渡辺長

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渡辺長
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文3年(1534年[1]
死没 慶長17年2月24日1612年3月26日
改名 虎法師(幼名)→渡辺長
別名 通称:小三郎
官位 左衛門大夫石見守従五位下飛騨守
主君 毛利元就輝元
長州藩
氏族 渡辺氏
父母 父:渡辺通
小五郎

渡辺 長(わたなべ はじめ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣。毛利十八将の一人。

生涯[編集]

渡辺氏源頼光の家臣・渡辺綱の後裔で、嵯峨源氏の伝統に従い、代々一字名を名乗った。

天文3年(1534年)、毛利氏の譜代家臣である渡辺通の嫡男として誕生。天文12年(1543年)、大内義隆による第一次月山富田城の戦いで父・通が戦死すると跡を継ぎ、父と同様毛利元就に仕えた。

元服前の天文17年(1548年)に山名理興の拠る備後国神辺城(村尾城)への攻撃(神辺合戦)において槍働きで武功を挙げたのを始めとして、天文20年(1551年)の安芸国高屋頭崎城平賀隆保との合戦、天文21年(1552年)の備後国志川滝山城での宮氏との合戦、天文24年(1555年)の厳島の戦い永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦い等で活躍した。

これらの活躍により、天文11年(1542年)に安芸豊島定末名、天文19年(1550年)に安芸下麻原300貫の代官職、弘治3年(1557年)に安芸山里・九嶋の内の30貫と津田の内の20貫、天正13年(1585年)に周防国玖珂郡三瀬川村[2]等を宛行われた。

元亀2年(1571年)に元就が死去した後は、その孫である毛利輝元に仕える。天正14年(1586年)の九州平定に従軍し、天正16年(1588年)には輝元に従って上洛して、豊臣秀吉から豊臣姓と従五位下・飛騨守の官位を賜った。文禄2年(1593年3月3日三分一孫作に「長」の偏諱を与えている。

慶長17年(1612年)、死去。享年79。跡を嫡男・が後を継いだ。なお、次男・小五郎は天正12年(1584年)に伊予国恵良で戦死している。

脚注[編集]

  1. ^ 慶長17年(1612年)2月に79歳で没したとされる為、生年は逆算して天文3年(1534年)と推定される。
  2. ^ 現在の山口県岩国市周東町三瀬川。

出典[編集]