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「バッファロー・セイバーズ」の版間の差分

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{{NHLteam
{{NHLteam
|チーム名 = バッファロー・セイバーズ
|チーム名 = バッファロー・セイバーズ
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== チーム創設から1980-1981シーズンまで ===
バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、[[アメリカン・ホッケー・リーグ|AHL]]のバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の[[ホッケーの殿堂|殿堂]]入り選手のセンター、[[ジルベール・ペロー]] (Gilbert Perreault) を引き当てた。ペローはこの年、新人ながら38ゴールを挙げてカルダー記念賞(最優秀新人賞)を受賞したが、チームはプレーオフ進出を逸した。
バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、[[アメリカン・ホッケー・リーグ|AHL]]のバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の[[ホッケーの殿堂|殿堂]]入り選手のセンター、[[ジルベール・ペロー]] (Gilbert Perreault) を獲得した<ref name="ecyclopedia">{{cite web|url=http://www.sportsecyclopedia.com/nhl/buffalo/sabres.html |title=Buffalo Sabres (1970-Present) |publisher=sportsecyclopedia.com |accessdate=2015-02-20 }}</ref>。ペローはこの年、新人ながら38ゴール34アシストを挙げて[[カルダー記念賞]](最優秀新人賞)を受賞したが、チームは24勝39敗15分でイースタンディビジョン5位であった<ref name="ecyclopedia"/>。


1972-1973シーズンには、[[レネ・ロベール]] (Rene Robert)、ペロー及び新人の[[リック・マルタン]] (Rick Martin) の[[フランス系カナダ人]]選手で組んだフォワードラインは、ファンから[[フレンチ・コネクション|同名の映画]]にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。[[1973年]]、チームは創立から2シズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、この年[[スタンレー・カップ]]優勝の[[モントリオール・カナディズ]]に準々決勝屈した。
1971-1972シーズンには、[[リック・マルタン]](Rick Martin)をドラフトで獲得、シーズン終盤には、[[ピッツバーグ・ペンギンズ]]からトードで[[ルネ・ロベール]]を獲得、ペローマルタン、ロベールの[[フランス系カナダ人]]選手で組んだフォワードラインは、ファンから[[フレンチ・コネクション|同名の映画]]にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。チームは16勝43敗19分でイースタンディビジョ6位あっ<ref name="ecyclopedia"/>


{{Main|en:The French Connection (ice hockey)}}
1973-1974シーズンはプレーオフ進出を逃し凡庸な成績に終わったものの、翌1974-1975のレギュラーシーズンはNHL史上タイとなる好成績で終え、スタンレー・カップ決勝シリーズでは[[フィラデルフィア・フライヤーズ]]と対戦し、チームはシリーズ初勝利を挙げた。このシリーズが開催された1975年5月のバッファローは異常に気温が高く、シリーズ第3戦の一部は濃霧の中で行われたため観客の多くは試合の模様を見ることができなかった。また、霧の中のフェイスオフの最中にリンク上を横切る[[コウモリ]]を見つけたセイバーズのセンター、[[ジム・ローレンツ]] (Jim Lorentz) は、スティックでこれを叩き落とした。NHLの試合中に選手が直接的に動物を殺したのはこれが初の出来事であり、数々の逸話が生まれたこの第3戦は「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。結局セイバーズはシリーズ2勝4敗でスター・ゴーリーの[[バーニー・ペアレント]] (Bernie Parent) を擁し万全のフライヤーズの前に敗れた。


1972-1973シーズンには、ドラフトで[[ディフェンスマン]]の[[ジム・ショーンフェルド]](Jim Schonfeld)を獲得、また大ベテランの[[ティム・ホートン]](Tim Horton)が加入してリーダーシップを発揮した<ref name="canada">{{cite web|url=http://www.canada.com/story.html?id=7ddda426-0216-4116-b244-77292a7c5b36 |title=Tale of Tim Horton's last ride |publisher=canada.com |date=2005-09-30 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。チームは37勝27敗14分で創立から3シーズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、準々決勝で、この年[[スタンレー・カップ]]優勝の[[モントリオール・カナディアンズ]]に2勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
1975-1976シーズンには、50ゴールを挙げた Danny Gare が「フレンチ・コネクション」に新たに加わって、セイバーズの得点力は依然好調であったが、プレーオフ準々決勝で[[ニューヨーク・アイランダーズ]]に敗れた。これら4選手の活躍もあって、セイバーズは1970年代後半に好調を維持したが、[[1980年]]のレギュラーシーズンでカンファレンス優勝に輝いたほかはスタンレーカップ決勝トーナメント進出に至らなかった。


1973-1974シーズンはペローが足の故障で8週間欠場、ゴーリーの[[ロジャー・クロージャー]](Roger Crozier)も[[膵炎]]でシーズン途中に離脱した。さらに2月20日の[[トロント・メープルリーフス]]戦を終えて、トロントからバッファローへ帰宅途中のホートンがセイバーズと契約した際にボーナスとして受け取った[[デ・トマソ・パンテーラ]]で事故を起こして亡くなった<ref name="canada"/>。ホートンは、飲酒運転に加えて、鎮痛剤を利用していた。チームは主力選手が欠場する中、プレーオフを逃したものの32勝34敗12分で5位となった<ref name="ecyclopedia"/>。
1980年にはロベールがコロラド・ロッキーズ(後の[[ニュージャージー・デビルス]])に、また[[1981年]]にはマルタンが[[ロサンゼルス・キングス]]に相次いでトレードで放出された。さらに[[1987年]]には 17年間に渡ってセイバーズに所属し、数期チームのキャプテンを務めたペローが引退した。1980年代セイバーズのスター選手にはペローのほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno, ディフェンスの[[フィル・ハウズリー]] (Phil Housley)、左ウイングの[[デイブ・アンドレチャク]] (Dave Andreychuk) らがいた。しかし1980年代を通じて、たった2度しかプレーオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。


1974-1975のレギュラーシーズン、フレンチコネクションがそれぞれトップ10に入る得点をあげて、チーム全体では354得点をあげた。チームは49勝16敗15分で新設されたアダムズ・ディビジョンで1位となった。プレーオフでは[[シカゴ・ブラックホークス]]を4勝1敗、カナディアンズを4勝2敗で破り、スタンレー・カップファイナルに進出した。[[フィラデルフィア・フライヤーズ]]とのシリーズでは、アウェイで連敗した後、華氏90度の高温の中で行われたホームでの第3戦(濃霧の中で行われたため、後に「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。)で延長の末、初勝利をあげた。第4戦も勝利し、2勝2敗としたものの、スター・ゴーリーの[[バーニー・ペアレント]] (Bernie Parent) を擁するフライヤーズの前に2勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
[[1989年]]には、[[ベルリンの壁]]の崩壊に続いて、旧[[ソビエト連邦]]の若手トップ選手がNHLへと流入し、セイバーズはそのうち[[アレクサンドル・モギルニー]] (Alexander Mogilny) と契約を行った。センターの[[パット・ラフォンテーヌ]] (Pat LaFontaine) の活躍とともに、モギルニーは1992-1993シーズンに[[ウィニペグ・ジェッツ (1972-1996)|ウィニペグ・ジェッツ]]の[[テーム・セラニ]] (Teemu Selanne) と並ぶリーグトップタイの76ゴールとその本領を発揮し、チームは久しぶりの決勝第1ラウンド突破を成し遂げた。なお、[[ボストン・ブルーインズ]]と対したこの第1ラウンドでは、第4試合の延長戦でブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を挙げたときのベテランラジオアナウンサー Rick Jeanneret の実況「メイが決めた!」("May Day!") はリーグの語り草になっている{{要出典|date=2015年2月8日 (日) 15:02 (UTC)}}。チームは第2ラウンドでこの年スタンレー・カップ優勝のカナディアンズに敗退。


1975-1976シーズンには、46勝21敗13分でディビジョン2位となった。ペローが113ポイントをあげるなど、フレンチコネクションの3人はいずれも86ポイント以上を獲得した。1月4日に行われたソ連の[[クリリヤ・ソビエトフ]]との[[エキシビション]]ゲーム([[スーパーシリーズ (アイスホッケー)|スーパシリーズ]])では、他の3チームがソビエトフに敗れる中、唯一NHLチームで勝利をあげた。プレーオフでは、[[セントルイス・ブルース]]を3勝2敗で破った後、準々決勝で[[ニューヨーク・アイランダーズ]]と対戦、2連勝の後、4連敗して敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。この年、加入した[[ダニー・ゲア]](Danny Gare)が50ゴールを挙げた。
また1992-1993シーズンには、セイバーズはチーム史上最も重要と思われる{{誰2|date=2015年2月8日 (日) 15:02 (UTC)}}トレードを敢行し、2シーズンの間[[シカゴ・ブラックホークス]]の控えゴーリーに甘んじていた[[ドミニク・ハシェック]]を獲得した。「支配者」(Dominator) の称号を冠せられたハシェックは翌期からセイバーズの先発ゴーリーを務めた。ハシェックは、長年のNHLゴーリー記録の数々を早々に更新し、NHL及び国際試合においてその後数年間、抜群の守護神としてアイスホッケー界に君臨した。


1976-1977シーズン、48勝24敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦では、[[ミネソタ・ノーススターズ]]を一蹴したが、2回戦でニューヨーク・アイランダーズに4連敗してシーズンを終えた<ref name="ecyclopedia"/>。
[[1998年]]、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーの[[マシュー・バーナビー]] (Matthew Barnaby)、左ウイングのミロスラフ・サタン (Miroslav Satan)、右ウイングのドナルド・オーデット (Donald Audette)、センターの[[マイケル・ペカ]] (Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮し、カンファレンス決勝に進出したが、第6戦で[[ワシントン・キャピタルズ]]の前に敗退した。


1977-1978シーズン、44勝19敗17分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦で[[ニューヨーク・レンジャース]]を破った後、フライヤーズに1勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
[[1999年]]は、40ゴールを決めたサタンに加え、新たに[[ピッツバーグ・ペンギンズ]]からセンターの[[スチュ・バーンズ]] (Stu Barnes)、またキャピタルズからは[[ジョー・ジュノー]] (Joe Juneau) を獲得した。[[ミハル・グロセク]] (Michael Grosek) は自身最高のシーズン成績を収め、セイバーズは再びスタンレー・カップ決勝戦に駒を進めた。このときの対戦相手は、[[ダラス・スターズ]]であった。このシリーズ7連戦の第6ゲームで、スターズの[[ブレット・ハル]] (Brett Hull) が再々延長戦で決勝ゴールを決め、スターズがスタンレー・カップを獲得した。ただし、決勝ゴールの際ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズ(ゴールネット前のエリア)を犯しており、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていたため、スターズの勝利は物議を醸した。その当時スターズの地元紙『[[ダラス・モーニング・ニュース]]』(Dallas Morning News) のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ (Keith Gave) ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈したほどであった。


1978-1979シーズン、シーズン途中にゼネラルマネージャーとヘッドコーチが解任されたが、暫定ヘッドコーチ就任から7連勝し、36勝28敗16分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でペンギンズに敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
翌年、選手たちは疲弊し意気消沈した不本意なシーズンを送り、プレーオフ第1ラウンドでフライヤーズに敗北した。2000-2001シーズンは、キャプテンのペカが契約のこじれから戦列参加せず、その後ニューヨーク・アイランダーズにトレード放出された。にもかかわらず、セイバーズはプレーオフ第1ラウンドでフライヤーズを下し、特に第2ラウンド進出を決めた試合では8対1と完璧な勝利を収めたが、第2ラウンドでは再延長戦終盤でペンギンズの[[ダリウス・カスパライティス]] (Darius Kasparaitus) の決勝ゴールにより敗れた。


1979-1980シーズン、前シーズンまで[[モントリオール・カナディアンズ]]を率いて4年連続でスタンレー・カップファイナルを制覇していた[[スコッティ・ボウマン]]がヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーに就任した。ロベールがコロラド・ロッキーズ(後の[[ニュージャージー・デビルス]])にトレードされた。チームは47勝17敗16分でアダムズ・ディビジョンで1位となり、プレーオフでは[[バンクーバー・カナックス]]を3勝1敗、ブラックホークスを4連勝で破り、準決勝に進んだが、ニューヨーク・アイランダーズに2勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
このシーズンオフ(2001年夏)には、ハシェックとの長期に渡る契約交渉が不調に終わって、セイバーズはハシェックを[[デトロイト・レッドウィングス]]にトレードで放出した。こうしてハシェックとペカを失ったセイバーズは[[2002年]]にはプレーオフ進出を逸した。また2002年夏には、チームオーナーで Adelphia Communications の[[CEO]]でもある[[ジョン・ライガス]] (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなどチームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、[[2003年]]1月には[[破産]]申請をし<ref>「破産2チーム、オーナーいない 視聴率も振るわず NHL」[[朝日新聞]]、2003年2月8日夕刊3ページ</ref>、その後[[ニューヨーク州]][[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]在住の富豪で、前ニューヨーク州知事選候補者であった Tom Golisano に買収された。


1980-1981シーズン、ボウマンがGMに専念することとなり、[[ロジャー・ニールソン]](Roger Nielson)がヘッドコーチに就任、チームはペローが22試合で欠場する中、39勝20敗21分で2年連続ディビジョン1位となった。1981年3月11日にマルタンが[[ロサンゼルス・キングス]]にトレードで放出された。プレーオフではカナックスに3連勝した後、ノーススターズに1勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
この後チームは混乱からの脱却を図り、[[ダニエル・ブリア]] (Daniel Briere)、[[デレク・ロイ]] (Derek Roy)、[[ロリー・フィッツパトリック]]ら若手の登場・躍進も見られたが、2003-2004シーズンはプレーオフ進出を逸した。なお、2004-2005シーズンはストライキによりNHLの試合開催が中止された。


=== 1981-1982シーズンより1995-1996シーズン ===
2005-2006シーズンはフォワード[[クリス・ドル=リー]]、ブリエア、[[ジェイソン・ポミンビル]]などの活躍で、52勝24敗6延長戦負けという好成績を出した。プレーオフでは、第1ラウンドはフライヤーズを4勝2敗で下し、2ラウンドも[[オタワ・セネターズ]]を4勝1敗で下した。しかし、コンフェレンス決勝までの間に怪我人が増え、第6戦では[[ジェイ・マクキー]]も怪我人になった。第7戦は4対2で負けてシーズンが終わった。オフにフォワードの[[J.P.デュモント]]、ディフェンスのスマクキーらを放出し、ディフェンスに[[ヤロスラブ・スポッチェク]]を加えた。
1981-1982シーズン、ニールソンがカナックスのヘッドコーチに就任したため、ボウマンがヘッドコーチに復帰した。チームは11月を12勝5敗7分で終えたが、[[デトロイト・レッドウィングス]]とのトレードの後、ボウマンの代わりにアシスタントコーチがヘッドコーチに昇格、3月半ばに再度ボウマンがヘッドコーチに就任した。チームが混乱する中、39勝26敗15分でディビジョン3位となり、プレーオフに進出したが、[[ボストン・ブルーインズ]]に1勝3敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。


1982-1983シーズン、38勝29敗13分でディビジョン3位となった。プレーオフではカナディアンズを3連勝で破った後、ブルーインズに3勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。
2006-2007シーズン、セイバーズは新しいホームジャージ、アウェイジャージを採用し、チームロゴもそれまでのレッドアイバッファローから黄色・青を基調としたバッファローのロゴに変更され、チームカラーも変更された。チームはプレーオフに進出し、ニューヨーク・アイランダーズ、[[ニューヨーク・レンジャーズ]]を破ってカンファレンス決勝まで駒を進めたが、セネターズに敗れて2年連続でカンファレンス決勝で姿を消し、スタンレーカップファイナル進出を逃した。オフ、キャプテンを務めていたダニエル・ブリアがフライヤーズ、クリス・ドゥルーリーがレンジャーズに移籍。

1983-1984シーズン、ドラフト全体5位で[[トム・バラッソ]](Tom Barrasso)を獲得、彼はカルダー記念賞と[[ベジーナ賞]]に選ばれた。チームは48勝25敗7分でディビジョン2位となったが、プレーオフでは[[ケベック・ノルディックス]]に3連敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1984-1985シーズン、ショーンフェルドがチームに復帰した。チームは38勝28敗14分でディビジョン3位となった。プレーオフ1回戦、ケベック・ノルディックスとの第5戦では残り9分で5-3とリードしていたが、立て続けに3点を失い敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1986年3月7日のデビルス戦でペローが通算500ゴールを達成した。チームは37勝37敗6分で12年ぶりにプレーオフを逃した<ref name="ecyclopedia"/>。

1986-1987シーズン、ペローが最初の14試合で9ゴールをあげた。11月24日、ペローが引退、5勝15敗3分となった12月2日、ボウマンGMが解任された。チームはNHLワーストの28勝44敗8分けで2年連続プレーオフを逃した<ref name="ecyclopedia"/>。

1987-1988シーズン、ドラフト全体1位で[[ピエール・タージオン]](Pierre Turgeon)を獲得、タージオンはチーム6位となる42ポイントをあげた。また[[デイブ・アンドレイチャック]]がチームトップの78ポイントをあげた。チームは37勝32敗11分で3年ぶりにプレーオフに進出、ブルーインズに2勝4敗で敗れてシーズンを終えた<ref name="ecyclopedia"/>。

1988-1989シーズン序盤、トム・バラッソをトレードして[[ダレン・パッパ]](Darren Puppa)を獲得した。1989年1月27日、パッパが腕を骨折したため、控えの[[ジャック・クルーティエ]](Jacques Cloutier)でシーズンを戦った。3月に[[ワシントン・キャピタルズ]]から[[クリント・マラチャック]](Clint Malarchuk)をトレードで獲得したものの、3月22日のブルース戦でマラチャックはスケートのエッジで、[[頸静脈]]を6インチ切る大怪我をした。トレーナーとチームドクターの素早い救命措置でマラチャックは一命を取り止め<ref>{{cite web|url=http://sportsxproject.jp/special/discovery_channel/ss01_08 |title=6.頚静脈から大量出血から生還した秘訣とは |publisher=[[ゼビオ]] |date= |accessdate=2015-02-22 }} </ref>、翌日には退院した。チームは38勝38敗7分でディビジョン3位となり、プレーオフではブルーインズに敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1980年代、セイバーズのスター選手にはペローのほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno, ディフェンスの[[フィル・ハウズリー]] (Phil Housley)、左ウイングの[[デイブ・アンドレチャク]] (Dave Andreychuk) らがいた。しかし1980年代を通じて、たった2度しかプレーオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。

[[1989年]]には、[[ベルリンの壁]]の崩壊に続いて、旧[[ソビエト連邦]]の若手トップ選手がNHLへと流入したが、セイバーズは、前年のドラフトで全体89位で指名した[[アレクサンドル・モギルニー]] (Alexander Mogilny) と契約を結んだ。モギルニーは43ポイントを獲得<ref>{{cite web|url=http://sabreslegends.blogspot.jp/2009/03/alexander-mogilny.html |title=GREATEST HOCKEY LEGENDS |publisher=sabreslegends.blogspot.jp |author=Joe Pelletier |date= |accessdate=2015-02-22 }}</ref>、タージオンがキャリア初の100ポイントを達成した。チームは45勝27敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦でカナディアンズに2勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1990年、ドラフト当日のトレードでウィニペグ・ジェッツから[[デール・ハワーチャック]] (Dale Hawerchuk) を獲得、彼はこのシーズン89ポイントをあげた。開幕から7試合で1勝もあげられなかったが、31勝30敗19分でディビジョン3位となりプレーオフに進出、1回戦でカナディアンズに敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1991-1992シーズンも開幕から2勝5敗1分とスロースタートであったが、10月25日にアイランダーズからセンターの[[パット・ラフォンテーヌ]] (Pat LaFontaine) をトレードで獲得した。11月16日にラフォンテーヌはあごを骨折し、チームを離脱したが、12月21日に復帰、57試合の出場で93ポイントをあげる活躍を見せた。チームは31勝37敗12分でディビジョン3位、プレーオフではブルーインズに3勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1992-1993シーズン、ラフォンテーヌとモギルニーがそれぞれ100ポイント以上をマーク、ラフォンテーヌはアメリカ生まれの選手としては最高の148ポイントをあげた<ref>{{cite web|url=http://www.nhl.com/ice/news.htm?id=646127 |title=1992-93 featured unprecedented offensive explosion |publisher=NHL |date=2012-11-30 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。モギルニーは[[ウィニペグ・ジェッツ (1972-1996)|ウィニペグ・ジェッツ]]の[[テーム・セラニ]] (Teemu Selanne) と並ぶリーグトップタイの76ゴールをあげ、ラフォンテーヌは53ゴール、95アシストをあげた。その一方でチームは297失点を許し、38勝36敗10分でディビジョン4位となった。プレーオフでは1回戦で第1シードのブルーインズと対戦、4連勝で10シーズンぶりに1回戦を突破した。なお、ブルーインズとの第4戦の延長にブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を挙げたときのベテランラジオアナウンサー Rick Jeanneret の実況「メイが決めた!」("May Day!") はリーグの語り草になっている<ref>{{cite web|url=http://www.nhl.com/ice/news.htm?id=679086 |title=May, Jeanneret forever linked by 'May Day' goal |publisher=NHL |author=John Ciolfi |date=2013-01-08 |accessdate=2015-02-20 }} </ref>。チームは2回戦でこの年スタンレー・カップ優勝のカナディアンズを相手に3試合で延長まで戦ったものの4連敗で敗退した<ref name="ecyclopedia"/>。

1993-1994シーズン、11月19日にラフォンテーヌがひざの負傷でシーズン絶望となった。またゴーリーの[[グラント・ファー]](Grant Fuhr)もひざの手術をすることになり、6週間以上欠場することとなった。控えゴーリーの[[ドミニク・ハシェック]]がこのチャンスをものにして、ベジーナ賞に選ばれる活躍を見せた。デビルスとのプレーオフ第6戦でハシェックは70本のシュートを打たれたがシャットアウト、味方も[[マーティン・ブロデューア]]からゴールを奪えず、延長5分43秒に[[マイク・ハナン]]があげたゴールで3勝3敗のタイに持ち込んだが、第7戦では敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1994-1995シーズン、NHLは4ヶ月[[ロックアウト]]が実施された。ハシェックはこの年もベジーナ賞を獲得した。ラフォンテーヌが22試合しか出場できなかったものの、チームは22勝19敗7分でプレーオフに進出、[[フィラデルフィア・フライヤーズ]]に1回戦で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

1995-1996シーズン、モギルニーをカナックスへトレードした。チームはこの年33勝42敗7分で[[ノースイースト・ディビジョン]]5位でプレーオフを逃した。このシーズンで本拠地[[メモリアル・オーディトリアム]]に別れを告げた<ref name="ecyclopedia"/>。

=== 1996-1997シーズンより2004-2005シーズン ===
1996年5月22日、[[シーモア・H・ノックス3世]]オーナーが亡くなった。シーズン序盤にラフォンテーヌが[[脳震盪]]でチームを離脱、ハシェックがベジーナ賞と[[ハート記念賞]]を同時受賞する活躍を見せた。チームは40勝30敗12分でノースイースト・ディビジョン1位となった。プレーオフでハシェックは、スポーツライターのジム・ケリー<!--NFL選手の[[ジム・ケリー]]とは別人-->ともみ合い、出場停止処分を受けた。控えゴーリーの[[スティーブ・シールズ]](Steve Shields)の活躍で[[オタワ・セネターズ]]を4勝3敗で破り、2回戦に進んだが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。[[テッド・ノーラン]]ヘッドコーチは、[[ジャック・アダムス賞]]に選ばれたが解任された<ref name="ecyclopedia"/>。

1997-1998シーズン、[[リンディ・ラフ]]がヘッドコーチに就任した。ハシェックは、ベジーナ賞とハート記念賞に選ばれる活躍を見せた。チームは36勝29敗17分でディビジョン3位となった。この年、ハシェックは[[長野オリンピックにおけるアイスホッケー競技|長野オリンピック]]にチェコ代表で出場した。プレーオフではフライヤーズを4勝1敗、カナディアンズを4連勝で破り、[[イースタン・カンファレンス (NHL)|イースタン・カンファレンス]]決勝に進出したが、キャピタルズに2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、チームは売却された<ref name="ecyclopedia"/>。このシーズン、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーの[[マシュー・バーナビー]] (Matthew Barnaby)、左ウイングのミロスラフ・サタン (Miroslav Satan)、右ウイングのドナルド・オーデット (Donald Audette)、センターの[[マイケル・ペカ]] (Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮した。

1989-1999シーズン、ハシェックは、3年連続、6年間で5度目となるベジーナ賞に選ばれた。チームは37勝28敗17分でディビジョン4位、プレーオフにイースタン第7シードで進出した。プレーオフ1回戦でディビジョン1位のセネターズを4連勝で破り、2回戦でブルーインズを4勝2敗で、カンファレンス決勝で[[トロント・メープルリーフス]]を4勝1敗で破った。[[ダラス・スターズ]]とのスタンレー・カップファイナルでは、第1戦を延長の末、[[ジェイソン・ウーリー]]の決勝ゴールで3-2で勝利した。第2戦に敗れ、第3戦も地元で1-2と敗れた後、第4戦は2-1で勝利したが、第5戦は敗れて2勝3敗で迎えた第6戦、トリプルオーバータイムの末、[[ブレット・ハル]]に決勝点を許し、2勝4敗で敗れた。ただし、決勝ゴールの際ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズ(ゴールネット前のエリア)を犯しており、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていたため、スターズの勝利は物議を醸した<ref name="ecyclopedia"/>。その当時スターズの地元紙『[[ダラス・モーニング・ニュース]]』(Dallas Morning News) のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ (Keith Gave) ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈したほどであった。40ゴールを決めたサタンに加え、新たに[[ピッツバーグ・ペンギンズ]]からセンターの[[スチュ・バーンズ]] (Stu Barnes)、またキャピタルズから[[ジョー・ジュノー]] (Joe Juneau) を獲得した。[[ミハル・グロセク]] (Michael Grosek) は自身最高のシーズン成績を収めた。

1999-2000シーズン、ハシェックが怪我のため35試合の出場にとどまり、新人の[[マーティン・バイアン]] (Martin Biron) が多くの試合に出場した。チームは[[カロライナ・ハリケーンズ]]をわずか1ポイント差で上回り、プレーオフ出場を果たしたが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。

2000-2001シーズン、ハシェックが怪我から復帰し、ベジーナ賞を獲得した。キャプテンの[[マイケル・ペカ]] (Michael Peca)が契約のこじれからホールドアウトを行った。チームはディビジョン2位でプレーオフに進出、プレーオフ1回戦でフライヤーズを4勝2敗で破った<ref name="ecyclopedia"/>。2回戦進出を決めた試合では8対1と完璧な勝利を収めたが、ペンギンズとの2回戦では地元で連敗した後、敵地[[ピッツバーグ]]で連勝、ホームの第5戦も勝利して、シリーズ優勝まであと1勝となったが、第6戦、第7戦をいずれも落として敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。第7戦ではダブルオーバータイム終盤、[[ダリウス・カスパライティス]] (Darius Kasparaitis) に決勝ゴールを許した。

2001-2002シーズン開幕前には、ペカをニューヨーク・アイランダーズにトレードした<ref>{{cite web|url=http://articles.latimes.com/2001/jun/25/sports/sp-14470 |title=Sabres Finally Find Way to Trade Holdout Peca |publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |date=2001-06-25 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。またハシェックとの長期に渡る契約交渉も不調に終わって、セイバーズはハシェックを[[デトロイト・レッドウィングス]]にトレードした<ref>{{cite web|url=http://enquirer.com/editions/2001/07/01/spt_sabres_trade_hasek.html |title=Sabres trade Hasek to Red Wings |publisher=エンクワイアー |date=2001-07-01 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。チームは6シーズンぶりにプレーオフ進出を逸した<ref name="ecyclopedia"/>。

2002年7月、チームオーナーで Adelphia Communications の[[CEO]]でもある[[ジョン・ライガス]] (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなど<ref>{{cite web|url=http://www.foxnews.com/story/2002/07/24/former-top-adelphia-executives-arrested/ |title=Former Top Adelphia Executives Arrested |publisher=[[FOX]] |date=2002-07-24 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>、チームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、[[2003年]]1月には[[破産]]申請をし<ref>「破産2チーム、オーナーいない 視聴率も振るわず NHL」[[朝日新聞]]、2003年2月8日夕刊3ページ</ref>、その後[[ニューヨーク州]][[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]在住の富豪で、ニューヨーク州知事選候補者であった[[トム・ゴリサーノ]] (Tom Golisano) に9200万ドルで買収された<ref name="ecyclopedia"/>。

この後チームは混乱からの脱却を図り、[[ダニエル・ブリア]] (Daniel Briere)、[[デレク・ロイ]] (Derek Roy)、[[ロリー・フィッツパトリック]]ら若手の登場・躍進も見られた。

2003-2004シーズン、[[カルガリー・フレームス]]から[[クリス・ドラリー]] (Chris_Drury) を獲得した。チームはシーズン前半の不振から後半持ち直したものの、レベルの高いノースイースト・ディビジョン最下位に終わり、プレーオフ進出を逸した<ref name="ecyclopedia"/>。

2004-2005シーズンは[[2004年から2005年のNHLロックアウト|ロックアウト]]によりNHLの試合開催が中止された<ref name="ecyclopedia"/>。

=== 2005-2006シーズン以降 ===
2005-2006シーズンはゴーリー[[ライアン・ミラー]]や30ゴールをあげたフォワード[[クリス・ドラリー]]などの活躍で、52勝24敗6延長戦負けというイースタン・カンファレンストップの好成績を残し、[[リンディ・ラフ]]コーチは、[[ジャック・アダムス賞]]を受賞した<ref>{{cite web|url=http://buffalosportshallfame.com/member/lindy-ruff/ |title=Buffalo Sabres Player and Coach |publisher=バッファロースポーツ殿堂 |date= |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。プレーオフでは1回戦でフライヤーズを4勝2敗で下し、2回戦も[[オタワ・セネターズ]]を4勝1敗で下した<ref name="ecyclopedia"/>。しかし、[[カロライナ・ハリケーンズ]]とのカンファレンス決勝までの間に怪我人が増え、第6戦では[[ジェイ・マッキー]]も怪我人になった。第7戦は4対2で負けてシーズンが終わった。オフにフォワードの[[ジャン・ピエール・デュモン]] (Jean-Pierre Dumont) 、ディフェンスのマッキーらを放出し、ディフェンスに[[ヤロスラブ・スポッチェク]] (Jaroslav Spacek) を加えた。

2006-2007シーズン、セイバーズは新しいホームジャージ、アウェイジャージを採用し、チームロゴもそれまでのレッドアイバッファローから黄色・青を基調としたバッファローのロゴに変更され、チームカラーも変更された。チームは開幕から10連勝するなど、15勝1敗1延長戦負けというロケットスタートを切った。53勝22敗7延長戦負けでプレーオフに進出し、ニューヨーク・アイランダーズを4勝1敗、[[ニューヨーク・レンジャーズ]]を4勝2敗で破ってカンファレンス決勝まで駒を進めたが、セネターズに敗れて2年連続でカンファレンス決勝で姿を消し、スタンレーカップファイナル進出を逃した。オフ、キャプテンを務めていたダニエル・ブリアがフライヤーズ、クリス・ドラリーがレンジャーズに移籍した<ref name="ecyclopedia"/>。

2007-2008シーズン、中心選手2人を失ったチームは、39勝31敗12延長戦負けでシーズンを終えて、プレーオフを逃した<ref name="ecyclopedia"/>。

2008-2009シーズン、[[ティム・コノリー]]と2年420万ドルで契約を延長した。また、[[フェニックス・コヨーテズ]]から[[ミカエル・テルクヴィスト]] (Mikael Tellqvist) を、[[ドミニク・ムーア]] (Dominic Moore) をトロント・メープルリーフスから獲得<ref>{{cite web|url=http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=438423 |title=SABRES ACQUIRE DOMINIC MOORE FROM TORONTO |publisher=バッファロー・セイバーズ |date=2009-03-04 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>、[[アレス・コタリック]] を[[エドモントン・オイラーズ]]にトレードした。チームは41勝32敗9延長戦負けで、わずか2ポイント差でプレーオフを逃した<ref name="ecyclopedia"/>。

2009-2010シーズン、ゴーリーのライアン・ミラーは、アメリカ代表として[[バンクーバーオリンピックにおけるアイスホッケー競技|バンクーバーオリンピック]]に出場し、決勝の延長に、[[シドニー・クロスビー]]にゴールを決められたものの銀メダルを獲得した<ref>{{cite web|url=http://www.nhl.com/ice/news.htm?id=698246 |title=Sabres goalie Ryan Miller saving best for Olympic year, making case to reprise role on US team |publisher=NHL |date=2013-12-31 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。この年チームは45勝27敗10延長戦負けで、ミラーがベジーナ賞に<ref>{{cite web|url=http://sports.espn.go.com/nhl/news/story?id=5321084 |title=Miller wins in first Vezina nomination |publisher=ESPN |date=2010-06-23 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>、ディフェンスマンの[[タイラー・マイヤーズ]] (Tyler Myers)が[[カルダー記念賞]]に選ばれた<ref>{{cite web|url=http://sabres.nhl.com/club/news.htm?id=532507 |title=MYERS WINS CALDER TROPHY |publisher=NHL |date=2010-06-23 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>。プレーオフではボストン・ブルーインズに2勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

2010-2011シーズン、2月に、チームキャプテンの[[クレイグ・リヴェット]] (Craig Rivet) を[[ウェーバー公示|ウェーバー]]し<ref>{{cite web|url=http://usatoday30.usatoday.com/sports/hockey/nhl/sabres/2011-02-23-craig-rivets-waivers_N.htm |title=Sabres place captain Craig Rivet on waivers |publisher=[[USAトゥデイ]] |date=2011-02-23 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>、彼は[[コロンバス・ブルージャケッツ]]に入団した。2月23日、[[テリー・ペグラ]]が1億8900万ドルでチームを買収したこと、チームをバッファローから移転させないことを発表した。この年、チームは43勝29敗10延長戦負けで、プレーオフに進出、プレーオフではミラーが2試合で完封する活躍を見せたが、3勝4敗で敗れた<ref name="ecyclopedia"/>。

2011-2012シーズン、開幕前に[[ジェイソン・ポミンビル]] (Jason Pominville) をキャプテンに指名した。ヨーロッパで開幕したこのシーズン、アナハイム・ダックスを[[ヘルシンキ]]で、ロサンゼルス・キングスを[[ベルリン]]で破った。11月12日のボストン・ブルーインズ戦でゴーリーのミラーが脳震盪を起こし<ref>{{cite web|url=http://bostinno.streetwise.co/2011/11/28/ryan-miller-concussion-sabres-bruins-milan-lucic-nhl/ |title=Ryan Miller Fakes Concussion After Lucic Hit |publisher=bostinno.streetwise.co |author=Ryan Darling |date=2011-11-28 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>、その後9試合に欠場、続く33試合でわずか9勝しかあげられなかった。3月には14勝1敗3延長戦負けと好成績をあげたが、チームは39勝32敗11延長戦負けで、3ポイント差でプレーオフを逃した<ref name="ecyclopedia"/>。

2012-2013シーズン、開幕前の7月に[[デレック・ロイ]] (Derek Roy) とのトレードで、[[ダラス・スターズ]]から[[スティーブ・オット]] (Steve Ott) を獲得した<ref>{{cite web|url=http://sports.yahoo.com/blogs/puck-daddy/sabres-finally-trade-derek-roy-acquire-steve-ott-221635734--nhl.html |title=Derek Roy, acquire Steve Ott, Adam Pardy from Dallas Stars |publisher=Yahoo! SPORTS |author=Greg Wyshynski |date=2012-07-02 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。このシーズンからロックアウトで3ヶ月開幕が遅れて、48試合となったレギュラーシーズンでは、2月20日に16シーズンチームの指揮を執ったリンド・ラフヘッドコーチが解任され、[[ロン・ロルストン]] (Ron Rolston)が後任となった<ref>{{cite web|url=http://espn.go.com/nhl/story/_/id/8967382/lindy-ruff-fired-head-coach-buffalo-sabres |title=Ron Rolston in for fired Lindy Ruff |publisher=ESPN |date=2013-02-20 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>。トレード期限に、[[ジョーダン・レオポルド]] (Jordan Leopold) を[[セントルイス・ブルース]]に、[[ロビン・レゲエ]] (Robyn Regehr) をロサンゼルス・キングスに、キャプテンのポミンビルを[[ミネソタ・ワイルド]]に放出してドラフト指名権を獲得<ref>{{cite web|url=http://www.nhl.com/ice/news.htm?id=663851 |title=Jason Pominville traded to Wild by Sabres |publisher=NHL |author=Dan Myers |date=2013-04-03 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>、チームの再建に乗り出した。チームは4月に8勝したものの、21勝21敗6延長戦負けで、ノースイースト・ディビジョン最下位に終わった<ref name="ecyclopedia"/>。

2013-2014シーズン、10月27日に[[トーマス・ヴァネック]] (Thomas Vanek)をニューヨーク・アイランダースにトレードした<ref>{{cite web|url=http://www.nhl.com/ice/news.htm?id=688799 |title=Islanders acquire Vanek from Sabres |publisher=NHL |author=Brian Compton |date=2013-10-27 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>。チームは最初の20試合で4勝15敗1延長戦負となり、11月13日にロルストンコーチは解任されて<ref>{{cite web|url=http://espn.go.com/nhl/story/_/id/9970624/buffalo-sabres-fire-coach-ron-rolston-general-manager-darcy-regier |title=Sabres fire Ron Rolston, Darcy Regier |publisher=ESPN |date=2013-11-13 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>、[[テッド・ノーラン]] (Ted Nolan) が後任となった。[[ホッケーの殿堂]]入りしているラフォンテーヌを球団社長に<ref>{{cite web|url=http://www.nydailynews.com/sports/hockey/nolan-lafontaine-sabres-fire-coach-gm-article-1.1515389 |title=Sabres fire Ron Rolston, GM; hire Ted Nolan and Pat LaFontaine |publisher=[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|デイリーニューズ]] |author= |date=2013-11-13 |accessdate=2015-02-22 }} </ref>、ティム・マレーをGMに迎えた。11勝25敗4延長戦負けで新年を迎えたチームは、1月にわずか4勝しかできず、[[ソチオリンピックにおけるアイスホッケー競技|ソチオリンピック]]による中断を迎えた。ゴーリーのミラーとキャプテンのオットがセントルイス・ブルースにトレードされた<ref>{{cite web|url=http://espn.go.com/nhl/story/_/id/10701935/buffalo-sabres-extend-interim-coach-ted-nolan-contract |title=Sabres extend Ted Nolan |publisher=ESPN |date=2014-03-31 |accessdate=2015-02-22 }}</ref>。シーズン最後の20試合で2勝に終わるなど、21勝51敗10延長戦負けでシーズンを終えた<ref name="ecyclopedia"/>。

== 主な人物 ==
=== ホッケーの殿堂 ===
;選手
* [[ティム・ホートン]], D, 1972–74, 1977年推薦
* [[ジルベール・ペロー]], C, 1970–87, 1990年推薦
* [[デール・ハワーチャック]], C, 1990–95, 2001年推薦
* [[クラーク・ジャイルス]], C, 1986–88, 2002年推薦
* [[パット・ラフォンテーヌ]], C, 1991–97, 2003年推薦
* [[グラント・ファー]], G, 1993–95, 2003年推薦
* [[ディック・ダフ]], C, 1970–72, 2006年推薦
* [[ダグ・ギルモア]], C, 2000–01, 2011年推薦
* [[ドミニク・ハシェック]], G, 1992–2001, 2014年推薦

;ビルダー
* [[ジョージ・イムラック]], ヘッドコーチ/GM, 1970–78, 1984年推薦
* [[スコッティ・ボウマン]], ヘッドコーチ/GM, 1980–87, 1991年推薦
* [[シーモア・H・ノックス3世]], オーナー(チーム共同創設者), 1970–96, 1993年推薦
* [[ロジャー・ニールソン]], アシスタント/ヘッドコーチ, 1979–81, 2002年推薦

;[[フォスター・ヒューイット・メモリアル賞]](ブロードキャスター)
* [[テッド・ダーリング]], 1970–92, 1994年推薦
* [[リック・ジャンヌレ]], 1971–2016, 2012年推薦
* [[ハリー・ニール]], 2007–13, 2013年推薦

;[[エルマー・ファーガソン・メモリアル賞]](スポーツライター)
* Charlie Barton (Buffalo Courier-Express), 1985年推薦
* Dick Johnston ([[バッファロー・ニューズ]]), 1986年推薦
* ジャック・ゲートクリフ ([[セントキャサリンズ・スタンダード]]), 1995年推薦
* [[ジム・ケリー (スポーツライター)|ジム・ケリー]] (バッファロー・ニューズ), 1981–2010, 2004年推薦

=== 永久欠番 ===
{| class="wikitable sortable" style="text-align:center"
|+ style="background:#fff; border-top:#002d62 5px solid; border-bottom:#fdbb30 5px solid;"| '''バッファロー・セイバーズ永久欠番'''
|-
! style="width:40px;" | 背番号
! style="width:150px;" |選手名
! style="width:40px;" class="unsortable"|ポジション
! style="width:100px;" |所属
! style="width:150px;" |永久欠番となった年月日
|-
| '''2''' || data-sort-value="Horton, Tim"|[[ティム・ホートン]] || D || 1972–74 || data-sort-value="1996-01-15"|1996年1月15日
|-
| '''7''' || data-sort-value="Martin, Rick"|[[リック・マルタン]] || LW || 1971–81 || data-sort-value="1995-11-15"|1995年11月15日
|-
| '''11''' || data-sort-value="Perreault, Gilbert"|[[ジルベール・ペロー]]|| C || 1970–87 || data-sort-value="1990-10-17"|1990年10月17日
|-
| '''14''' || data-sort-value="Robert, Rene"|[[ルネ・ロベール]] || RW || 1972–79 || data-sort-value="1995-11-15"|1995年11月15日
|-
| '''16''' || data-sort-value="LaFontaine, Pat"|[[パット・ラフォンテーヌ]] || C || 1991–97 || data-sort-value="2006-03-03"|2006年3月3日
|-
| '''18''' || data-sort-value="Gare, Danny"|[[ダニー・ゲア]] || RW || 1974–81 || data-sort-value="2005-11-22"|2005年11月22日
|-
| '''39''' || data-sort-value="Hasek, Dominik"|[[ドミニク・ハシェック]] || G || 1992–2001 || data-sort-value="2015-01-01"|2015年1月13日
|}

* [[マーティン・バイアン]]が着用したのを最後に背番号00は、全NHLチームに許可されていない。
* [[アレクサンドル・モギルニー]]が着用していた89番は永久欠番となっていないが、彼以降着用した選手はいない<ref>[http://www.buffalohockeybeat.com/sabres-newcomer-cory-conacher-okd-number-with-patrick-kane-patrick-kaleta-skating-again/ Sabres newcomer Cory Conacher OK’d number with Patrick Kane; Patrick Kaleta skating again]. ''Olean Times Herald''. Retrieved March 9, 2014.</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Reflist}}



==関連項目==
==関連項目==
65行目: 193行目:


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|}}
*{{official|http://www.sabres.com/}}
*{{official|http://www.sabres.com/}}
*[http://www.classicbuffalo.com/EntertainmentSports.htm ClassicBuffalo.com Sports]
*[http://www.classicbuffalo.com/EntertainmentSports.htm ClassicBuffalo.com Sports]

2015年3月4日 (水) 14:06時点における版

バッファロー・セイバーズ
Buffalo Sabres
カンファレンス イースタン・カンファレンス
ディビジョン アトランティック
創設年 1970年
歴代チーム名 バッファロー・セイバーズ (1970 - )
ホームアリーナ ファースト・ナイアガラ・センター
ホームタウン ニューヨーク州バッファロー
チームカラー 青、黄、銀、白
メディア {{{メディア}}}
オーナー ホッケー・ウエスタン・ニューヨーク・ホッケー
GM ティム・マレー
ヘッドコーチ テッド・ノーラン
キャプテン --
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝
なし
アブコワールド
なし
カンファレンス優勝 (3回)
1975・1980・1999
ディビジョン優勝 (6回)
1975・1980・1981・1997
2007・2010
プレジデンツトロフィー (1回)
2007

バッファロー・セイバーズ (Buffalo Sabres) はアメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローを本拠としているナショナルホッケーリーグ (NHL) 所属のプロアイスホッケーチームである。

歴史

チーム創設から1980-1981シーズンまで

バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、AHLのバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の殿堂入り選手のセンター、ジルベール・ペロー (Gilbert Perreault) を獲得した[1]。ペローはこの年、新人ながら38ゴール34アシストを挙げてカルダー記念賞(最優秀新人賞)を受賞したが、チームは24勝39敗15分でイースタンディビジョン5位であった[1]

1971-1972シーズンには、リック・マルタン(Rick Martin)をドラフトで獲得、シーズン終盤には、ピッツバーグ・ペンギンズからトレードでルネ・ロベールを獲得、ペロー、マルタン、ロベールのフランス系カナダ人選手で組んだフォワードラインは、ファンから同名の映画にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。チームは16勝43敗19分でイースタンディビジョン6位であった[1]

1972-1973シーズンには、ドラフトでディフェンスマンジム・ショーンフェルド(Jim Schonfeld)を獲得、また大ベテランのティム・ホートン(Tim Horton)が加入してリーダーシップを発揮した[2]。チームは37勝27敗14分で創立から3シーズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、準々決勝で、この年スタンレー・カップ優勝のモントリオール・カナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]

1973-1974シーズンはペローが足の故障で8週間欠場、ゴーリーのロジャー・クロージャー(Roger Crozier)も膵炎でシーズン途中に離脱した。さらに2月20日のトロント・メープルリーフス戦を終えて、トロントからバッファローへ帰宅途中のホートンがセイバーズと契約した際にボーナスとして受け取ったデ・トマソ・パンテーラで事故を起こして亡くなった[2]。ホートンは、飲酒運転に加えて、鎮痛剤を利用していた。チームは主力選手が欠場する中、プレーオフを逃したものの32勝34敗12分で5位となった[1]

1974-1975のレギュラーシーズン、フレンチコネクションがそれぞれトップ10に入る得点をあげて、チーム全体では354得点をあげた。チームは49勝16敗15分で新設されたアダムズ・ディビジョンで1位となった。プレーオフではシカゴ・ブラックホークスを4勝1敗、カナディアンズを4勝2敗で破り、スタンレー・カップファイナルに進出した。フィラデルフィア・フライヤーズとのシリーズでは、アウェイで連敗した後、華氏90度の高温の中で行われたホームでの第3戦(濃霧の中で行われたため、後に「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。)で延長の末、初勝利をあげた。第4戦も勝利し、2勝2敗としたものの、スター・ゴーリーのバーニー・ペアレント (Bernie Parent) を擁するフライヤーズの前に2勝4敗で敗れた[1]

1975-1976シーズンには、46勝21敗13分でディビジョン2位となった。ペローが113ポイントをあげるなど、フレンチコネクションの3人はいずれも86ポイント以上を獲得した。1月4日に行われたソ連のクリリヤ・ソビエトフとのエキシビションゲーム(スーパシリーズ)では、他の3チームがソビエトフに敗れる中、唯一NHLチームで勝利をあげた。プレーオフでは、セントルイス・ブルースを3勝2敗で破った後、準々決勝でニューヨーク・アイランダーズと対戦、2連勝の後、4連敗して敗れた[1]。この年、加入したダニー・ゲア(Danny Gare)が50ゴールを挙げた。

1976-1977シーズン、48勝24敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦では、ミネソタ・ノーススターズを一蹴したが、2回戦でニューヨーク・アイランダーズに4連敗してシーズンを終えた[1]

1977-1978シーズン、44勝19敗17分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でニューヨーク・レンジャースを破った後、フライヤーズに1勝4敗で敗れた[1]

1978-1979シーズン、シーズン途中にゼネラルマネージャーとヘッドコーチが解任されたが、暫定ヘッドコーチ就任から7連勝し、36勝28敗16分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でペンギンズに敗れた[1]

1979-1980シーズン、前シーズンまでモントリオール・カナディアンズを率いて4年連続でスタンレー・カップファイナルを制覇していたスコッティ・ボウマンがヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーに就任した。ロベールがコロラド・ロッキーズ(後のニュージャージー・デビルス)にトレードされた。チームは47勝17敗16分でアダムズ・ディビジョンで1位となり、プレーオフではバンクーバー・カナックスを3勝1敗、ブラックホークスを4連勝で破り、準決勝に進んだが、ニューヨーク・アイランダーズに2勝4敗で敗れた[1]

1980-1981シーズン、ボウマンがGMに専念することとなり、ロジャー・ニールソン(Roger Nielson)がヘッドコーチに就任、チームはペローが22試合で欠場する中、39勝20敗21分で2年連続ディビジョン1位となった。1981年3月11日にマルタンがロサンゼルス・キングスにトレードで放出された。プレーオフではカナックスに3連勝した後、ノーススターズに1勝4敗で敗れた[1]

1981-1982シーズンより1995-1996シーズン

1981-1982シーズン、ニールソンがカナックスのヘッドコーチに就任したため、ボウマンがヘッドコーチに復帰した。チームは11月を12勝5敗7分で終えたが、デトロイト・レッドウィングスとのトレードの後、ボウマンの代わりにアシスタントコーチがヘッドコーチに昇格、3月半ばに再度ボウマンがヘッドコーチに就任した。チームが混乱する中、39勝26敗15分でディビジョン3位となり、プレーオフに進出したが、ボストン・ブルーインズに1勝3敗で敗れた[1]

1982-1983シーズン、38勝29敗13分でディビジョン3位となった。プレーオフではカナディアンズを3連勝で破った後、ブルーインズに3勝4敗で敗れた[1]

1983-1984シーズン、ドラフト全体5位でトム・バラッソ(Tom Barrasso)を獲得、彼はカルダー記念賞とベジーナ賞に選ばれた。チームは48勝25敗7分でディビジョン2位となったが、プレーオフではケベック・ノルディックスに3連敗で敗れた[1]

1984-1985シーズン、ショーンフェルドがチームに復帰した。チームは38勝28敗14分でディビジョン3位となった。プレーオフ1回戦、ケベック・ノルディックスとの第5戦では残り9分で5-3とリードしていたが、立て続けに3点を失い敗れた[1]

1986年3月7日のデビルス戦でペローが通算500ゴールを達成した。チームは37勝37敗6分で12年ぶりにプレーオフを逃した[1]

1986-1987シーズン、ペローが最初の14試合で9ゴールをあげた。11月24日、ペローが引退、5勝15敗3分となった12月2日、ボウマンGMが解任された。チームはNHLワーストの28勝44敗8分けで2年連続プレーオフを逃した[1]

1987-1988シーズン、ドラフト全体1位でピエール・タージオン(Pierre Turgeon)を獲得、タージオンはチーム6位となる42ポイントをあげた。またデイブ・アンドレイチャックがチームトップの78ポイントをあげた。チームは37勝32敗11分で3年ぶりにプレーオフに進出、ブルーインズに2勝4敗で敗れてシーズンを終えた[1]

1988-1989シーズン序盤、トム・バラッソをトレードしてダレン・パッパ(Darren Puppa)を獲得した。1989年1月27日、パッパが腕を骨折したため、控えのジャック・クルーティエ(Jacques Cloutier)でシーズンを戦った。3月にワシントン・キャピタルズからクリント・マラチャック(Clint Malarchuk)をトレードで獲得したものの、3月22日のブルース戦でマラチャックはスケートのエッジで、頸静脈を6インチ切る大怪我をした。トレーナーとチームドクターの素早い救命措置でマラチャックは一命を取り止め[3]、翌日には退院した。チームは38勝38敗7分でディビジョン3位となり、プレーオフではブルーインズに敗れた[1]

1980年代、セイバーズのスター選手にはペローのほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno, ディフェンスのフィル・ハウズリー (Phil Housley)、左ウイングのデイブ・アンドレチャク (Dave Andreychuk) らがいた。しかし1980年代を通じて、たった2度しかプレーオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。

1989年には、ベルリンの壁の崩壊に続いて、旧ソビエト連邦の若手トップ選手がNHLへと流入したが、セイバーズは、前年のドラフトで全体89位で指名したアレクサンドル・モギルニー (Alexander Mogilny) と契約を結んだ。モギルニーは43ポイントを獲得[4]、タージオンがキャリア初の100ポイントを達成した。チームは45勝27敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦でカナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]

1990年、ドラフト当日のトレードでウィニペグ・ジェッツからデール・ハワーチャック (Dale Hawerchuk) を獲得、彼はこのシーズン89ポイントをあげた。開幕から7試合で1勝もあげられなかったが、31勝30敗19分でディビジョン3位となりプレーオフに進出、1回戦でカナディアンズに敗れた[1]

1991-1992シーズンも開幕から2勝5敗1分とスロースタートであったが、10月25日にアイランダーズからセンターのパット・ラフォンテーヌ (Pat LaFontaine) をトレードで獲得した。11月16日にラフォンテーヌはあごを骨折し、チームを離脱したが、12月21日に復帰、57試合の出場で93ポイントをあげる活躍を見せた。チームは31勝37敗12分でディビジョン3位、プレーオフではブルーインズに3勝4敗で敗れた[1]

1992-1993シーズン、ラフォンテーヌとモギルニーがそれぞれ100ポイント以上をマーク、ラフォンテーヌはアメリカ生まれの選手としては最高の148ポイントをあげた[5]。モギルニーはウィニペグ・ジェッツテーム・セラニ (Teemu Selanne) と並ぶリーグトップタイの76ゴールをあげ、ラフォンテーヌは53ゴール、95アシストをあげた。その一方でチームは297失点を許し、38勝36敗10分でディビジョン4位となった。プレーオフでは1回戦で第1シードのブルーインズと対戦、4連勝で10シーズンぶりに1回戦を突破した。なお、ブルーインズとの第4戦の延長にブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を挙げたときのベテランラジオアナウンサー Rick Jeanneret の実況「メイが決めた!」("May Day!") はリーグの語り草になっている[6]。チームは2回戦でこの年スタンレー・カップ優勝のカナディアンズを相手に3試合で延長まで戦ったものの4連敗で敗退した[1]

1993-1994シーズン、11月19日にラフォンテーヌがひざの負傷でシーズン絶望となった。またゴーリーのグラント・ファー(Grant Fuhr)もひざの手術をすることになり、6週間以上欠場することとなった。控えゴーリーのドミニク・ハシェックがこのチャンスをものにして、ベジーナ賞に選ばれる活躍を見せた。デビルスとのプレーオフ第6戦でハシェックは70本のシュートを打たれたがシャットアウト、味方もマーティン・ブロデューアからゴールを奪えず、延長5分43秒にマイク・ハナンがあげたゴールで3勝3敗のタイに持ち込んだが、第7戦では敗れた[1]

1994-1995シーズン、NHLは4ヶ月ロックアウトが実施された。ハシェックはこの年もベジーナ賞を獲得した。ラフォンテーヌが22試合しか出場できなかったものの、チームは22勝19敗7分でプレーオフに進出、フィラデルフィア・フライヤーズに1回戦で敗れた[1]

1995-1996シーズン、モギルニーをカナックスへトレードした。チームはこの年33勝42敗7分でノースイースト・ディビジョン5位でプレーオフを逃した。このシーズンで本拠地メモリアル・オーディトリアムに別れを告げた[1]

1996-1997シーズンより2004-2005シーズン

1996年5月22日、シーモア・H・ノックス3世オーナーが亡くなった。シーズン序盤にラフォンテーヌが脳震盪でチームを離脱、ハシェックがベジーナ賞とハート記念賞を同時受賞する活躍を見せた。チームは40勝30敗12分でノースイースト・ディビジョン1位となった。プレーオフでハシェックは、スポーツライターのジム・ケリーともみ合い、出場停止処分を受けた。控えゴーリーのスティーブ・シールズ(Steve Shields)の活躍でオタワ・セネターズを4勝3敗で破り、2回戦に進んだが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。テッド・ノーランヘッドコーチは、ジャック・アダムス賞に選ばれたが解任された[1]

1997-1998シーズン、リンディ・ラフがヘッドコーチに就任した。ハシェックは、ベジーナ賞とハート記念賞に選ばれる活躍を見せた。チームは36勝29敗17分でディビジョン3位となった。この年、ハシェックは長野オリンピックにチェコ代表で出場した。プレーオフではフライヤーズを4勝1敗、カナディアンズを4連勝で破り、イースタン・カンファレンス決勝に進出したが、キャピタルズに2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、チームは売却された[1]。このシーズン、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーのマシュー・バーナビー (Matthew Barnaby)、左ウイングのミロスラフ・サタン (Miroslav Satan)、右ウイングのドナルド・オーデット (Donald Audette)、センターのマイケル・ペカ (Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮した。

1989-1999シーズン、ハシェックは、3年連続、6年間で5度目となるベジーナ賞に選ばれた。チームは37勝28敗17分でディビジョン4位、プレーオフにイースタン第7シードで進出した。プレーオフ1回戦でディビジョン1位のセネターズを4連勝で破り、2回戦でブルーインズを4勝2敗で、カンファレンス決勝でトロント・メープルリーフスを4勝1敗で破った。ダラス・スターズとのスタンレー・カップファイナルでは、第1戦を延長の末、ジェイソン・ウーリーの決勝ゴールで3-2で勝利した。第2戦に敗れ、第3戦も地元で1-2と敗れた後、第4戦は2-1で勝利したが、第5戦は敗れて2勝3敗で迎えた第6戦、トリプルオーバータイムの末、ブレット・ハルに決勝点を許し、2勝4敗で敗れた。ただし、決勝ゴールの際ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズ(ゴールネット前のエリア)を犯しており、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていたため、スターズの勝利は物議を醸した[1]。その当時スターズの地元紙『ダラス・モーニング・ニュース』(Dallas Morning News) のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ (Keith Gave) ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈したほどであった。40ゴールを決めたサタンに加え、新たにピッツバーグ・ペンギンズからセンターのスチュ・バーンズ (Stu Barnes)、またキャピタルズからジョー・ジュノー (Joe Juneau) を獲得した。ミハル・グロセク (Michael Grosek) は自身最高のシーズン成績を収めた。

1999-2000シーズン、ハシェックが怪我のため35試合の出場にとどまり、新人のマーティン・バイアン (Martin Biron) が多くの試合に出場した。チームはカロライナ・ハリケーンズをわずか1ポイント差で上回り、プレーオフ出場を果たしたが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。

2000-2001シーズン、ハシェックが怪我から復帰し、ベジーナ賞を獲得した。キャプテンのマイケル・ペカ (Michael Peca)が契約のこじれからホールドアウトを行った。チームはディビジョン2位でプレーオフに進出、プレーオフ1回戦でフライヤーズを4勝2敗で破った[1]。2回戦進出を決めた試合では8対1と完璧な勝利を収めたが、ペンギンズとの2回戦では地元で連敗した後、敵地ピッツバーグで連勝、ホームの第5戦も勝利して、シリーズ優勝まであと1勝となったが、第6戦、第7戦をいずれも落として敗れた[1]。第7戦ではダブルオーバータイム終盤、ダリウス・カスパライティス (Darius Kasparaitis) に決勝ゴールを許した。

2001-2002シーズン開幕前には、ペカをニューヨーク・アイランダーズにトレードした[7]。またハシェックとの長期に渡る契約交渉も不調に終わって、セイバーズはハシェックをデトロイト・レッドウィングスにトレードした[8]。チームは6シーズンぶりにプレーオフ進出を逸した[1]

2002年7月、チームオーナーで Adelphia Communications のCEOでもあるジョン・ライガス (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなど[9]、チームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、2003年1月には破産申請をし[10]、その後ニューヨーク州ロチェスター在住の富豪で、ニューヨーク州知事選候補者であったトム・ゴリサーノ (Tom Golisano) に9200万ドルで買収された[1]

この後チームは混乱からの脱却を図り、ダニエル・ブリア (Daniel Briere)、デレク・ロイ (Derek Roy)、ロリー・フィッツパトリックら若手の登場・躍進も見られた。

2003-2004シーズン、カルガリー・フレームスからクリス・ドラリー (Chris_Drury) を獲得した。チームはシーズン前半の不振から後半持ち直したものの、レベルの高いノースイースト・ディビジョン最下位に終わり、プレーオフ進出を逸した[1]

2004-2005シーズンはロックアウトによりNHLの試合開催が中止された[1]

2005-2006シーズン以降

2005-2006シーズンはゴーリーライアン・ミラーや30ゴールをあげたフォワードクリス・ドラリーなどの活躍で、52勝24敗6延長戦負けというイースタン・カンファレンストップの好成績を残し、リンディ・ラフコーチは、ジャック・アダムス賞を受賞した[11]。プレーオフでは1回戦でフライヤーズを4勝2敗で下し、2回戦もオタワ・セネターズを4勝1敗で下した[1]。しかし、カロライナ・ハリケーンズとのカンファレンス決勝までの間に怪我人が増え、第6戦ではジェイ・マッキーも怪我人になった。第7戦は4対2で負けてシーズンが終わった。オフにフォワードのジャン・ピエール・デュモン (Jean-Pierre Dumont) 、ディフェンスのマッキーらを放出し、ディフェンスにヤロスラブ・スポッチェク (Jaroslav Spacek) を加えた。

2006-2007シーズン、セイバーズは新しいホームジャージ、アウェイジャージを採用し、チームロゴもそれまでのレッドアイバッファローから黄色・青を基調としたバッファローのロゴに変更され、チームカラーも変更された。チームは開幕から10連勝するなど、15勝1敗1延長戦負けというロケットスタートを切った。53勝22敗7延長戦負けでプレーオフに進出し、ニューヨーク・アイランダーズを4勝1敗、ニューヨーク・レンジャーズを4勝2敗で破ってカンファレンス決勝まで駒を進めたが、セネターズに敗れて2年連続でカンファレンス決勝で姿を消し、スタンレーカップファイナル進出を逃した。オフ、キャプテンを務めていたダニエル・ブリアがフライヤーズ、クリス・ドラリーがレンジャーズに移籍した[1]

2007-2008シーズン、中心選手2人を失ったチームは、39勝31敗12延長戦負けでシーズンを終えて、プレーオフを逃した[1]

2008-2009シーズン、ティム・コノリーと2年420万ドルで契約を延長した。また、フェニックス・コヨーテズからミカエル・テルクヴィスト (Mikael Tellqvist) を、ドミニク・ムーア (Dominic Moore) をトロント・メープルリーフスから獲得[12]アレス・コタリックエドモントン・オイラーズにトレードした。チームは41勝32敗9延長戦負けで、わずか2ポイント差でプレーオフを逃した[1]

2009-2010シーズン、ゴーリーのライアン・ミラーは、アメリカ代表としてバンクーバーオリンピックに出場し、決勝の延長に、シドニー・クロスビーにゴールを決められたものの銀メダルを獲得した[13]。この年チームは45勝27敗10延長戦負けで、ミラーがベジーナ賞に[14]、ディフェンスマンのタイラー・マイヤーズ (Tyler Myers)がカルダー記念賞に選ばれた[15]。プレーオフではボストン・ブルーインズに2勝4敗で敗れた[1]

2010-2011シーズン、2月に、チームキャプテンのクレイグ・リヴェット (Craig Rivet) をウェーバー[16]、彼はコロンバス・ブルージャケッツに入団した。2月23日、テリー・ペグラが1億8900万ドルでチームを買収したこと、チームをバッファローから移転させないことを発表した。この年、チームは43勝29敗10延長戦負けで、プレーオフに進出、プレーオフではミラーが2試合で完封する活躍を見せたが、3勝4敗で敗れた[1]

2011-2012シーズン、開幕前にジェイソン・ポミンビル (Jason Pominville) をキャプテンに指名した。ヨーロッパで開幕したこのシーズン、アナハイム・ダックスをヘルシンキで、ロサンゼルス・キングスをベルリンで破った。11月12日のボストン・ブルーインズ戦でゴーリーのミラーが脳震盪を起こし[17]、その後9試合に欠場、続く33試合でわずか9勝しかあげられなかった。3月には14勝1敗3延長戦負けと好成績をあげたが、チームは39勝32敗11延長戦負けで、3ポイント差でプレーオフを逃した[1]

2012-2013シーズン、開幕前の7月にデレック・ロイ (Derek Roy) とのトレードで、ダラス・スターズからスティーブ・オット (Steve Ott) を獲得した[18]。このシーズンからロックアウトで3ヶ月開幕が遅れて、48試合となったレギュラーシーズンでは、2月20日に16シーズンチームの指揮を執ったリンド・ラフヘッドコーチが解任され、ロン・ロルストン (Ron Rolston)が後任となった[19]。トレード期限に、ジョーダン・レオポルド (Jordan Leopold) をセントルイス・ブルースに、ロビン・レゲエ (Robyn Regehr) をロサンゼルス・キングスに、キャプテンのポミンビルをミネソタ・ワイルドに放出してドラフト指名権を獲得[20]、チームの再建に乗り出した。チームは4月に8勝したものの、21勝21敗6延長戦負けで、ノースイースト・ディビジョン最下位に終わった[1]

2013-2014シーズン、10月27日にトーマス・ヴァネック (Thomas Vanek)をニューヨーク・アイランダースにトレードした[21]。チームは最初の20試合で4勝15敗1延長戦負となり、11月13日にロルストンコーチは解任されて[22]テッド・ノーラン (Ted Nolan) が後任となった。ホッケーの殿堂入りしているラフォンテーヌを球団社長に[23]、ティム・マレーをGMに迎えた。11勝25敗4延長戦負けで新年を迎えたチームは、1月にわずか4勝しかできず、ソチオリンピックによる中断を迎えた。ゴーリーのミラーとキャプテンのオットがセントルイス・ブルースにトレードされた[24]。シーズン最後の20試合で2勝に終わるなど、21勝51敗10延長戦負けでシーズンを終えた[1]

主な人物

ホッケーの殿堂

選手
ビルダー
フォスター・ヒューイット・メモリアル賞(ブロードキャスター)
エルマー・ファーガソン・メモリアル賞(スポーツライター)

永久欠番

バッファロー・セイバーズ永久欠番
背番号 選手名 ポジション 所属 永久欠番となった年月日
2 ティム・ホートン D 1972–74 1996年1月15日
7 リック・マルタン LW 1971–81 1995年11月15日
11 ジルベール・ペロー C 1970–87 1990年10月17日
14 ルネ・ロベール RW 1972–79 1995年11月15日
16 パット・ラフォンテーヌ C 1991–97 2006年3月3日
18 ダニー・ゲア RW 1974–81 2005年11月22日
39 ドミニク・ハシェック G 1992–2001 2015年1月13日

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as Buffalo Sabres (1970-Present)”. sportsecyclopedia.com. 2015年2月20日閲覧。
  2. ^ a b Tale of Tim Horton's last ride”. canada.com (2005年9月30日). 2015年2月22日閲覧。
  3. ^ 6.頚静脈から大量出血から生還した秘訣とは”. ゼビオ. 2015年2月22日閲覧。
  4. ^ Joe Pelletier. “GREATEST HOCKEY LEGENDS”. sabreslegends.blogspot.jp. 2015年2月22日閲覧。
  5. ^ 1992-93 featured unprecedented offensive explosion”. NHL (2012年11月30日). 2015年2月22日閲覧。
  6. ^ John Ciolfi (2013年1月8日). “May, Jeanneret forever linked by 'May Day' goal”. NHL. 2015年2月20日閲覧。
  7. ^ Sabres Finally Find Way to Trade Holdout Peca”. ロサンゼルス・タイムズ (2001年6月25日). 2015年2月22日閲覧。
  8. ^ Sabres trade Hasek to Red Wings”. エンクワイアー (2001年7月1日). 2015年2月22日閲覧。
  9. ^ Former Top Adelphia Executives Arrested”. FOX (2002年7月24日). 2015年2月22日閲覧。
  10. ^ 「破産2チーム、オーナーいない 視聴率も振るわず NHL」朝日新聞、2003年2月8日夕刊3ページ
  11. ^ Buffalo Sabres Player and Coach”. バッファロースポーツ殿堂. 2015年2月22日閲覧。
  12. ^ SABRES ACQUIRE DOMINIC MOORE FROM TORONTO”. バッファロー・セイバーズ (2009年3月4日). 2015年2月22日閲覧。
  13. ^ Sabres goalie Ryan Miller saving best for Olympic year, making case to reprise role on US team”. NHL (2013年12月31日). 2015年2月22日閲覧。
  14. ^ Miller wins in first Vezina nomination”. ESPN (2010年6月23日). 2015年2月22日閲覧。
  15. ^ MYERS WINS CALDER TROPHY”. NHL (2010年6月23日). 2015年2月22日閲覧。
  16. ^ Sabres place captain Craig Rivet on waivers”. USAトゥデイ (2011年2月23日). 2015年2月22日閲覧。
  17. ^ Ryan Darling (2011年11月28日). “Ryan Miller Fakes Concussion After Lucic Hit”. bostinno.streetwise.co. 2015年2月22日閲覧。
  18. ^ Greg Wyshynski (2012年7月2日). “Derek Roy, acquire Steve Ott, Adam Pardy from Dallas Stars”. Yahoo! SPORTS. 2015年2月22日閲覧。
  19. ^ Ron Rolston in for fired Lindy Ruff”. ESPN (2013年2月20日). 2015年2月22日閲覧。
  20. ^ Dan Myers (2013年4月3日). “Jason Pominville traded to Wild by Sabres”. NHL. 2015年2月22日閲覧。
  21. ^ Brian Compton (2013年10月27日). “Islanders acquire Vanek from Sabres”. NHL. 2015年2月22日閲覧。
  22. ^ Sabres fire Ron Rolston, Darcy Regier”. ESPN (2013年11月13日). 2015年2月22日閲覧。
  23. ^ Sabres fire Ron Rolston, GM; hire Ted Nolan and Pat LaFontaine”. デイリーニューズ (2013年11月13日). 2015年2月22日閲覧。
  24. ^ Sabres extend Ted Nolan”. ESPN (2014年3月31日). 2015年2月22日閲覧。
  25. ^ Sabres newcomer Cory Conacher OK’d number with Patrick Kane; Patrick Kaleta skating again. Olean Times Herald. Retrieved March 9, 2014.


関連項目

外部リンク