コンテンツにスキップ

オタワ・セネターズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オタワ・セネターズ(旧)
Ottawa Senators
カンファレンス
ディビジョン
創設年1883年(143年前) (1883)
歴代チーム名オタワ・セネターズ (1883-1934)
セントルイス・イーグルス
(1934-1935)
ホームアリーナザ・アリーナ (1908–1923)
オタワ・オーデトリアム (1923–1934) 他
ホームタウンカナダの旗 カナダ
オンタリオ州オタワ
オタワ・セネターズの位置(カナダ内)
オタワ・セネターズ
チームカラー黒、赤、白
     
メディア
オーナー
GM
ヘッドコーチ
キャプテン
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (11回)
1903・1904・1905・1906・1909・1910・1911・1920・1921・1923・1927年
アブコワールド (0回)
カンファレンス優勝 (0回)
ディビジョン優勝 (8回)
1919・1921・1922・1923・1924・1926・1927・1928年
プレジデンツトロフィー (0回)
セントルイス・イーグルス
St. Louis Eagles
カンファレンス
ディビジョン
創設年1883年(143年前) (1883)
歴代チーム名オタワ・セネターズ (1883-1934)
セントルイス・イーグルス
(1934-1935)
ホームアリーナセントルイス・アリーナ
(1908–1923)
ホームタウンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミズーリ州セントルイス
1934-1935の位置(アメリカ合衆国内)
1934-1935
1934-1935
チームカラー赤、白、青
     
メディア
オーナーオタワ・オーデトリアム
GM
ヘッドコーチ
キャプテン
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (0回)
アブコワールド (0回)
カンファレンス優勝 (0回)
ディビジョン優勝 (0回)
プレジデンツトロフィー (0回)

オタワ・セネターズ(英: Ottawa Senators, 仏: Sénateurs d'Ottawa)、または単にセンズ (Sens) は、カナダ・オンタリオ州オタワを本拠としたナショナルホッケーリーグ(NHL)所属のプロアイスホッケーチームである。

旧セネターズのロゴ

歴史的に見ると、オタワ・セネターズとは次のチームの総称である。

  1. 1901年から1934年までNHA、NHL等に所属したチーム
  2. 1934年から1955年までQSHL・QHLに所属したチーム
  3. 1992年に創設されNHLに所属しているチーム

以下、1を旧セネターズ、3を新セネターズと略記し、本項では旧セネターズの概略と新セネターズについて記述する。

歴史

[編集]

旧セネターズ

[編集]

オンタリオ州初のアイスホッケーチーム、オタワ・ホッケー・クラブとして1883年に創設され、翌年に第2回のモントリオール・ウィンター・カーニバルのホッケートーナメント(最古の選手権大会)に出場、1886年に最古のアイスホッケーリーグであるAHAC (Amateur Hockey Association of Canada) に参加、以降はCAHL (Canadian Amateur Hockey League) 、ECAHA (Eastern Canada Amateur Hockey Association)、NHA (National Hockey Association) といった後継リーグに参戦し続け、当時はまだチャレンジ・トロフィーであったスタンレー・カップで合計7度の優勝を遂げた。

チームには複数のニックネームがあったが、そのうちでも最も有名なのが、ローバーのいる7人制の時代に、アマチュア身分のために贈呈された銀塊が由来となっている[1]オタワ・シルバーセブン (Ottawa Silver Seven) である。このホッケー創成期の伝説のチームは、1903年3月から1906年3月までの3年間スタンレーカップを保持した。チーム史を通じて最も一般的なのは、セネターズであり、アイスホッケーの歴史を研究する者の多くは、旧オタワ・セネターズを、ホッケー黎明期における最も偉大なチームとして認識している。

チームの在籍選手を語ることはそのままホッケーの伝説を語ることとなり、フランク・マギー (Frank McGee, 初代殿堂入り選手) 、キング・クランシー (King Clancy, 最初期のエリートDF) 、 クリント・ベネティクト (Clint Benedict, 最初に顔面保護具を装着したゴーリー)、アレックス・コネル (Alex Connell, 初期のスターゴーリー)、フランク・ナイボル (Frank Nighbor, 初代ハート記念賞、初代レディ・ビング記念賞受賞者) 、サイ・デネニー (Cy Denneny, フィジカルなスナイパー) をはじめ多数の名選手がいた。

チームが最後にスタンレー・カップ決勝進出をした1926-1927シーズンまでに、組織化されたホッケー界のあらゆるチームの中で最も多くのカップ獲得、勝利数、リーグチャンピオンとなり、また最多の殿堂入り選手を輩出した。1920年から1927年までの7年間で7度のレギュラーシーズン制覇と4度のカップを獲得したこの時期は、一般的にNHL初の王朝 (Sports dynasty)と見なされている。[2]

旧セネターズは、 NHA とその後継である NHL 双方のリーグの創設メンバーであり、NHL に加入してからは西部リーグのチームと戦って4度のスタンレー・カップを獲得した。なお、1927年のスタンレー・カップ決勝、対ボストン・ブルーインズ戦以降は、NHL はカップを優勝チームのみに授与することとなった。

「小規模市場のフランチャイズ ("small-market franchise") 」という言葉は、決して新しい言葉なのではなく、NHL における最少の市場として、1927年頃からオタワはリーグからの財政的支援を求めていた。チームは徐々にスター選手を他チームに譲渡しており、世界大恐慌に伴うストライキの折には、スーパースターでディフェンスのキング・クランシーを1930年当時破格の35,000ドルで売りに出した。それでも十分とはいえず、1932-1933シーズンには、フランチャイズでの業務活動を一時休止した。

その後のシーズン、セネターズは活動を再開するが、有力選手に事欠いたために、オタワにおける残り2シーズンを惨めな成績で終えることとなった。こうして、かって一大勢力を誇ったフランチャイズは、セントルイスに移転することとなり、旧セネターズは最後の1934-1935シーズン をセントルイス・イーグルス (英: St. Louis Eagles) の名称で戦った。しかし遠征費の増加により赤字が続いたため、シーズン終了後にオーナーはNHLに対して2度目の活動停止を求めたが、リーグは代わりにフランチャイズを買い戻し活動を停止させ、所属選手を他のチームに分散させた。

イーグルスのジャージ

この旧セネターズは、新セネターズとは一応関係のないチームとして位置づけられる。ただし、NHL の発行した新フランチャイズの証明書には、フランチャイズ権の「再授与 (re-instatement) 」であると宣言されている。また新セネターズは、旧チームの黒、赤、白のチームカラーを引き継いでおり、新セネターズのNHL復帰に尽力した旧セネターズのメンバーであったフランク・フィニガン (Frank Finnigan)の8番は、新チーム最初の永久欠番となっている。[3]

新セネターズ

[編集]
オタワ・セネターズ
Ottawa Senators
カンファレンスイースタン・カンファレンス
ディビジョンアトランティック
創設年1990年(36年前) (1990)
(1992年から加入)
歴代チーム名オタワ・セネターズ
(1992 - )
ホームアリーナカナディアン・タイヤ・センター
ホームタウンカナダの旗 カナダ
オンタリオ州オタワ
(1992 - )の位置(カナダ内)
(1992 - )
(1992 - )
チームカラー黒、赤、金、白
       
メディア
オーナーミカエル・アンドラウアー
GMスティーブ・スタイオス
ヘッドコーチトラヴィス・グリーン
キャプテンブレイディ・カチャック
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (0回)
なし
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (1回)
2007
ディビジョン優勝 (4回)
1999・2001・2003・2006
プレジデンツトロフィー (1回)
2003

首都オタワへの復帰

[編集]

NHL は1992-1993シーズンにリーグ加盟チームの拡張を計画したが、競合するいくつもの候補地がしのぎを削った。これに先立つ1989年からチームのオーナー、ブルース・ファイアストン (Bruce Firestone) は、旧セネターズ最後の生き残りであるフランク・フィニガン (Frank Finnigan) を前面に押し立てて、精力的な招致運動を展開した。これにより、新生セネターズは2つの枠のうち1つを見事獲得し(残り一つの枠はタンパベイ・ライトニングに割り当てられた。)、1992年からNHLに参戦することとなった。

セネターズの企ては、ある意味で一か八かの大博打とも思われるもので、間もなくチームの財政的な問題が表面化した。ファイアストンは、加盟金5,000万ドルを調達するために借金をするといった問題を抱えていた。また、チームの管理部門は、新スタジアム建設のための資金繰りをどうするかで数年間頭を悩ませ続けた。

チームは、オンタリオ州政府から新たなインターチェンジ建設のための資金拠出さえ断られるなど、政府からは何の財政的支援も受けることができなかった。

1993年8月17日になって、借金の返済期限を守れず返済の見込みが立たなくなったブルース・ファイアストンはオーナーを辞任、チームはハイテク企業の大立者であったロッド・ブライデン (Rod Bryden) が引き継いだ。

この1年後、ロッド・ブライデンは、パラジウム (Palladium) と呼ばれるアリーナ建設のために、1億8,800万ドルの資金調達を行った。このスタジアムは、よくデザインされたアリーナとして広く認められる一方で、建設が始まってからずっと交通の便が悪い点を批判されてきた。このアリーナは、オタワからはるか西の郊外にあり、オタワの東部やウタウエ(Outaouais、 オタワ川対岸ケベック州ガティノーの地名)などから長時間かかる。また、試合があるときには頻繁に交通渋滞が起こる問題があり、前述の問題と相まって、試合終了後の祝勝ムードを維持するのを困難なものとする場合がある。

また、タンパベイ・ライトニング(このフランチャイズは、招致の折に他の有力な候補地と考えられていたフロリダ州 セント・ピーターズバーグ(Saint Petersburg)に打ち勝ったのであるが、これはNHL の名選手であったフィル・エスポジトのリーダーシップに負うところが多かった。)とともに、スター選手を欠くために広告宣伝活動があまり上手とはいえないということもある。

新セネターズは、NHL 第1戦目を、プロホッケーのアリーナの標準としては小さい、収容人員9,862名のオタワ・シビックセンターで戦い、モントリオール・カナディアンズ相手に5対3で勝利を収めた。痛ましいことに、新チームが活動を始める前に招致に尽力したフィニガンはこの世を去った。この初戦のカナディアンズに対する勝利が新チームにとって最大の栄光の瞬間であったといえ、1992-1993シーズンにはリーグ最多の70敗を喫し、この後も数シーズンに渡って苦難の道程は続いた。

新アリーナ完成からの飛躍

[編集]

1995-1996シーズンの1月には新セネターズにとって大きな2つの出来事が起こった。1つは、ジャック・マルタン (Jacques Martin) がヘッドコーチに就任したこと、もう一つは新アリーナへの移転である。この、18,500席を有する パラジウム(後にコーレル・センターと改称する。)は、オタワ郊外のカナタにある。この年は、凡庸な成績しか残せなかったセネターズであるが、これから目を見張るような転換を見せるようになった。

スウェーデン人FWのダニエル・アルフレッドソン (Daniel Alfredsson)は、新セネターズ初のカルダー記念賞を受賞した。[4]そして、1996-1997シーズンには、初のプレイオフ進出を果す(バッファロー・セイバーズと対戦し、スリリングな第7戦で敗退)。また、翌1997-1998シーズンには、第6戦でニュージャージー・デビルスを下して、プレイオフ初勝利を上げた。

1999-2000シーズン期間中、チームとアレクセイ・ヤシン (Alexei Yashin)の契約を巡るトラブルは、暗礁に乗り上げた。ヤシンはシーズンを通じて契約を保留し続けたが、このときはセネターズでもう一年プレーする義務があるとの裁定が出た。レギュラーシーズンでは、チームは93ポイントを上げ第2位となったが、プレイオフではトロント・メープルリーフスに2勝4敗と早々と姿を消した。

ヤシンは、2000-2001シーズンもセネターズでプレイしたが、2001年の夏にニューヨーク・アイランダーズにトレードで移籍した。このときの交換条件は、選手がズデノ・チャラ (Zdeno Chara) 及び Bill Muckalt に アイランダーズのドラフトにおける第1、第2順位の指名権であり、セネターズはこの権利をジェイソン・スペッツァ(Jason Spezza)獲得に使用した。このシーズンは、またもプレイオフ第1ラウンドで、メープルリーフスに敗退する。このシリーズではメープルリーフスのゴーリー、カーティス・ジョゼフ (Curtis Joseph) に得点を阻まれて4連敗といいところなく終えた。

2001-2002シーズンは、94ポイントを上げ第3位につけた。プレイオフでは、フィラデルフィア・フライヤーズに勝利し、チームはプレイオフでの2勝目を上げたがまたも7試合の末に宿敵メープルリーフスに黒星を喫した。

プレジデンツトロフィーとカップ決勝進出

[編集]

セネターズは2003年1月9日長年にわたる赤字累積により破産宣告の申請を行った[5]。その後もNHL からの緊急財政支援を受けレギュラーシーズンでの対戦は継続された。こういった、リンク外でのトラブルにも拘わらず、2002-2003シーズンには、113ポイントの成績を残しリーグ最高成績を収めたチームに与えられる会長賞を受賞している。[6]そしてプレイオフでは、ニューヨーク・アイランダーズ、フィラデルフィア・フライヤーズを連破したが、スタンレー・カップ決勝進出を目前にして、ニュージャージー・デビルスの前に涙を飲んだ(デビルスはこの年、カップ優勝)。

2003年9月に、チームは医薬品メーカーの Eugene Melnyk 社に買収された。

2004年3月5日の対フライヤーズ戦では、NHL記録となる両チーム合計419分のペナルティーが科された。[7]

新セネターズは、創設来毎年プレイオフ進出を果しているが、その成績はあまり芳しいものといえない。中でも、メイプルリーフスには3年連続で敗北を喫しており、両チームのライバル関係に拍車をかけた。さらに、2003-2004シーズンのプレイオフでは、過去5年間で4度目となる対メープルリーフス敗北を重ね、セネターズにはこのオンタリオ州に本拠地を置くライバルに対する勝利を求めるプレッシャーが強くなった。[8]

この敗北から2日後、コーチのジャック・マルタンは解任された。マルタンは、セネターズのコーチを8年半務め、多くの者から尊敬を集め、レギュラーシーズン 341勝255敗96引き分けを記録し、8度のプレイオフ進出を果し、多くの者からセネターズをリーグ屈指のチームとするコーチとして期待をされた。しかし、プレイオフ12戦で8敗の成績から、チーム首脳部は新コーチの招聘を決断したのである。

こうして2004年6月8日、ブライアン・マリー (Bryan Murray) がチーム第5代のヘッドコーチに就任した。

その後2004年から2005年のNHLロックアウト終結後の2005-2006シーズンは、デトロイト・レッドウィングスからフリーエージェントで獲得したドミニク・ハシェック(Dominik Hasek)や、マリアン・ホッサ(Marian Hossa)らを放出して獲得したダニー・ヒートリー(Dany Heatley)などの活躍でカンファレンス1位を獲得した。しかし、プレーオフではあっさりと負けてしまった。

2006-2007シーズン前にはハシェックなどが抜けて、大幅戦力ダウンといわれたものの、スタンレーカップ決勝まで進出、80年ぶりにカナダの首都オタワで決勝が開催されたが、アナハイム・ダックスに1勝4敗で敗れ去った。将来の殿堂入り選手であるアルフレッドソンは、初めて決勝に進出したヨーロッパ人キャプテンとして名を残した。[9]

2009年のNHLオールスターゲームに、アルフレッドソン、スペッツァ、ヒートリーの「キャッシュ・ライン」(The CASH Line) の3人が、1981年のロサンゼルス・キングスの「トリプル・クラウン・ライン」(The Triple Crown Line) 以来初めて揃って選出された。[10]

再建期へ

[編集]

2013年、長年キャプテンを務めたチームの象徴的存在であるアルフレッドソンが、オタワでの契約難のためデトロイト・レッドウィングスと1年契約を結び、チームを去ることになった。スペッツァが後任のキャプテンに就任したが、シーズン終了後にはスペッツァもダラス・スターズへ移籍が決まり、翌シーズンの初めには、エリック・カールソン(Erik Karlsson)がフランチャイズの9人目のキャプテンに指名された。[11]

2017年のプレーオフ1回戦では、ボストン・ブルーインズを6試合、2回戦ではニューヨーク・レンジャーズを6試合で下した。セネターズはスタンレーカップ決勝進出まであと1勝というところまで迫ったが、カンファレンス決勝シリーズ第7戦でピッツバーグ・ペンギンズにダブルオーバータイムで敗れた。2017年12月16日、NHLで最初のモントリオール対オタワ戦の100周年を記念する「NHL 100 クラシック」 (NHL 100 Classic) をカナディアンズと屋外開催した。[12]

低迷

[編集]
ブレイディ・カチャック

2018年のドラフト全体4位でフォワードのブレイディ・カチャック (Brady Thachuk)を指名した。[13]レギュラーシーズン開幕直前、セネターズはキャプテンのカールソンをサンノゼ・シャークスにトレードし、多くの選手とドラフト指名権を獲得した。

その後低迷期に入り、2018年から7年連続でプレーオフ進出を逃した。2025年にプレーオフに進出したが、宿敵リーフスを相手に第1ラウンドで敗退し、翌2026年もカロライナ・ハリケーンズを相手に第1ラウンドで敗退した。[14]

シーズン別の成績

[編集]

旧チームNHL成績

[編集]
年GPWLTOLGFGAPTS最終順位

プレイオフ

1917-18229130-10211418リーグ3位不参加
1918-19181260-715324リーグ1位決勝敗退
1919-20241950-1216438リーグ1位スタンレー・カップ優勝
1920-212414100-977528リーグ1位スタンレー・カップ優勝
1921-22241482-1068430リーグ1位
1922-23241491-775429リーグ1位スタンレー・カップ優勝
1923-24241680-745432リーグ1位
1924-253017121-836635リーグ4位
1925-26362484-774252リーグ1位
1926-274430104-866964カナディアン1位スタンレー・カップ優勝
1927-2844201410-785750カナディアン1位第1ラウンド敗退
1928-2944141713-546741カナディアン4位不参加
1929-304421158-13811850カナディアン5位第1ラウンド敗退
1930-314410304-9114224カナディアン5位不参加
1932-3348112710-8813132カナディアン5位不参加
1933-344813296-11514332カナディアン5位不参加

セントルイス・イーグルス

[編集]
年GPWLTOLGFGAPTS最終順位プレイオフ
1934-354811316-8614428カナディアン5位不参加
  • “St. Louis Eagles” (英語). NHL記録公式サイト. NHL.com. 2026年6月19日閲覧。

新チーム成績

[編集]
年GPWLTOLGFGAPTS最終順位

プレーオフ(相手チーム)

1992-938410704-20239524アダムス6位不参加
1993-948414619-20139737北東7位不参加
1994-95489345-11717423北東7位不参加
1995-968218595-19129141北東6位不参加
1996-9782313615-22623477北東3位カンファランス準々決勝敗退 (BUF)
1997-9882343315-19320083北東5位カンファランス準決勝敗退 (WSH)
1998-9982442315-239179103北東1位カンファランス準々決勝敗退 (BUF)
1999-0082412811224421095北東2位カンファランス準々決勝敗退 (TOR)
2000-0182482194274205109北東1位カンファランス準々決勝敗退 (TOR)
2001-028239279724320894北東3位カンファランス準決勝敗退 (TOR)
2002-0382522181263182113北東1位
プレジデンツトロフィー
カンファランス決勝敗退 (NJD)
2003-04824323106262189102北東5位カンファランス準々決勝敗退 (TOR)
2005-06825221-9312205113北東1位カンファランス準決勝敗退 (BUF)
2006-07824825-9286216105北東2位スタンリーカップ決勝敗退 (ANA)
2007-08824331-825824294北東2位カンファランス準々決勝敗退 (PIT)
2008-09823635-1121323183北東4位不参加
2009-10824432-622023394北東2位カンファランス準々決勝敗退 (PIT)
2010-11823240-1019024574北東5位不参加
2011-12824131-1024323692北東2位カンファランス準々決勝敗退 (NYR)
2012-13482517-656112100北東4位カンファランス準決勝敗退 (PIT)
2013-14823731-1422925888大西洋5位不参加
2014-15824326-1323220899大西洋4位第1ラウンド敗退 (MTL)
2015-16823835-923024185大西洋5位不参加
2016-17824428-1020621098大西洋2位カンファランス決勝敗退 (PIT)
2017-18822843-1121928467大西洋7位不参加
2018-19822947-624230164大西洋8位不参加
2019-20712534-1219023862大西洋7位不参加
2020-21562328-515518951ノース6位不参加
2021-22823342-722426473大西洋7位不参加
2022-23823935-886259270大西洋6位不参加
2023-24823741-425028178大西洋7位不参加
2024-25824530-724223297大西洋4位第1ラウンド敗退 (TOR)
2025-26824427-1127524599大西洋5位第1ラウンド敗退 (CAL)

“Ottawa Senators Season-by-Season Record - Regular Season” (英語). NHL記録公式サイト. NHL.com. 2026年5月26日閲覧。

永久欠番

[編集]
# 国籍 ポジション 選手名 備考
4 カナダの旗 ディフェンス クリス・フィリップス (Chris Phillips) 2020年2月18日認定
8 カナダの旗 右ウィング フランク・フィ二ガン (Frank Finnigan) 旧セネターズ選手
1992年10月8日認定
11 スウェーデンの旗 右ウィング ダニエル・アルフレッドソン (Daniel Alfredsson) 2016年12月29日認定
25 カナダの旗 右ウィング クリス・ニール (Chris Neil) 2023年2月17日認定
  • ウェイン・グレツキーの99は2000年2月6に全NHLチームの永久欠番に認定

脚注

[編集]
  1. ↑ 「Ottawa Silver Seven」Ottawa Sport Hall of Fame 2025年1月22日
  2. ↑ 「Ottawa Senators 1919‐20 to 1926‐27」NHL Dynasties, Hockey Hall of Fame
  3. ↑ 「Ottawa Senators Retired Numbers」Ottawa Senators Hockey Club
  4. ↑ 「Daniel Alfredsson Calder Memorial Trophy Winner,」HockeyGods.com 2024年9月16日
  5. ↑ 破産2チーム、オーナーいない 視聴率も振るわず NHL 朝日新聞2003年2月8日夕刊3ページ
  6. ↑ 「NHL Presidents' Trophy Winners」NHL.com 2026年4月17日
  7. ↑ 「Senators-Flyers 2004 brawl still holds NHL record with 419 penalty minutes」Stephen Whyno, CBC 2024年2月28日
  8. ↑ 「Part II -- Top rivalries」ESPN.com 2005年10月29日
  9. ↑ 「2007 Stanley Cup Final ANA wins 4-1」NHL.com
  10. ↑ 「The Cash Line / The Capital Punishment Line / The Pizza Line – Ottawa Senators (2005-08)」 Jeff S., The Hockey Writers 2026年5月25日
  11. ↑ 「Senators name Erik Karlsson captain, Bobby Ryan signs extension」CBC News 2014年10月3日
  12. ↑ 「NHL100 Classic By the Numbers」NHL Public Relations 2017年12月15日
  13. ↑ 「Brady Tkachuk drafted fourth overall by Ottawa in NHL draft」Warren Mayes, West Newsmagazine 2018年6月29日
  14. ↑ 「Hurricanes win Game 4, sweep Senators in Eastern 1st Round」Zoe Pierce, NHL.com 2026年4月26日

外部リンク

[編集]