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「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の版間の差分

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{{政治家
[[Image:Alexander Mikhailovich Gorchakov.jpg|thumb|right|アレクサンドル・ゴルチャコフ]]
|人名 = アレクサンドル・ゴルチャコフ
'''アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフ[[公爵]]'''('''{{Lang|rus|Александр Михайлович Горчаков}}''' 、'''Alexandr Mikhailovich Gorchakov'''、[[1798年]][[7月4日]]([[グレゴリオ暦]][[7月15日]]) - [[1883年]][[2月27日]](グレゴリオ暦[[3月11日]]))は、[[帝政ロシア]]の[[政治家]]、[[外交官]]。[[19世紀]]の[[ロシア]]における最も傑出した外交家として評価される。その一方で[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]の後、生じた[[東方問題]]では、[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]にロシア全権代表として出席するが、会議の結果、[[サン・ステファノ条約]]で獲得したロシアの権益を覆され、引退に追い込まれている。
|各国語表記 = {{Lang|ru|Александр Горчаков}}
|画像 = Gorcakov A M chancellor.jpg
|画像説明 = <small>1876年のゴルチャコフの肖像画</small><br><small>[[エルミタージュ美術館]]所蔵</small>
|国略称={{RUS1858}}
|生年月日 = [[1798年]][[6月4日]]
|出生地 = {{RUS1883}}<br>[[File:Coat of Arms of Estland gubernia (Russian empire).png|23px]] [[エストニア行政区]]、[[ハープサル]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1798|7|15|1883|2|27}}
|死没地 = {{DEU1871}}<br>[[ファイル:Flagge Großherzogtum Baden (1891-1918).svg|25px]] [[バーデン大公国]]<br>[[バーデン=バーデン]]
|出身校 = [[ツァールスコエ・セロー・リツェイ]]
|前職 = [[外交官]]
|現職 =
|所属政党 =
|称号・勲章 = [[公爵]](Князь)
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 =
|サイン = SignatureAlexanderGorchakov.jpg
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|職名 = {{RUS1858}}[[ロシアの外相|外務大臣]]
|就任日 = [[1856年]][[4月27日]]<ref name="秦(2001)427">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.427</ref>
|退任日 = [[1882年]][[4月9日]]<ref name="秦(2001)427"/>
|元首職 = [[ツァーリ|皇帝]]
|元首 = [[アレクサンドル2世]]<br />[[アレクサンドル3世]]
}}
'''アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフ'''([[ロシア語|露]]:'''{{Lang|rus|Александр Михайлович Горчаков}}''' 、[[英語|英]]:'''Alexander Mikhailovich Gorchako'''、[[1798年]][[6月4日]] - [[1883年]][[2月27日]])は、[[帝政ロシア]]の[[政治家]]、[[外交官]]、[[貴族]]。


[[ツァーリ|皇帝]][[アレクサンドル2世]]の下で[[ロシアの外相|外務大臣]](在職[[1856年]]-[[1882年]])を務めた。爵位は[[公爵]](Князь)。
==生い立ち==
1798年[[ロシア帝国]]領であった[[エストニア]]に生まれる。[[ツァールスコエ・セロー]]のリツェイ(貴族高等中学校。学習院、近侍学校などとも訳される)に学び、同級生に[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]がいる。ツァールスコエ・セロー・リツェイでは、優秀な学生であり、語学特に[[フランス語]]に才能を示した。プーシキンは、この同級生の未来における成功を予言する詩を物している。


==外交官時代==
== 概要 ==
[[ロシア帝国]]領[[エストニア]]に名門貴族の軍人の息子として生まれる。[[1817年]]から[[ロシア外務省]]に入省して外交官となる。[[ロンドン]]、[[ベルリン]]、[[ウィーン]]などのロシア大使館で勤務した後、[[1850年]]から[[1854年]]にかけて[[ドイツ連邦議会]]にロシア全権大使として参加した。[[クリミア戦争]]中の1854年から[[1856年]]にかけては駐オーストリア大使を務めた。
[[1824年]][[ロシア外務省]]に入省し、外交官生活入りする。ゴルチャコフの外交官としての最初の仕事は、オリガ大公女とヴュルテンベルク公子カルルの結婚の交渉であった。婚儀成立後もゴルチャコフは、[[公使]]として[[シュトゥットガルト]]に残り、本国に対して[[ドイツ]]情勢を伝えた。ゴルチャコフの慧眼は、[[1848年]]の[[フランス]]二月革命([[1848年革命]])が[[ドイツ]]、[[オーストリア]]に伝播することを見抜き、オーストリア皇帝[[フェルディナンド1世]]の退位と新帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の即位を支持した。[[フランクフルト国民議会]]は頓挫し、[[ドイツ連邦]](ドイツ同盟)が復活する。ゴルチャコフはドイツ連邦会議ロシア全権代表として赴任し、ドイツの情勢を分析・報告した。ゴルチャコフが[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]と最初に出会ったのがこのときである。以後、ゴルチャコフとビスマルクは親交を結ぶに至った。


クリミア戦争直後の1856年に皇帝[[アレクサンドル2世]]より外相に任命され、以降アレクサンドル2世の在位中を通じて外相に在職した。クリミア戦争の敗北で結ばされた[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]の黒海における艦隊保有禁止条項の撤廃を目指し、ロシアと対立関係にある[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]や[[オーストリア帝国]]を牽制するため、皇帝[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|フランス帝国]]に接近を図った。しかしナポレオン3世は1863年の[[ポーランド立憲王国|ロシア領ポーランド]]における[[1月蜂起|ポーランド人の蜂起]]を支援したことから露仏関係は疎遠となった。代わりに宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]が指導する[[プロイセン王国]]との連携を深めていった。[[1871年]]に[[普仏戦争]]でプロイセンが勝利したことで、パリ条約撤廃にこぎつけた。
皇帝[[ニコライ1世]]は、オーストリア大使メイエンドルフ男爵を解任し、後任のオーストリア大使にゴルチャコフを任命した。[[クリミア戦争]]でロシアが敗北するとゴルチャコフは戦後処理に奔走する。[[1856年]][[パリ条約 (1856年)|パリ講和条約]]では、ロシア全権大使であった[[オルロフ家#アレクセイ・フョードロヴィッチ・オルロフ|アレクセイ・フョードロヴィッチ・オルロフ]]公爵を補佐するが、パリ条約署名に当たっては、故意に署名をしなかった。こうした紆余曲折はあったが、皇帝[[アレクサンドル2世]]はゴルチャコフの外交手腕を高く評価し、[[カール・ロベルト・ネッセルローデ|ネッセルローデ]]伯の引退後、後任の外務大臣にゴルチャコフを任命することとなる。
[[Image:Berliner kongress.jpg|Right|thumb|400px|[[ベルリン会議_(1878年)|ベルリン会議]](アントン・フォン・ヴェルナー画) 左側に腰掛けているのがゴルチャコフ。ゴルチャコフは、[[ディズレーリ]]の手を取っている。]]
==外相時代==
==ビスマルクとの対決==
[[日露関係]]では、[[樺太・千島交換条約|千島樺太交換条約締結]]の際、ロシア側代表として[[榎本武揚]]との間で交渉を担当した。


これによりロシアは再び黒海において軍事活動ができるようになった。折しもロシア国内で[[汎スラブ主義]]が高まりを見せる中の[[1876年]]、[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]領[[バルカン半島]]においてスラブ人が蜂起すると、ロシア軍はそれを支援すべく[[露土戦争]]に及んだ。戦争に勝利したロシアはトルコに[[サン・ステファノ条約]]を結ばせ、バルカン半島に衛星国[[大ブルガリア公国]]を樹立したが、この条約はイギリスと[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の反発を招いた。利害関係調整のため[[ドイツ帝国]]宰相ビスマルクの主導で[[ベルリン会議_(1878年)|ベルリン会議]]が開催され、ゴルチャコフも出席したが、会議の結果大ブルガリア公国は分割され、ロシアは露土戦争で得たバルカン半島の地歩を大きく失った。ゴルチャコフにとっては大きな外交的失態となった。


その後は反独・反ビスマルク姿勢を強め、[[フランス第三共和政|フランス共和国]]への接近を図ったが、1881年にアレクサンドル2世が崩御し、ドイツとの関係改善を志向する[[アレクサンドル3世]]が即位すると疎んじられるようになり、1882年に外相を辞することとなった。
{{先代次代|[[ロシアの外相|ロシア帝国外務大臣]]|[[1856年]]–[[1882年]]|[[カール・ロベルト・ネッセルローデ|ネッセルローデ]]|[[ニコライ・ギールス]]}}
{{-}}
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Gorchakov by Pushkin.jpg|200px|thumb|学生時代のゴルチャコフを描いた学友[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]のスケッチ]]
1798年6月4日、[[ロシア帝国]]{{仮リンク|エストニア行政区|ru|Эстляндская губерния}}[[ハープサル]]に{{仮リンク|ミハイル・アレクセーエヴィチ・ゴルチャコフ|ru|Горчаков, Михаил Алексеевич}}公爵少将の息子として生まれる<ref name="エリツィン">[http://www.prlib.ru/en-us/history/Pages/Item.aspx?itemid=455 エリツィン大統領図書館公式サイト]</ref>。


ロシア帝国首都[[サンクト・ペテルブルク]]の[[ギムナジウム|ギムナージヤ]]で学んだ後、1811年に[[ツァールスコエ・セロー]]の{{仮リンク|ツァールスコエ・セロー・リツェイ|label=リツェイ|ru|Императорский Царскосельский лицей}}{{#tag:ref|リツェイとはロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]が貴族の子弟の教育のために創設した{{仮リンク|ロシア帝国内務省|label=内務省|ru|Министерство внутренних дел Российской империи}}管轄下の学校である<ref name="田中(1994)154">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.154</ref>。ロシアの貴族は19世紀前期頃まで大学ではなくリツェイか陸軍幼年学校で学ぶのが一般的であった<ref name="田中(1994)119">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.119</ref>。ゴルチャコフが入学したツァールスコエ・セロー・リツェイは、アレクサンドル1世が[[ツァールスコエ・セロー]]の離宮の中に創設したリツェイである<ref name="世界伝記大事典(1980)4,278">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.278</ref>。|group=注釈}}に入学した<ref name="エリツィン"/>。

この学校での同級生に詩人[[アレクサンドル・プーシキン]]がいる<ref name="エリツィン"/><ref name="エンゲルベルク(1996)437">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.437</ref>。彼との交友を通じて[[自由主義]]的な影響を受け、[[啓蒙専制君主|啓蒙絶対主義]]に感銘を受けるようになったという<ref name="エンゲルベルク(1996)437"/>。
{{-}}
=== 外交官 ===
[[File:A.M.Gorchakov.jpg|200px|thumb|中年期のゴルチャコフ]]
[[1817年]]に[[ロシア外務省]]に入省し、外交官となった<ref name="エリツィン"/><ref name="世界伝記大事典(1980)4,278">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.278</ref>。[[1820年]]から[[1822年]]にかけては[[オパヴァ|トロッパウ]]や[[リュブリャナ|ライバッハ]]、[[ヴェローナ]](いずれも当時[[オーストリア帝国]]領)で開催された[[神聖同盟]]{{#tag:ref|[[ロシア帝国]]、[[オーストリア帝国]]、[[プロイセン王国]]による君主政体の擁護を目的とした同盟関係。[[ウィーン体制]]を為すヨーロッパ国際関係の一つ。|group=注釈}}の会議に参加した<ref name="エリツィン"/>。[[1824年]]から駐[[ロンドン]]大使館に一等書記官として勤務し、[[1827年]]には駐ローマ大使館に転勤となり、更にその後ベルリンやウィーンの大使館にも勤務した<ref name="エリツィン"/>。

[[1841年]]に駐[[シュトゥットガルト]]([[ヴュルテンベルク王国]])公使に任じられる<ref name="エリツィン"/>。[[1850年]]には[[1848年革命]]で中断されていた[[ドイツ連邦議会]]([[ドイツ連邦]]諸国の代表の会議)が自由都市[[フランクフルト・アム・マイン]]で再開されたが、ドイツ連邦内の二大国[[プロイセン王国]]と[[オーストリア帝国]]の対立が深まるばかりであった。法律上ドイツ連邦の保証者であったロシア皇帝[[ニコライ1世]]は、[[神聖同盟]]の崩壊を防ぐため、ゴルチャコフを駐シュトゥットガルト公使在任のまま、ドイツ連邦議会ロシア全権大使に任じて、普墺両国の関係を取り結ぶことを命じた<ref name="エンゲルベルク(1996)369">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.369</ref>。

フランクフルトに着任したゴルチャコフは、神聖同盟を意に介さず、オーストリアへの強硬姿勢を崩さないドイツ連邦議会プロイセン全権公使[[オットー・フォン・ビスマルク]](後のプロイセン宰相)に対して「もし貴方のせいで普墺関係に亀裂が入ったら貴方はプロイセン保守派の政治家として人望を失うのではないか」と警告した。ビスマルクはゴルチャコフの保守的な説教にうんざりし、「G(ゴルチャコフ)は儀式ばった不器用な[[ハンスのばか|馬鹿のハンス]]に過ぎない。ずる賢いつもりのようだが、木靴をはいた狐である」とこき下ろしている<ref name="エンゲルベルク(1996)369">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.369</ref>。

[[1853年]]には[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]領パレスチナの[[カトリック]](フランスが保護権を主張)と[[正教会]](ロシアが保護権を主張)の権益の対立にはじまり、東[[地中海]]の覇権をめぐってイギリス・フランス・トルコ陣営とロシアが開戦した([[クリミア戦争]])<ref name="ウォーンズ(2001)228-229">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.228-229</ref>。[[バルカン半島]]進出のチャンスを窺うオーストリア帝国が英仏側での参戦をちらつかせてバルカン半島からの撤兵をロシアに要求し、ニコライ1世はオーストリアに怒りを感じながらもオーストリア参戦を阻止するため応じざるを得なかった<ref name="ウォーンズ(2001)229">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.229</ref>。

こうした難しい時期の[[1854年]]にゴルチャコフは駐オーストリア大使に任じられ、[[1856年]]までウィーンに派遣された<ref name="エリツィン"/><ref name="エンゲルベルク(1996)436">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.436</ref>。しかし結局オーストリア参戦を阻止できず、オーストリアは[[1855年]]12月に英仏側での参戦を宣言した<ref name="ウォーンズ(2001)231">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.231</ref>。神聖同盟の崩壊を目の当たりにしたゴルチャコフは、もはや絶対主義に固執するだけではダメであり、絶対主義に近代化の要素を加える必要があるということを改めて感じたという<ref name="エンゲルベルク(1996)437">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.437</ref>。

[[1855年]]に即位した皇帝[[アレクサンドル2世]]は戦争継続の意思を失い、ナポレオン3世の提案に応じて[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]を結んだ。これによってロシアは南[[ベッサラビア]]地方を喪失し、[[黒海]]における艦隊の保有を禁止された<ref name="ウォーンズ(2001)231">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.231</ref>。

=== 外相 ===
[[File:Vürst Gortšakov.jpg|200px|thumb|1867年のゴルチャコフの肖像画({{仮リンク|ヨハン・ケーラー|ru|Кёлер, Иоганн}}画)]]
[[1856年]][[4月27日]]、皇帝[[アレクサンドル2世]]により外務大臣に任じられた。以降25年にわたってロシア外相としてロシア外交を主導した<ref name="エリツィン"/>。
==== フランス、プロイセンとの連携 ====
ゴルチャコフの当面の目標はクリミア戦争の敗北で結ばされたパリ条約(特に黒海における艦隊保有禁止)を破棄することであった<ref name="世界伝記大事典(1980)4,278"/><ref name="ウォーンズ(2001)231">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.231</ref>。

そのために彼はロシアの立場を支持する協力国を欲したが、イギリスとは中央アジアをめぐる対立が根深く、またオーストリアともバルカン半島の利権をめぐって対立が深まっていた。[[プロイセン王国]]は、ドイツ連邦内のオーストリアと覇権争いをしていたが、当時のプロイセンは同盟相手としては力不足と看做されていた。そこで当初ゴルチャコフが目を付けた連携相手は[[イタリア統一運動|イタリア統一問題]]をめぐってオーストリアと対立を深めている[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|フランス帝国]]であった<ref name="ウォーンズ(2001)237-238">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.237-238</ref>。[[1859年]]の[[イタリア統一戦争]]にロシアはフランス支持の立場を取った<ref name="ウォーンズ(2001)238">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.238</ref><ref name="ガル(1988)235">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.235</ref>。

露仏関係はこの1859年に最も強化されたといえるが、[[1863年]]に[[ポーランド立憲王国|ロシア領ポーランド]]においてロシアの支配に抗する[[ポーランド人]]の反乱([[1月蜂起]])が発生すると、「民族運動の保護者」を自負していたナポレオン3世は蜂起に共感を示し、イギリスやオーストリアとともに反露的立場を取った。そのためゴルチャコフの期待に反して露仏関係は急速に悪化した<ref name="エンゲルベルク(1996)511">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.511</ref>。

逆にプロイセン宰相ビスマルクはプロイセン領ポーランドへの波及阻止の観点からロシアに接近を図ってきた。結局ロシアはプロイセンとのみ連携を深めることとなった<ref name="ウォーンズ(2001)238">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.238</ref><ref name="世界伝記大事典(1980)4,278-279">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.278-279</ref>。
{{-}}
==== アジア進出 ====
[[File:У крепостной стены.jpg|250px|thumb|1873年、[[ヒヴァ・ハン国]]へ侵攻するロシア軍を描いた絵画]]
[[1858年]]、[[清]]との間に[[アイグン条約]]を結んで[[アムール川]]左岸を割譲させた。ついで[[アロー戦争]]で英仏が清に結ばせた[[北京条約]]([[1860年]])にロシアも参加することで、ロシアは更に[[ウスリー川]]右岸を手に入れた<ref name="ウォーンズ(2001)238-239">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.238-239</ref><ref name="田中(1994)254">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.254</ref>。これにより[[ハバロフスク]]や[[ウラジオストク]]が建設された<ref name="ウォーンズ(2001)239">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.239</ref>。

しかし英仏はロシアが極東を征服することで[[太平洋]]に進出してくることを警戒していた。これに対してゴルチャコフはこの地域におけるロシアの孤立を阻止すべく、太平洋上に強い影響力を持つ[[アメリカ合衆国]]と接近し、1867年には[[アラスカ]]を[[アラスカ購入|720万ドルでアメリカに売却]]している<ref name="ウォーンズ(2001)239">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.239</ref>。

またロシアは[[インド]]を支配するイギリスを睨んで[[中央アジア]]に積極的な進出を図り、しばしば軍事侵攻も行った。ゴルチャコフはイギリスとの対立を恐れ、そうした強硬策には慎重な立場をとっていたが、軍務大臣[[ドミトリー・ミリューチン]]はイギリスとの対立を恐れず、中央アジアを完全な支配下に置く事を主張していた<ref name="田中(1994)244">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.244</ref>。折しも[[1860年代]]には[[アメリカ南北戦争]]に伴う[[綿花]]危機が発生しており、綿花の輸入先として中央アジア獲得が重視されるようになっていた事もあって、ゴルチャコフの反対論もむなしく強硬策がとられることとなった。ロシア軍は1860年代に[[コーカンド・ハン国]]、ついで[[ブハラ・ハン国]]を征服した<ref name="田中(1994)235-236">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.235-236</ref><ref name="ウォーンズ(2001)239-240">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.239-240</ref>。さらに[[トルクメンバシ (都市)|クラスノヴォツク]]へ侵攻し、そこを拠点に[[1873年]]には[[ヒヴァ・ハン国]]を征服した<ref name="田中(1994)236">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.236</ref><ref name="ウォーンズ(2001)240">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.240</ref>。[[1880年代]]初頭までには[[トルクメニスタン]]一帯も手中に収め、いよいよ英露両国は[[ガージャール朝|ペルシア王国]]と[[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]]を[[緩衝地帯]]として挟むだけとなり、両国の緊張は高まった<ref name="ウォーンズ(2001)240">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.240</ref>。
{{-}}

==== 千島樺太交換条約 ====
[[1855年]]の[[日露和親条約]]以来、[[江戸幕府]]とも領土交渉にあたっていたが、幕府は[[樺太]]の領有権を主張したため、交渉はまとまらなかった。幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は[[日本人]]、[[ロシア人]]、[[アイヌ人]]の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった<ref name="田中(1994)254-255">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.254-255</ref>。

[[明治維新]]後、こうした状況の緩和のため日本政府は樺太と[[千島列島]]の交換の線で交渉を行い、ロシア側がこれに応じた結果、1875年にゴルチャコフと駐露日本公使[[榎本武揚]]の間で[[樺太・千島交換条約|千島樺太交換条約]]が締結される運びとなった<ref name="田中(1994)255">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.255</ref>。

==== 普仏戦争とパリ条約改正 ====
ロシアがアジア進出に力を入れている間にプロイセンはオーストリアを凌駕してドイツ連邦内の覇権を確立していた。[[1866年]]の[[普墺戦争]]でそれが決定的となった。この戦争でロシアはプロイセンに好意的な中立の立場をとっている<ref name="世界伝記大事典(1980)4,279">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.279</ref>。

普墺戦争の勝利で[[北ドイツ連邦]]を創設したビスマルクは続いてフランスと戦争することでドイツ・[[ナショナリズム]]を煽り、南ドイツ諸国の取り込みを図ろうと狙い、スペイン王位継承問題を利用して[[1870年]]に[[普仏戦争]]へ持ち込んだ。皇帝アレクサンドル2世とゴルチャコフは、パリ条約を改正するチャンスが来たと見て、ビスマルクに「もしオーストリアがフランス側で参戦したならロシアはプロイセンを支援する」という保証を与えた<ref name="ウォーンズ(2001)240">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.240</ref>。普仏戦争はプロイセンの勝利に終わり、フランスは第二帝政が崩壊して[[フランス第三共和政|第三共和政]]へ移行し、一方ドイツでは南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加してプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]を[[ドイツ皇帝|皇帝]]とした[[ドイツ帝国]]が樹立された。

ゴルチャコフはここぞとばかりに「[[ゴルチャコフ回状]]」を出してパリ条約破棄を各国に通告した<ref name="世界伝記大事典(1980)4,279">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.279</ref><ref name="田中(1994)241">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.241</ref>。イギリスがそれに抗議して[[1871年]]にロンドンで国際会議が開かれるも、今やヨーロッパで最も巨大な発言力を持つプロイセン=ドイツがロシアの立場を支持したことでパリ条約の破棄が認められた。こうしてロシアは再び黒海に艦隊を配置することができるようになった。強力なドイツ帝国の誕生はロシアにとっても脅威であったが、こうした経緯やフランスがイデオロギー的に相いれない[[フランス第三共和政|共和政体]]になったこともあって、ロシア皇帝はビスマルクの誘いに乗ってドイツ帝国皇帝、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]皇帝とともに君主政国家の君主の盟約「[[三帝同盟]]」を結ぶこととなった<ref name="ウォーンズ(2001)240">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.240</ref>。

だが同時にロシアはこれ以上のドイツの増強とフランスの弱体化を許すつもりはなかった。それが顕著となったのは『ポスト』紙事件だった。1875年4月8日にドイツ政府系新聞『ポスト』紙がフランスがドイツへの復讐を企んで軍備増強していると説く論説を載せたことでドイツ国内でフランスへの予防戦争を求める世論が強まり、ビスマルクはこれを機にフランスに孤立している事を思い知らせようと企図した<ref>[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.658-659</ref>。しかしフランス外相[[ルイ・ドゥカズ]]の巧みな外交もあってイギリスとロシアはドイツではなくフランスを支持し、ドイツの対仏強硬姿勢を取り下げさせたのである<ref name="飯田(2010)28">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.28</ref><ref name="ガル(1988)659">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.659</ref>。アレクサンドル2世とゴルチャコフは自らベルリンを訪問して独仏関係の調停に乗り出している<ref name="アイク(1999,8)10">[[#アイク(1999,8)|アイク(1999,8)]] p.10</ref>。

この件でゴルチャコフは独仏戦争が回避されたのは自分のおかげと吹聴するようになった。ビスマルクはゴルチャコフの態度が許せず、回顧録に「ゴルチャコフは突然友人の肩の上に背後から飛び乗って、友人を犠牲にしてその肩の上でサーカスを始めた」と書いている<ref name="ガル(1988)659">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.659</ref>。

==== 露土戦争とベルリン会議 ====
[[Image:Berliner kongress.jpg|Right|thumb|250px|[[ベルリン会議_(1878年)|ベルリン会議]](アントン・フォン・ヴェルナー画) 左側に腰掛けているのがゴルチャコフ。イギリス首相[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の手を取っている。]]
[[ファイル:Bulgaria-San Stefano-Berlin 1878.jpg|Right|thumb|250px|太い線で囲まれた範囲が[[サン・ステファノ条約]]による[[大ブルガリア公国]]の領土。しかし[[ベルリン会議_(1878年)|ベルリン会議]]の結果、ブルガリアの領土は北半分に限定され、南半分はトルコ領に留まることとなった。]]
黒海に艦隊を置けるようになったロシアはバルカン半島への影響力を復活させ、ロシア国内では以前から高揚しつつあった[[汎スラヴ主義]]が一層高まりを見せるようになった<ref name="ウォーンズ(2001)242">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.242</ref><ref name="田中(1994)244-245">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.244-245</ref>。バルカン半島は相変わらず[[イスラム教]]国[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]の支配下にあり、キリスト教徒[[スラブ人]]たちは土地所有を認められず、また重い特別税を課されていた<ref name="田中(1994)245">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.245</ref>。こうした弱い立場に置かれるスラブ人同胞たちをトルコから解放しようという運動が汎スラヴ主義であった。また汎スラヴ主義者はバルカン半島に進出の野望を持つオーストリアにも敵意を持ち、三帝同盟にも否定的な立場だった<ref name="ウォーンズ(2001)242">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.242</ref>。

この件については政府内でも意見が分裂し、ゴルチャコフはクリミア戦争の二の舞を避けるため三帝同盟を維持してオーストリアとの連携のうえでトルコに要求を伝えるべきと主張していたが、皇太子アレクサンドル([[アレクサンドル3世]])らはオーストリアと協同する必要はなくトルコにロシアの国益に沿った要求をはっきり伝えるべきであると主張していた<ref name="田中(1994)246">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.246</ref>。

そんな中の[[1876年]]4月にトルコ領[[ブルガリア]]でトルコの支配に対する蜂起が発生し、これに対してトルコは残虐な鎮圧を行った<ref name="ウォーンズ(2001)242"/><ref name="田中(1994)246-247">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.246-247</ref>。続いて7月にはトルコの宗主権下にあるスラブ人自治国[[セルビア公国]]と[[モンテネグロ公国]]が、トルコに対して宣戦布告した<ref name="飯田(2010)49">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.49</ref><ref name="田中(1994)247">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.247</ref>。これによりロシアの汎スラヴ主義も頂点に達し、トルコとの開戦を求める世論が圧倒的となった。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった<ref name="田中(1994)247">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.247</ref>。

一方ゴルチャコフはトルコ領への侵攻はオーストリアと対立を深めることから否定的であり<ref name="ウォーンズ(2001)242">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.242</ref>、国際会議の開催に尽力し<ref name="飯田(2010)49-50">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.49-50</ref>、コンスタンティノープル会議が開催されることとなった。しかし戦況を優位に運んでいたトルコは自国の国力を過大評価し、会議で決められた諸合意を守ろうとしなかったため、結局[[1877年]]4月にロシアはトルコに[[宣戦布告]]することとなった([[露土戦争]])<ref name="田中(1994)248-249">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.248-249</ref>。

一方イギリス政府はロシアの[[地中海]]進出を恐れていたが、国内世論はむしろキリスト教徒を虐殺するトルコに強い憤りを感じており、対ロシアで参戦するのは難しい政治情勢だった。ゴルチャコフは、イギリス参戦を防ぐために尽力し、イギリス首相ビーコンズフィールド伯爵[[ベンジャミン・ディズレーリ]]からの要求を受け入れて[[スエズ運河]]、[[ダーダネルス海峡]]、[[コンスタンティノープル]]を占領しないことを約束した<ref name="モロワ(1960)276-277">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.276-277</ref>。

緒戦は苦戦を強いられたロシア軍だったが、[[1878年]]1月には[[アドリアノープル]]を陥落させた。戦意を喪失したトルコとの間に[[サン・ステファノ条約]]を締結した。これによりトルコはヨーロッパにおける領土を大きく喪失し、戦争中にすでにロシアが解放していた[[ルーマニア王国]]、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]はトルコから独立することになり、またブルガリアからもトルコ軍は撤収することとなり、ロシア軍が駐屯する[[大ブルガリア公国]](形式的にトルコの宗主権下)が樹立され、[[エーゲ海]]にまで届く範囲の領土が設定された<ref name="ウォーンズ(2001)243">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.243</ref><ref name="田中(1994)252">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.252</ref>。また先のクリミア戦争で失った南[[ベッサラビア]]地方はロシア領に復し、加えて[[南コーカサス]]にも領土を獲得した<ref name="ウォーンズ(2001)243"/><ref name="田中(1994)252"/>。

ゴルチャコフの約束通り、スエズ運河、コンスタンティノープル、ダーダネルスは侵されなかったが、大ブルガリア公国の存在は結局ロシアの地中海進出を許すものであったからイギリスは政府も世論も強く反発した<ref name="モロワ(1960)282-283">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.282-283</ref>。またバルカン半島に地歩を築こうとしていたオーストリア=ハンガリーも強く反発した。そこへドイツ宰相ビスマルクがバルカン半島に利害関係のない「公正な仲介者」として登場し、[[1878年]][[6月13日]]より露土戦争の戦後処理会議[[ベルリン会議_(1878年)|ベルリン会議]]を開催した<ref name="ウォーンズ(2001)243">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.243</ref><ref name="久保(1914)60">[[#久保(1914)|久保(1914)]] p.60</ref>。

この会議にロシアからはゴルチャコフと駐英大使{{仮リンク|ピョートル・シュヴァロフ|ru|Шувалов, Пётр Андреевич}}伯爵が出席した<ref name="田中(1994)253">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.253</ref>。ゴルチャコフは華々しい外交成果を上げようとはりきっていたが、先のポスト紙事件以来ゴルチャコフに敵意を持っていたビスマルクからはほとんど無視されたという<ref name="世界伝記大事典(1980)4,279">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.279</ref>。

この会議の結果、大ブルガリア公国は分割され、ブルガリア領は北半分のみに限定された。南部ブルガリアは北部が[[東ルメリ自治州]](トルコ領自治州。トルコ皇帝がキリスト教徒から知事を任命)、それ以外のエーゲ海沿岸地域やマケドニアはトルコ領に復帰した<ref name="田中(1994)253">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.253</ref>。他にロシアが得たものは南ベッサラビア地方と南コーカサスにおける領土だけだった<ref name="ウォーンズ(2001)243">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.243</ref>。一方オーストリア=ハンガリーは[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の占領を認められ、事実上バルカン半島西部を領土と為した<ref name="田中(1994)253">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.253</ref>。イギリスもトルコから[[キプロス島]]の割譲を受けた<ref name="田中(1994)253">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.253</ref>。

ベルリン会議は露土戦争に参加していないイギリスとオーストリア=ハンガリーが漁夫の利を得て、ロシアとトルコには不満が残る形となった<ref name="田中(1994)253">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.253</ref>。ロシアの汎スラヴ主義者の不満は高まり、ドイツ・ビスマルク批判、さらには反ロシア政府運動が増加した<ref name="ウォーンズ(2001)243">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.243</ref><ref name="飯田(2010)89">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.89</ref>。ゴルチャコフは身の保全を図るため、ベルリン会議における失態の責任を親独派のシュヴァロフ一人に押し付けて彼を失脚に追い込んだ<ref name="飯田(2010)90">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.90</ref>。
{{-}}
==== 反独活動 ====
以降ゴルチャコフは反独姿勢をとるようになり、ベルリン会議におけるビスマルクの態度やドイツの[[保護貿易]]への転換をマスコミ上で公然と批判するようになった<ref name="飯田(2010)90">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.90</ref>。[[1879年]]夏には[[パリ]]を訪問して後の[[露仏同盟]]の基礎を作っている<ref name="久保(1914)62">[[#久保(1914)|久保(1914)]] p.62</ref>{{#tag:ref|しかし民主主義の[[フランス第三共和政]]は皇帝暗殺を企んだ[[ナロードニキ]]の身柄引き渡しを拒否したため、この時点での露仏同盟はならなかった<ref name="久保(1914)62">[[#久保(1914)|久保(1914)]] p.62</ref>。|group=注釈}}。

ビスマルクも対抗してマスコミ上でゴルチャコフ批判を展開した<ref name="飯田(2010)91">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.91</ref>。さらにロシアに対する圧力を強めるべく、[[ペスト]]対策を理由にロシア商品の輸入を禁止し、独墺関係の強化を図り、また[[ルーマニア]]独立の条件にロシアが嫌がる[[ユダヤ人]]解放を要求した<ref name="飯田(2010)92-97">[[#飯田(2010)|飯田(2010)]] p.92-97</ref>。

アレクサンドル2世はこれを憂慮し、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]に宛てて「ドイツ宰相はゴルチャコフ公爵に対する個人的な反感に突き動かされて両国間の対立を煽っている。」とする書簡を送っている<ref name="ガル(1988)769">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.769</ref><ref name="アイク(1999,8)90">[[#アイク(1999,8)|アイク(1999,8)]] p.90</ref>。

しかしゴルチャコフは健康状態を理由に1879年から外国に滞在する事が多くなり<ref name="世界伝記大事典(1980)4,279">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.279</ref>、サンクト・ペテルブルクを訪れることはほとんどなくなっており、その地位も形式的なものとなりつつあった<ref name="アイク(1999,8)87">[[#アイク(1999,8)|アイク(1999,8)]] p.87</ref>。後にゴルチャコフの後任の外相となる[[ニコライ・ギールス]]が事実上その職務を代行している状態だった<ref name="田中(1994)299">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.299</ref>。

[[1881年]][[3月1日]]に皇帝アレクサンドル2世がテロリストの襲撃を受けて暗殺された<ref name="ウォーンズ(2001)245">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.245</ref>。後を受けて即位した[[アレクサンドル3世]]は反独的な思想の持ち主だったが、国内問題に集中するためにもドイツとの関係を修復せねばならないと考えており、即位後ただちに三帝同盟を復活させた<ref name="ウォーンズ(2001)251">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.251</ref>。

反独派のゴルチャコフはアレクサンドル3世に退けられ<ref name="久保(1914)62-63">[[#久保(1914)|久保(1914)]] p.62-63</ref>、1882年4月9日をもって外相を退任することとなった<ref name="秦(2001)427"/>。後任には1875年からゴルチャコフを補佐してきた親独派の[[ニコライ・ギールス]]が任じられた<ref name="ウォーンズ(2001)243">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.243</ref>。

=== 死去 ===
[[File:GorchakovM.A.jpg|Right|thumb|200px|[[サンクト・ペテルブルク]]にあるゴルチャコフの胸像。]]
ドイツ帝国[[領邦]][[バーデン大公国]]首都[[バーデン=バーデン]]に滞在中の1883年2月27日に死去した。遺体はロシアに戻され、ペテルブルクで葬られた<ref name="世界伝記大事典(1980)4,279">[[#世界伝記大事典(1980)4|世界伝記大事典(1980)第4巻]] p.279</ref>。

== 人物 ==
ゴルチャコフは保守的な[[絶対主義]]者であり、[[ツァーリズム|ツァーリ独裁]]に忠実で、[[ツァーリ]]が決定したこと以外の政治的立場をとることはなかった<ref name="エンゲルベルク(1996)437">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.437</ref>。

ただ遅かれ早かれ、絶対主義は自由主義・民主主義によって打倒されてしまうものであり、また現代においては国際的にも孤立してしまう道であるとも理解していた。そのため権力はどこまでもツァーリに残しつつも、[[ブルジョワ]]と和解して[[封建主義|封建]]的諸制度の撤廃を図ることが重要だと考えていた<ref name="エンゲルベルク(1996)437">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.437</ref>。その点においては[[ドイツ帝国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]と似通っており、ビスマルクもゴルチャコフについて「彼は自由主義的進歩に興味を持っているが、大衆とは違って節度を心得ており、可能なこと、利益になることの見極めの知識が豊富だ」と評価したことがあった<ref name="エンゲルベルク(1996)437">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.437</ref>。

一方ロシア国内においても外国においても彼がよく陰口されたのはその虚栄心の強さであった<ref name="エンゲルベルク(1996)436">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.436</ref><ref name="ガル(1988)653">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.653</ref>。ゴルチャコフについて触れた外交通信文にもそのことがよく言及されていた<ref name="エンゲルベルク(1996)436"/>。ビスマルクはゴルチャコフの虚栄心について「彼はどんな水たまりを跨ぐ際にも、自分の姿を映して眺める」と評した<ref name="ガル(1988)653"/>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[小崎順]]|date=1999年(平成11年)|title=ビスマルク伝 8|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831508867|ref=アイク(1999,8)}}
*{{Cite book|和書|author=[[飯田洋介]]|date=2010年(平成22年)|title=ビスマルクと大英帝国―伝統的外交手法の可能性と限界|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4326200504|ref=飯田(2010)}}
*{{Cite book|和書|author=デヴィッド・ウォーンズ|date=2001年(平成13年)|title=ロシア皇帝歴代誌|translator=[[月森左知]]|publisher=創元社|isbn=978-4422215167|ref=ウォーンズ(2001)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロタール・ガル|de|Lothar Gall}}|translator=[[大内宏一]]|date=1988年(昭和63年)|title=ビスマルク <small>白色革命家</small>|publisher=[[創文社]]|isbn=978-4423460375|ref=ガル(1988)}}
*{{Cite book|和書|author=[[久保天随]]|date =1914年(大正3年)|title=鉄血宰相ビスマルク|series=偉人叢書|url=http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=43004590|publisher=[[鍾美堂]]|ref=久保(1914)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[田中陽児]]、[[倉持俊一]]、[[和田春樹]]編|date=1994年(平成6年)|title=ロシア史〈2〉18~19世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460706|ref=田中(1994)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[アンドレ・モーロワ|アンドレ・モロワ]]|date=1960年(昭和35年)|title=ディズレーリ伝|translator=[[安東次男]]|publisher=[[東京創元社]]|asin=B000JAOYH6|ref=モロワ(1960)}}
*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典 世界編 4巻 クル-シエ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCOA|ref=世界伝記大事典(1980)4}}
*[http://www.prlib.ru/en-us/history/Pages/Item.aspx?itemid=455 エリツィン大統領図書館公式サイトのゴルチャコフの略歴]([[ロシア語]]・[[英語]])
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Alexander Mikhailovich Gorchakov}}
*[[アレクサンドル2世]]
*[[オットー・フォン・ビスマルク]]
*[[ベルリン会議]]
*[[樺太・千島交換条約]]
{{先代次代|[[ロシアの外相|ロシア帝国外務大臣]]|[[1856年]]–[[1882年]]|[[カール・ロベルト・ネッセルローデ|ネッセルローデ]]|[[ニコライ・ギールス]]}}
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[[uk:Горчаков Олександр Михайлович]]

2012年8月20日 (月) 00:45時点における版

アレクサンドル・ゴルチャコフ
Александр Горчаков
1876年のゴルチャコフの肖像画
エルミタージュ美術館所蔵
生年月日 1798年6月4日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
エストニア行政区ハープサル
没年月日 (1883-02-27) 1883年2月27日(84歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ帝国
バーデン大公国
バーデン=バーデン
出身校 ツァールスコエ・セロー・リツェイ
前職 外交官
称号 公爵(Князь)
サイン

在任期間 1856年4月27日[1] - 1882年4月9日[1]
皇帝 アレクサンドル2世
アレクサンドル3世
テンプレートを表示

アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフАлександр Михайлович ГорчаковAlexander Mikhailovich Gorchako1798年6月4日 - 1883年2月27日)は、帝政ロシア政治家外交官貴族

皇帝アレクサンドル2世の下で外務大臣(在職1856年-1882年)を務めた。爵位は公爵(Князь)。

概要

ロシア帝国エストニアに名門貴族の軍人の息子として生まれる。1817年からロシア外務省に入省して外交官となる。ロンドンベルリンウィーンなどのロシア大使館で勤務した後、1850年から1854年にかけてドイツ連邦議会にロシア全権大使として参加した。クリミア戦争中の1854年から1856年にかけては駐オーストリア大使を務めた。

クリミア戦争直後の1856年に皇帝アレクサンドル2世より外相に任命され、以降アレクサンドル2世の在位中を通じて外相に在職した。クリミア戦争の敗北で結ばされたパリ条約の黒海における艦隊保有禁止条項の撤廃を目指し、ロシアと対立関係にあるイギリスオーストリア帝国を牽制するため、皇帝ナポレオン3世フランス帝国に接近を図った。しかしナポレオン3世は1863年のロシア領ポーランドにおけるポーランド人の蜂起を支援したことから露仏関係は疎遠となった。代わりに宰相オットー・フォン・ビスマルクが指導するプロイセン王国との連携を深めていった。1871年普仏戦争でプロイセンが勝利したことで、パリ条約撤廃にこぎつけた。

これによりロシアは再び黒海において軍事活動ができるようになった。折しもロシア国内で汎スラブ主義が高まりを見せる中の1876年オスマン=トルコ帝国バルカン半島においてスラブ人が蜂起すると、ロシア軍はそれを支援すべく露土戦争に及んだ。戦争に勝利したロシアはトルコにサン・ステファノ条約を結ばせ、バルカン半島に衛星国大ブルガリア公国を樹立したが、この条約はイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国の反発を招いた。利害関係調整のためドイツ帝国宰相ビスマルクの主導でベルリン会議が開催され、ゴルチャコフも出席したが、会議の結果大ブルガリア公国は分割され、ロシアは露土戦争で得たバルカン半島の地歩を大きく失った。ゴルチャコフにとっては大きな外交的失態となった。

その後は反独・反ビスマルク姿勢を強め、フランス共和国への接近を図ったが、1881年にアレクサンドル2世が崩御し、ドイツとの関係改善を志向するアレクサンドル3世が即位すると疎んじられるようになり、1882年に外相を辞することとなった。

生涯

生い立ち

学生時代のゴルチャコフを描いた学友プーシキンのスケッチ

1798年6月4日、ロシア帝国エストニア行政区ロシア語版ハープサルミハイル・アレクセーエヴィチ・ゴルチャコフロシア語版公爵少将の息子として生まれる[2]

ロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクギムナージヤで学んだ後、1811年にツァールスコエ・セローリツェイ[注釈 1]に入学した[2]

この学校での同級生に詩人アレクサンドル・プーシキンがいる[2][6]。彼との交友を通じて自由主義的な影響を受け、啓蒙絶対主義に感銘を受けるようになったという[6]

外交官

中年期のゴルチャコフ

1817年ロシア外務省に入省し、外交官となった[2][5]1820年から1822年にかけてはトロッパウライバッハヴェローナ(いずれも当時オーストリア帝国領)で開催された神聖同盟[注釈 2]の会議に参加した[2]1824年から駐ロンドン大使館に一等書記官として勤務し、1827年には駐ローマ大使館に転勤となり、更にその後ベルリンやウィーンの大使館にも勤務した[2]

1841年に駐シュトゥットガルトヴュルテンベルク王国)公使に任じられる[2]1850年には1848年革命で中断されていたドイツ連邦議会ドイツ連邦諸国の代表の会議)が自由都市フランクフルト・アム・マインで再開されたが、ドイツ連邦内の二大国プロイセン王国オーストリア帝国の対立が深まるばかりであった。法律上ドイツ連邦の保証者であったロシア皇帝ニコライ1世は、神聖同盟の崩壊を防ぐため、ゴルチャコフを駐シュトゥットガルト公使在任のまま、ドイツ連邦議会ロシア全権大使に任じて、普墺両国の関係を取り結ぶことを命じた[7]

フランクフルトに着任したゴルチャコフは、神聖同盟を意に介さず、オーストリアへの強硬姿勢を崩さないドイツ連邦議会プロイセン全権公使オットー・フォン・ビスマルク(後のプロイセン宰相)に対して「もし貴方のせいで普墺関係に亀裂が入ったら貴方はプロイセン保守派の政治家として人望を失うのではないか」と警告した。ビスマルクはゴルチャコフの保守的な説教にうんざりし、「G(ゴルチャコフ)は儀式ばった不器用な馬鹿のハンスに過ぎない。ずる賢いつもりのようだが、木靴をはいた狐である」とこき下ろしている[7]

1853年にはオスマン=トルコ帝国領パレスチナのカトリック(フランスが保護権を主張)と正教会(ロシアが保護権を主張)の権益の対立にはじまり、東地中海の覇権をめぐってイギリス・フランス・トルコ陣営とロシアが開戦した(クリミア戦争[8]バルカン半島進出のチャンスを窺うオーストリア帝国が英仏側での参戦をちらつかせてバルカン半島からの撤兵をロシアに要求し、ニコライ1世はオーストリアに怒りを感じながらもオーストリア参戦を阻止するため応じざるを得なかった[9]

こうした難しい時期の1854年にゴルチャコフは駐オーストリア大使に任じられ、1856年までウィーンに派遣された[2][10]。しかし結局オーストリア参戦を阻止できず、オーストリアは1855年12月に英仏側での参戦を宣言した[11]。神聖同盟の崩壊を目の当たりにしたゴルチャコフは、もはや絶対主義に固執するだけではダメであり、絶対主義に近代化の要素を加える必要があるということを改めて感じたという[6]

1855年に即位した皇帝アレクサンドル2世は戦争継続の意思を失い、ナポレオン3世の提案に応じてパリ条約を結んだ。これによってロシアは南ベッサラビア地方を喪失し、黒海における艦隊の保有を禁止された[11]

外相

1867年のゴルチャコフの肖像画(ヨハン・ケーラーロシア語版画)

1856年4月27日、皇帝アレクサンドル2世により外務大臣に任じられた。以降25年にわたってロシア外相としてロシア外交を主導した[2]

フランス、プロイセンとの連携

ゴルチャコフの当面の目標はクリミア戦争の敗北で結ばされたパリ条約(特に黒海における艦隊保有禁止)を破棄することであった[5][11]

そのために彼はロシアの立場を支持する協力国を欲したが、イギリスとは中央アジアをめぐる対立が根深く、またオーストリアともバルカン半島の利権をめぐって対立が深まっていた。プロイセン王国は、ドイツ連邦内のオーストリアと覇権争いをしていたが、当時のプロイセンは同盟相手としては力不足と看做されていた。そこで当初ゴルチャコフが目を付けた連携相手はイタリア統一問題をめぐってオーストリアと対立を深めているナポレオン3世フランス帝国であった[12]1859年イタリア統一戦争にロシアはフランス支持の立場を取った[13][14]

露仏関係はこの1859年に最も強化されたといえるが、1863年ロシア領ポーランドにおいてロシアの支配に抗するポーランド人の反乱(1月蜂起)が発生すると、「民族運動の保護者」を自負していたナポレオン3世は蜂起に共感を示し、イギリスやオーストリアとともに反露的立場を取った。そのためゴルチャコフの期待に反して露仏関係は急速に悪化した[15]

逆にプロイセン宰相ビスマルクはプロイセン領ポーランドへの波及阻止の観点からロシアに接近を図ってきた。結局ロシアはプロイセンとのみ連携を深めることとなった[13][16]

アジア進出

1873年、ヒヴァ・ハン国へ侵攻するロシア軍を描いた絵画

1858年との間にアイグン条約を結んでアムール川左岸を割譲させた。ついでアロー戦争で英仏が清に結ばせた北京条約1860年)にロシアも参加することで、ロシアは更にウスリー川右岸を手に入れた[17][18]。これによりハバロフスクウラジオストクが建設された[19]

しかし英仏はロシアが極東を征服することで太平洋に進出してくることを警戒していた。これに対してゴルチャコフはこの地域におけるロシアの孤立を阻止すべく、太平洋上に強い影響力を持つアメリカ合衆国と接近し、1867年にはアラスカ720万ドルでアメリカに売却している[19]

またロシアはインドを支配するイギリスを睨んで中央アジアに積極的な進出を図り、しばしば軍事侵攻も行った。ゴルチャコフはイギリスとの対立を恐れ、そうした強硬策には慎重な立場をとっていたが、軍務大臣ドミトリー・ミリューチンはイギリスとの対立を恐れず、中央アジアを完全な支配下に置く事を主張していた[20]。折しも1860年代にはアメリカ南北戦争に伴う綿花危機が発生しており、綿花の輸入先として中央アジア獲得が重視されるようになっていた事もあって、ゴルチャコフの反対論もむなしく強硬策がとられることとなった。ロシア軍は1860年代にコーカンド・ハン国、ついでブハラ・ハン国を征服した[21][22]。さらにクラスノヴォツクへ侵攻し、そこを拠点に1873年にはヒヴァ・ハン国を征服した[23][24]1880年代初頭までにはトルクメニスタン一帯も手中に収め、いよいよ英露両国はペルシア王国アフガニスタン王国緩衝地帯として挟むだけとなり、両国の緊張は高まった[24]

千島樺太交換条約

1855年日露和親条約以来、江戸幕府とも領土交渉にあたっていたが、幕府は樺太の領有権を主張したため、交渉はまとまらなかった。幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は日本人ロシア人アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった[25]

明治維新後、こうした状況の緩和のため日本政府は樺太と千島列島の交換の線で交渉を行い、ロシア側がこれに応じた結果、1875年にゴルチャコフと駐露日本公使榎本武揚の間で千島樺太交換条約が締結される運びとなった[26]

普仏戦争とパリ条約改正

ロシアがアジア進出に力を入れている間にプロイセンはオーストリアを凌駕してドイツ連邦内の覇権を確立していた。1866年普墺戦争でそれが決定的となった。この戦争でロシアはプロイセンに好意的な中立の立場をとっている[27]

普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を創設したビスマルクは続いてフランスと戦争することでドイツ・ナショナリズムを煽り、南ドイツ諸国の取り込みを図ろうと狙い、スペイン王位継承問題を利用して1870年普仏戦争へ持ち込んだ。皇帝アレクサンドル2世とゴルチャコフは、パリ条約を改正するチャンスが来たと見て、ビスマルクに「もしオーストリアがフランス側で参戦したならロシアはプロイセンを支援する」という保証を与えた[24]。普仏戦争はプロイセンの勝利に終わり、フランスは第二帝政が崩壊して第三共和政へ移行し、一方ドイツでは南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加してプロイセン王ヴィルヘルム1世皇帝としたドイツ帝国が樹立された。

ゴルチャコフはここぞとばかりに「ゴルチャコフ回状」を出してパリ条約破棄を各国に通告した[27][28]。イギリスがそれに抗議して1871年にロンドンで国際会議が開かれるも、今やヨーロッパで最も巨大な発言力を持つプロイセン=ドイツがロシアの立場を支持したことでパリ条約の破棄が認められた。こうしてロシアは再び黒海に艦隊を配置することができるようになった。強力なドイツ帝国の誕生はロシアにとっても脅威であったが、こうした経緯やフランスがイデオロギー的に相いれない共和政体になったこともあって、ロシア皇帝はビスマルクの誘いに乗ってドイツ帝国皇帝、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝とともに君主政国家の君主の盟約「三帝同盟」を結ぶこととなった[24]

だが同時にロシアはこれ以上のドイツの増強とフランスの弱体化を許すつもりはなかった。それが顕著となったのは『ポスト』紙事件だった。1875年4月8日にドイツ政府系新聞『ポスト』紙がフランスがドイツへの復讐を企んで軍備増強していると説く論説を載せたことでドイツ国内でフランスへの予防戦争を求める世論が強まり、ビスマルクはこれを機にフランスに孤立している事を思い知らせようと企図した[29]。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交もあってイギリスとロシアはドイツではなくフランスを支持し、ドイツの対仏強硬姿勢を取り下げさせたのである[30][31]。アレクサンドル2世とゴルチャコフは自らベルリンを訪問して独仏関係の調停に乗り出している[32]

この件でゴルチャコフは独仏戦争が回避されたのは自分のおかげと吹聴するようになった。ビスマルクはゴルチャコフの態度が許せず、回顧録に「ゴルチャコフは突然友人の肩の上に背後から飛び乗って、友人を犠牲にしてその肩の上でサーカスを始めた」と書いている[31]

露土戦争とベルリン会議

ベルリン会議(アントン・フォン・ヴェルナー画) 左側に腰掛けているのがゴルチャコフ。イギリス首相ディズレーリの手を取っている。
太い線で囲まれた範囲がサン・ステファノ条約による大ブルガリア公国の領土。しかしベルリン会議の結果、ブルガリアの領土は北半分に限定され、南半分はトルコ領に留まることとなった。

黒海に艦隊を置けるようになったロシアはバルカン半島への影響力を復活させ、ロシア国内では以前から高揚しつつあった汎スラヴ主義が一層高まりを見せるようになった[33][34]。バルカン半島は相変わらずイスラム教オスマン=トルコ帝国の支配下にあり、キリスト教徒スラブ人たちは土地所有を認められず、また重い特別税を課されていた[35]。こうした弱い立場に置かれるスラブ人同胞たちをトルコから解放しようという運動が汎スラヴ主義であった。また汎スラヴ主義者はバルカン半島に進出の野望を持つオーストリアにも敵意を持ち、三帝同盟にも否定的な立場だった[33]

この件については政府内でも意見が分裂し、ゴルチャコフはクリミア戦争の二の舞を避けるため三帝同盟を維持してオーストリアとの連携のうえでトルコに要求を伝えるべきと主張していたが、皇太子アレクサンドル(アレクサンドル3世)らはオーストリアと協同する必要はなくトルコにロシアの国益に沿った要求をはっきり伝えるべきであると主張していた[36]

そんな中の1876年4月にトルコ領ブルガリアでトルコの支配に対する蜂起が発生し、これに対してトルコは残虐な鎮圧を行った[33][37]。続いて7月にはトルコの宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国モンテネグロ公国が、トルコに対して宣戦布告した[38][39]。これによりロシアの汎スラヴ主義も頂点に達し、トルコとの開戦を求める世論が圧倒的となった。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった[39]

一方ゴルチャコフはトルコ領への侵攻はオーストリアと対立を深めることから否定的であり[33]、国際会議の開催に尽力し[40]、コンスタンティノープル会議が開催されることとなった。しかし戦況を優位に運んでいたトルコは自国の国力を過大評価し、会議で決められた諸合意を守ろうとしなかったため、結局1877年4月にロシアはトルコに宣戦布告することとなった(露土戦争[41]

一方イギリス政府はロシアの地中海進出を恐れていたが、国内世論はむしろキリスト教徒を虐殺するトルコに強い憤りを感じており、対ロシアで参戦するのは難しい政治情勢だった。ゴルチャコフは、イギリス参戦を防ぐために尽力し、イギリス首相ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリからの要求を受け入れてスエズ運河ダーダネルス海峡コンスタンティノープルを占領しないことを約束した[42]

緒戦は苦戦を強いられたロシア軍だったが、1878年1月にはアドリアノープルを陥落させた。戦意を喪失したトルコとの間にサン・ステファノ条約を締結した。これによりトルコはヨーロッパにおける領土を大きく喪失し、戦争中にすでにロシアが解放していたルーマニア王国セルビア王国モンテネグロ公国はトルコから独立することになり、またブルガリアからもトルコ軍は撤収することとなり、ロシア軍が駐屯する大ブルガリア公国(形式的にトルコの宗主権下)が樹立され、エーゲ海にまで届く範囲の領土が設定された[43][44]。また先のクリミア戦争で失った南ベッサラビア地方はロシア領に復し、加えて南コーカサスにも領土を獲得した[43][44]

ゴルチャコフの約束通り、スエズ運河、コンスタンティノープル、ダーダネルスは侵されなかったが、大ブルガリア公国の存在は結局ロシアの地中海進出を許すものであったからイギリスは政府も世論も強く反発した[45]。またバルカン半島に地歩を築こうとしていたオーストリア=ハンガリーも強く反発した。そこへドイツ宰相ビスマルクがバルカン半島に利害関係のない「公正な仲介者」として登場し、1878年6月13日より露土戦争の戦後処理会議ベルリン会議を開催した[43][46]

この会議にロシアからはゴルチャコフと駐英大使ピョートル・シュヴァロフロシア語版伯爵が出席した[47]。ゴルチャコフは華々しい外交成果を上げようとはりきっていたが、先のポスト紙事件以来ゴルチャコフに敵意を持っていたビスマルクからはほとんど無視されたという[27]

この会議の結果、大ブルガリア公国は分割され、ブルガリア領は北半分のみに限定された。南部ブルガリアは北部が東ルメリ自治州(トルコ領自治州。トルコ皇帝がキリスト教徒から知事を任命)、それ以外のエーゲ海沿岸地域やマケドニアはトルコ領に復帰した[47]。他にロシアが得たものは南ベッサラビア地方と南コーカサスにおける領土だけだった[43]。一方オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの占領を認められ、事実上バルカン半島西部を領土と為した[47]。イギリスもトルコからキプロス島の割譲を受けた[47]

ベルリン会議は露土戦争に参加していないイギリスとオーストリア=ハンガリーが漁夫の利を得て、ロシアとトルコには不満が残る形となった[47]。ロシアの汎スラヴ主義者の不満は高まり、ドイツ・ビスマルク批判、さらには反ロシア政府運動が増加した[43][48]。ゴルチャコフは身の保全を図るため、ベルリン会議における失態の責任を親独派のシュヴァロフ一人に押し付けて彼を失脚に追い込んだ[49]

反独活動

以降ゴルチャコフは反独姿勢をとるようになり、ベルリン会議におけるビスマルクの態度やドイツの保護貿易への転換をマスコミ上で公然と批判するようになった[49]1879年夏にはパリを訪問して後の露仏同盟の基礎を作っている[50][注釈 3]

ビスマルクも対抗してマスコミ上でゴルチャコフ批判を展開した[51]。さらにロシアに対する圧力を強めるべく、ペスト対策を理由にロシア商品の輸入を禁止し、独墺関係の強化を図り、またルーマニア独立の条件にロシアが嫌がるユダヤ人解放を要求した[52]

アレクサンドル2世はこれを憂慮し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に宛てて「ドイツ宰相はゴルチャコフ公爵に対する個人的な反感に突き動かされて両国間の対立を煽っている。」とする書簡を送っている[53][54]

しかしゴルチャコフは健康状態を理由に1879年から外国に滞在する事が多くなり[27]、サンクト・ペテルブルクを訪れることはほとんどなくなっており、その地位も形式的なものとなりつつあった[55]。後にゴルチャコフの後任の外相となるニコライ・ギールスが事実上その職務を代行している状態だった[56]

1881年3月1日に皇帝アレクサンドル2世がテロリストの襲撃を受けて暗殺された[57]。後を受けて即位したアレクサンドル3世は反独的な思想の持ち主だったが、国内問題に集中するためにもドイツとの関係を修復せねばならないと考えており、即位後ただちに三帝同盟を復活させた[58]

反独派のゴルチャコフはアレクサンドル3世に退けられ[59]、1882年4月9日をもって外相を退任することとなった[1]。後任には1875年からゴルチャコフを補佐してきた親独派のニコライ・ギールスが任じられた[43]

死去

サンクト・ペテルブルクにあるゴルチャコフの胸像。

ドイツ帝国領邦バーデン大公国首都バーデン=バーデンに滞在中の1883年2月27日に死去した。遺体はロシアに戻され、ペテルブルクで葬られた[27]

人物

ゴルチャコフは保守的な絶対主義者であり、ツァーリ独裁に忠実で、ツァーリが決定したこと以外の政治的立場をとることはなかった[6]

ただ遅かれ早かれ、絶対主義は自由主義・民主主義によって打倒されてしまうものであり、また現代においては国際的にも孤立してしまう道であるとも理解していた。そのため権力はどこまでもツァーリに残しつつも、ブルジョワと和解して封建的諸制度の撤廃を図ることが重要だと考えていた[6]。その点においてはドイツ帝国宰相ビスマルクと似通っており、ビスマルクもゴルチャコフについて「彼は自由主義的進歩に興味を持っているが、大衆とは違って節度を心得ており、可能なこと、利益になることの見極めの知識が豊富だ」と評価したことがあった[6]

一方ロシア国内においても外国においても彼がよく陰口されたのはその虚栄心の強さであった[10][60]。ゴルチャコフについて触れた外交通信文にもそのことがよく言及されていた[10]。ビスマルクはゴルチャコフの虚栄心について「彼はどんな水たまりを跨ぐ際にも、自分の姿を映して眺める」と評した[60]

脚注

注釈

  1. ^ リツェイとはロシア皇帝アレクサンドル1世が貴族の子弟の教育のために創設した内務省ロシア語版管轄下の学校である[3]。ロシアの貴族は19世紀前期頃まで大学ではなくリツェイか陸軍幼年学校で学ぶのが一般的であった[4]。ゴルチャコフが入学したツァールスコエ・セロー・リツェイは、アレクサンドル1世がツァールスコエ・セローの離宮の中に創設したリツェイである[5]
  2. ^ ロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国による君主政体の擁護を目的とした同盟関係。ウィーン体制を為すヨーロッパ国際関係の一つ。
  3. ^ しかし民主主義のフランス第三共和政は皇帝暗殺を企んだナロードニキの身柄引き渡しを拒否したため、この時点での露仏同盟はならなかった[50]

出典

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  2. ^ a b c d e f g h i エリツィン大統領図書館公式サイト
  3. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.154
  4. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.119
  5. ^ a b c 世界伝記大事典(1980)第4巻 p.278
  6. ^ a b c d e f エンゲルベルク(1996) p.437
  7. ^ a b エンゲルベルク(1996) p.369
  8. ^ ウォーンズ(2001) p.228-229
  9. ^ ウォーンズ(2001) p.229
  10. ^ a b c エンゲルベルク(1996) p.436
  11. ^ a b c ウォーンズ(2001) p.231
  12. ^ ウォーンズ(2001) p.237-238
  13. ^ a b ウォーンズ(2001) p.238
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  15. ^ エンゲルベルク(1996) p.511
  16. ^ 世界伝記大事典(1980)第4巻 p.278-279
  17. ^ ウォーンズ(2001) p.238-239
  18. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.254
  19. ^ a b ウォーンズ(2001) p.239
  20. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.244
  21. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.235-236
  22. ^ ウォーンズ(2001) p.239-240
  23. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.236
  24. ^ a b c d ウォーンズ(2001) p.240
  25. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.254-255
  26. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.255
  27. ^ a b c d e 世界伝記大事典(1980)第4巻 p.279
  28. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.241
  29. ^ ガル(1988) p.658-659
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  35. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.245
  36. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.246
  37. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.246-247
  38. ^ 飯田(2010) p.49
  39. ^ a b 田中・倉持・和田(1994) p.247
  40. ^ 飯田(2010) p.49-50
  41. ^ 田中・倉持・和田(1994) p.248-249
  42. ^ モロワ(1960) p.276-277
  43. ^ a b c d e f ウォーンズ(2001) p.243
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  54. ^ アイク(1999,8) p.90
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  58. ^ ウォーンズ(2001) p.251
  59. ^ 久保(1914) p.62-63
  60. ^ a b ガル(1988) p.653

参考文献

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  • 飯田洋介『ビスマルクと大英帝国―伝統的外交手法の可能性と限界』勁草書房、2010年(平成22年)。ISBN 978-4326200504 
  • デヴィッド・ウォーンズ 著、月森左知 訳『ロシア皇帝歴代誌』創元社、2001年(平成13年)。ISBN 978-4422215167 
  • エルンスト・エンゲルベルクドイツ語版 著、野村美紀子 訳『ビスマルク 生粋のプロイセン人・帝国創建の父海鳴社、1996年(平成8年)。ISBN 978-4875251705 
  • ロタール・ガルドイツ語版 著、大内宏一 訳『ビスマルク 白色革命家創文社、1988年(昭和63年)。ISBN 978-4423460375 
  • 久保天随鉄血宰相ビスマルク鍾美堂〈偉人叢書〉、1914年(大正3年)http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=43004590 
  • 田中陽児倉持俊一和田春樹編 編『ロシア史〈2〉18~19世紀』山川出版社〈世界歴史大系〉、1994年(平成6年)。ISBN 978-4634460706 
  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 
  • アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳『ディズレーリ伝』東京創元社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAOYH6 
  • 『世界伝記大事典 世界編 4巻 クル-シエ』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7XCOA 
  • エリツィン大統領図書館公式サイトのゴルチャコフの略歴ロシア語英語

関連項目

先代
ネッセルローデ
ロシア帝国外務大臣
1856年1882年
次代
ニコライ・ギールス