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この3つはそれぞれ後に'''[[東京慈恵会医科大学]]'''、'''[[東京慈恵会医科大学附属病院]]'''、'''[[慈恵看護専門学校]]'''となり現在に至っている。
この3つはそれぞれ後に'''[[東京慈恵会医科大学]]'''、'''[[東京慈恵会医科大学附属病院]]'''、'''[[慈恵看護専門学校]]'''となり現在に至っている。


== 脚気論争 ==
== 兵食改革と脚気論争 ==
当時軍隊内部で流行していた[[脚気]]について海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決にとりくみ、'''海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気発生率が'''{{和暦|1883}}23.1%、{{和暦|1884}}12.7%、{{和暦|1885}}以降1%未満と'''激減した'''(詳細は「[[日本の脚気史#高木兼寛の先覚的業績とその限界|日本の脚気史]]」を参照のこと)。
当時軍隊内部で流行していた[[脚気]]について、高木は海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決に取り組み、ビタミンの先覚的な業績を挙げた<ref>この項目の第一段落は、山下(2008)、27-44頁。</ref>。高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が囚人と[[下士官]]兵に多く[[士官]]に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多少は、食物の違い、具体的には[[たんぱく質]]と[[炭水化物]]の割合に関係していることを発見した。その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多くすれば脚気を予防できると自信をもったという。その後、紆余曲折をへて{{和暦|1884}}1月15日、[[海軍省#歴代幹部|海軍卿]]名で、金給制度(当時、現金支給は食費の節約による粗食をまねいていた)が一部見直され、洋食への切りかえがはかられた(標準指定金給時代1884-1889年)<ref>標準指定金給のポイントは、下士官以下の食料について定則の金額で現品を購入して給与すること、もう一つは食品の種類が規定されたことである。</ref>。同年2月3日、海軍の練習艦[[筑波 (コルベット)|筑波艦]]は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験をかねて[[品川]]沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり、'''高木の主張が実証された'''結果となった。しかし、高木の思いに反し、下士官兵にパンが極めて不評であったため、翌{{和暦|1885}}3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。ただし、「銀めし」「銀しゃり」という俗語のある白米飯に比べ、麦飯も不評であり、後年、麦の割合が2割5分にまで低下し、海軍で脚気が増加する一因となった。{{和暦|1890}}2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され([[1945年]]まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ないし麦飯)の混用となった<ref>「海軍糧食条例」が公布された[[1890年]]と[[1924年]]について海軍航海食の一日量を比較すると、乾パンが半減(100匁→45匁)したのに対し、白米が倍増(50匁(ただし週6日の給与)→90匁)した。山下(2008)、442頁。</ref>


しかし、高木の脚気原因説([[タンパク質|たんぱく質]]の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、原因不明の死病(脚気)の原因を確定するには、根拠が少なすぎ、医学論理が粗雑すぎた。このため、[[東京大学]]医学部から次々に批判された。とくに[[大沢謙二]](東京大学生理学教授)の消化吸収試験結果により、食品分析表に依拠した'''高木の脚気原因説は、机上の空論にすぎず、誤説であることが明らかにされた'''。その実験成績にづく正論には、高木も反論できず、海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果をいくつか公表して沈黙した。一般医界も高木の脚気原因麦飯優秀説へ反対が多く、国内で賛同をるどころか、四面楚歌のような状況におちいったとおり日清戦争とその後の台湾平定戦で、陸軍の脚気患者が急増したことを受け、某海軍軍医が陸軍を批判したものの、学問上の疑問点を挙げて反論されると、その海軍軍医も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)<ref>山下は、'''「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはない。核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」と、ビタミンの存在を知っている後世からビタミンを知らなかった前世に対し、安易な批判をしないよう指摘'''した。山下(2008)、471-472頁。</ref>。
{{和暦|1885}}3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし、高木の脚気原因説([[タンパク質|たんぱく質]]の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、原因不明の死病(脚気)の原因を確定するには、根拠が少なすぎ、医学論理が粗雑すぎた。このため、東京大学[[医学部]]から次々に批判された。とくに同年7月の[[大沢謙二]](東京大学生理学教授)による反論一部、消化吸収試験結果により、食品分析表に依拠した'''高木の脚気原因説は、机上の空論にすぎず、誤説であることが明らかにされた'''。その実験成績にもとづく正論には、高木も反論できず、海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。のちに高木が「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁<small>(はんばく)</small>の声であった」と述懐したとおり、高木説への反対ばかりであった。一般医界同様であった。というは、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」いった根本的な疑問がもたれたからである。さらに高木が優秀とした麦飯不消化性もその疑問をつよめさせた。このように高木は、([[海軍省#医務局|海軍軍医部]]をのぞくと)国内で賛同をるどころか、四面楚歌のような状況におちいった(高木の再評価は[[日露戦争]])。そ後、[[日清戦争]]とその後の台湾平定戦で、陸軍の脚気患者が急増したことを受け、某海軍軍医が陸軍を批判したものの、学問上の疑問点を挙げて反論されると、その海軍軍医も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)<ref>山下は、'''「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはない。核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」と、ビタミンの存在を知っている後世からビタミンを知らなかった前世に対し、安易な批判をしないよう指摘'''した。山下(2008)、471-472頁。</ref>。


もっとも、疑問を解消できなかったが、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、'''海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信'''してしまう。現実には、高木が没した大正期の中頃から、海軍の脚気患者が急増した(その後、{{和暦|1928}}1,153人、{{和暦|1937}}から{{和暦|1941}}まで1,000人を下ることがなく、12月に[[太平洋戦争]]が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)という有様であった<ref>{{和暦|1941}}は、脚気患者3,079人(うち入院605人)のほか、脚気が混入しやすい神経疾患も、神経痛1,907人(395人)、神経衰弱501人(378人)、抹消神経麻痺117人(59人)、その他の神経系疾患689人(141人)であった。山下(2008)、460頁。</ref>)。その理由として、兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)<ref>{{和暦|1890}}に改正された「海軍糧食条令および糧食経理規定」以後、とくに{{和暦|1900}}以後の改正兵食に問題があった。{{和暦|1917}}には、麦飯での麦比率が25%まで低下し、肉・魚・野菜も減っていた。しかも、嗜好食用として給された金で、兵員は渇望する白米を買っていたという。山下(2008)、441-442頁。</ref>、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説が誤っていた影響、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))が挙げられる。ちなみに日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚気の入院率が50%~70%と異常に高いことが指摘されている<ref>山下(2008)、439、462-463頁。</ref>
もっとも、疑問を解消できなかったが、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、'''海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信'''してしまう。現実には、高木が没した大正期の中頃から、海軍の脚気患者が急増した(その後、{{和暦|1928}}1,153人、{{和暦|1937}}から{{和暦|1941}}まで1,000人を下まわることがなく、12月に[[太平洋戦争]]が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)という有様であった<ref>{{和暦|1941}}は、脚気患者3,079人(うち入院605人)のほか、脚気が混入しやすい神経疾患も、神経痛1,907人(395人)、神経衰弱501人(378人)、抹消神経麻痺117人(59人)、その他の神経系疾患689人(141人)であった。山下(2008)、460頁。</ref>)。その理由として、兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)<ref>{{和暦|1890}}に改正された「海軍糧食条令および糧食経理規定」以後、とくに{{和暦|1900}}以後の改正兵食に問題があった。{{和暦|1917}}には、麦飯での麦比率が25%まで低下し、肉・魚・野菜も減っていた。しかも、嗜好食用として給された金で、兵員は渇望する白米を買っていたという。山下(2008)、441-442頁。</ref>、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説が誤っていた影響、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))が挙げられる。


なお現在でも、海軍は麦飯で脚気を「根絶」したと賞賛されやすいが、海軍の外に目を転じると、国民の脚気死亡者数は、{{和暦|1923}}に2万6千台にたっした([[日露戦争]]時の陸軍脚気死亡者数とほぼ同じ水準)。[[昭和]]期に入っても、[[日中戦争]]の拡大や移入米の減少などにより、食糧事情が悪化する{{和暦|1938}}まで、毎年1万人~2万人の間で推移していた(翌[[1939年]]12月1日、「白米」禁止)
なお現在でも、海軍は麦飯で脚気を「根絶」したと賞賛されやすいが、海軍の外に目を転じると、国民の脚気死亡者数は、{{和暦|1923}}に2万6千台にたっした([[日露戦争]]時の陸軍脚気死亡者数とほぼ同じ水準)。その後も、[[日中戦争]]の拡大や移入米の減少などにより、食糧事情が悪化する{{和暦|1938}}まで、毎年1万人~2万人の間で推移していた。


== 貧民散布論 ==
== 貧民散布論 ==

2009年7月5日 (日) 00:07時点における版

高木兼寛肖像画--高木兼寛生誕の地穆園広場内の案内板より

高木 兼寛(たかき かねひろ、嘉永2年9月15日1849年10月30日) - 大正9年(1920年4月13日)は日本海軍軍人医学者男爵東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。姓は「たか」、名は「けんかん」とも呼称される。

略歴

薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市、平成の大合併前の東諸県郡高岡町)に生まれる。通称は藤四郎。18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869年)、開成所洋学局に入学し英語西洋医学を学ぶ。明治3年(1870年)、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学するが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された。

明治5年(1872年)、海軍医務行政の中央機関・海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部になった石神の推挙により一等軍医副(中尉相当官)として海軍入り。海軍病院勤務の傍ら病院や軍医制度に関する建議を多数行ない、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。

軍医少監(少佐相当官)であった明治8年(1875年)、当時の海軍病院学舎(後に海軍医務局学舎を経て海軍軍医学校となる)教官の英国海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校英国聖トーマス病院医学校に留学。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13年(1880年)帰国。 帰国後は東京海軍病院長、明治15年(1882年)には海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883年)海軍医務局長、明治18年(1885年)には海軍軍医総監少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。

明治21年(1888年)日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。さらに日露戦争で麦飯の有効性が注目されていた明治38年(1905年)には、華族に列せられて男爵位を授けられた。この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられる(死去の直後に従二位の位勲一等旭日大綬章が追贈された)。

明治25年(1892年予備役となったが、その後も「東京慈恵医院」「東京病院」[1]等で臨床に立ちつつ、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。長男は医学者の高木喜寛

医学・看護教育

彼は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。成医会講習所は明治18年(1885年)には第1回の卒業生(7名)を送り出し、明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。

さらに明治15年(1882年)には天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である戸塚文海海軍医務局長を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。

一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。陸軍卿大山巌夫人捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立し米国宣教師リード女史らによる看護教育を開始。明治21(1888年)年には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。

この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学東京慈恵会医科大学附属病院慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

兵食改革と脚気論争

当時軍隊内部で流行していた脚気について海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決にとりくみ、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気発生率が1883年(明治16年)23.1%、1884年(明治17年)12.7%、1885年(明治18年)以降1%未満と激減した(詳細は「日本の脚気史」を参照のこと)。

1885年(明治18年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、原因不明の死病(脚気)の原因を確定するには、根拠が少なすぎ、医学論理が粗雑すぎた。このため、東京大学医学部から次々に批判された。とくに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説は、机上の空論にすぎず、誤説であることが明らかにされた。その実験成績にもとづく正論には、高木も反論できず、海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。のちに高木が「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐したとおり、高木説への反対ばかりであった。一般の医界でも同様であった。というのは、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」といった根本的な疑問がもたれたからである。さらに高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問をつよめさせた。このように高木は、(海軍軍医部をのぞくと)国内で賛同をえるどころか、四面楚歌のような状況におちいった(高木の再評価は日露戦争後)。その後、日清戦争とその後の台湾平定戦で、陸軍の脚気患者が急増したことを受け、某海軍軍医が陸軍を批判したものの、学問上の疑問点を挙げて反論されると、その海軍軍医も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)[2]

もっとも、疑問を解消できなかったが、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまう。現実には、高木が没した大正期の中頃から、海軍の脚気患者が急増した(その後、1928年(昭和3年)1,153人、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下まわることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)という有様であった[3])。その理由として、兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)[4]、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説が誤っていた影響、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))が挙げられる。

なお現在でも、海軍は麦飯で脚気を「根絶」したと賞賛されやすいが、海軍の外に目を転じると、国民の脚気死亡者数は、1923年(大正12年)に2万6千台にたっした(日露戦争時の陸軍脚気死亡者数とほぼ同じ水準)。その後も、日中戦争の拡大や移入米の減少などにより、食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで、毎年1万人~2万人の間で推移していた。

貧民散布論

高木は都市衛生において「貧民散布論」を提唱している。「下等貧民ノ市内ニ、住居ニ堪ヘサルモノハ、皆去リテ田舎ニ赴クベシナリ」[5]という、東京から貧民を追放しようという非人道的なものであった。それに対して人道的立場から反対したのが、海軍の兵食改革を批判する陸軍軍医森林太郎(森鴎外)であった。ただし人道的観点を無視して純粋に医学的見地から考えれば(つまり貧乏人を犠牲にしてそれ以外の人間の生命を守るためなら)、高木の貧民散布論は間違ってはいないとも言える。一方の森林太郎の側では、高木の論に反対はすれど、都市衛生に対して具体的対案がある訳では無かった。

その他の功績

  • 宮崎神宮の社殿の大造営を行った中心的な人物でもある。明治31年(1898年)に神武天皇御降誕大祭会を設立しその幹事長に就任、神武天皇が祭神である宮崎宮を、豪華な社殿に大改装するために全国から寄付を集めた。これは毎年恒例である宮崎神宮大祭(神武さま)をスタートさせるきっかけにもなった。
  • 南極大陸南緯65度33分・西経64度14分に"Takaki Promontory"すなわち「高木岬」という岬があるが、これは彼の名にちなんで付けられた地名である。日本人で南極大陸の岬の名前になった人物は高木兼寬だけである。

注記

  1. ^ 有志共立東京病院とは別に高木が退役後設立した個人病院。高木の死後社団法人東京慈恵会に経営が移り、戦後東京慈恵会医院(東京慈恵医院の後身)と共に現在の東京慈恵会医科大学附属病院となっている。
  2. ^ 山下は、「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはない。核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」と、ビタミンの存在を知っている後世からビタミンを知らなかった前世に対し、安易な批判をしないよう指摘した。山下(2008)、471-472頁。
  3. ^ 1941年(昭和16年)は、脚気患者3,079人(うち入院605人)のほか、脚気が混入しやすい神経疾患も、神経痛1,907人(395人)、神経衰弱501人(378人)、抹消神経麻痺117人(59人)、その他の神経系疾患689人(141人)であった。山下(2008)、460頁。
  4. ^ 1890年(明治23年)に改正された「海軍糧食条令および糧食経理規定」以後、とくに1900年(明治33年)以後の改正兵食に問題があった。1917年(大正6年)には、麦飯での麦比率が25%まで低下し、肉・魚・野菜も減っていた。しかも、嗜好食用として給与された現金で、兵員は渇望する白米を買っていたという。山下(2008)、441-442頁。
  5. ^ 「裏屋ノ建設ハ衛生上及経済上ニ害アリ」明治17年、「東京衛生事務ノ拡張ハ市区ノ改正ヲ要ス」明治18年、『大日本私立衛生会雑誌』。

参考文献

ISBN 4-7735-0074-3、下 ISBN 4-7735-0076-X 
  • 藤田昌雄『写真で見る海軍糧食史』光人社、2007年。 ISBN 978-4-7698-1341-5
  • 関亮『軍医サンよもやま物語 軍医診療アラカルト』光人社NF文庫、1998。 ISBN 4-7698-2184-0
  • 『東京民医連外科医師部会月報』(特集:日本とイギリス医学の関わり William Willis)5月号、2005年。
  • 『東京民医連外科医師部会月報』(特集:日本の栄養学の祖、ビタミンの父 高木兼寛)11月号、2005年。
  • 山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年。
  • 吉村昭『白い航跡』(上、下)講談社文庫、1994年。
ISBN 4-06-185679-0、下 ISBN 4-06-185680-4

関連項目

外部リンク