務員が用意した枕や毛布でできるだけ衝撃を抑えるよう固定したが、不時着時の衝撃で宙に投げ出された子供もいた[169][170]。4人の子供のうち3人は助かったが、1名は火災の煙に巻かれ亡くなった[169]。事故後の1990年5月、NTSBは、FAAに対して乳幼児の安全に関する勧告を発行した[169][171]。本事故は、機内の乳幼児の安全性向上を進めるきっかけの一つとなった[172]

本事故を主題とした映像など

本事故は、1992年のアメリカのテレビ映画『Crash Landing: The Rescue of Flight 232(邦題:レスキューズ/緊急着陸UA232)』で主題として描かれた[173][174]。また、ナショナルジオグラフィックチャンネルの「メーデー!:航空機事故の真実と真相」の第9シーズン第14話『ユナイテッド航空232便 (SIOUX CITY FIREBALL)』[175]、および「衝撃の瞬間」の第7話『スーシティー空港への不時着 (Crash Landing at Sioux City) 』[176]でそれぞれ主題として取り上げられている。

脚注

注釈

  1. ^ a b c 事故後31日で亡くなった乗客1人は、アメリカの連邦規則集の基準により重篤な負傷者に分類された[82]
  2. ^ UALは、ユナイテッド航空航空会社コードである。
  3. ^ 納入年はNTSBの事故調査報告書では1971年と記されているが、1973年とする資料も複数ある[4][5][6]
  4. ^ ターボファンエンジンでは、吸引された空気は、コアを通り燃焼・噴出されるものと、コアを通らず排出される(バイパスされる)ものに分けられる[8]。コアをバイパスする空気流量をコアを通る空気流量で割ったものがバイパス比であり、一般にこの値が大きいほど推進効率が高くなる[8][9]。詳細はターボファンエンジンを参照。
  5. ^ コアとは、ターボファンエンジンのエンジン駆動力を発生させる内燃機関部のこと[8]。詳細はターボファンエンジンを参照。
  6. ^ 桑野, 前田 & 塚原 (2002, pp. 192, 209)によると、TCA機長は、油圧系統が機能しなくなり墜落した日本航空123便墜落事故の発生後、自分のシミュレーター訓練の際に、エンジン出力の調整のみで操縦することを試みていたとされるが、事故調査報告書 NTSB (1990) や機長の講演録 Haynes (1991) では触れられていない。
  7. ^ 原文は、"The Safety Board believes that under the circumstances the UAL flightcrew performance was highly commendable and greatly exceeded reasonable expectations." である[143]
  8. ^ ただし、溶解を繰り返しても完全に欠陥を除去できる保証はない[163][117]

出典

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オンライン資料

座標: 北緯42度24分29秒 西経96度23分02秒 / 北緯42.40806度 西経96.38389度 / 42.40806; -96.38389