赤川元保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
赤川元保
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄10年(1567年)3月
改名 元助(初名)→元保
官位 左京亮(受領名)
主君 毛利元就隆元→元就
氏族 赤川氏
父母 父:赤川房信
兄弟 元光就秀元保元久
養子:又三郎

赤川 元保(あかがわ もとやす)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。

生涯[編集]

赤川氏桓武平氏の一家系土肥氏の一門小早川氏庶流

赤川房信の四男として誕生。大永3年(1523年)、主家の毛利幸松丸が死去した際に、毛利元就に家督相続を要請した宿老15名の内の1人[1]であり、兄の就秀と共に元就を支えた。また、享禄5年(1532年7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では26番目に「赤川左京亮元助」と署名している[2]

天文19年(1550年)、五奉行制度が始まると、毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命された。隆元側近の重臣として活躍するも、親隆元派として驕慢な振る舞いが多く、親元就派の重臣であった児玉就忠桂元忠達としばしば対立した。

永禄6年(1563年)、隆元が和智誠春の饗応を受けた直後、安芸国高田郡佐々部で急死する事件が起きた。隆元の死を元保の謀略と考えた元就は、元保の責任を追及し、弟の元久、養子の又三郎共々、蟄居謹慎処分の後、4年後の永禄10年(1567年)に自刃に追い込まれた。

その死後に、元保は和智誠春の饗応を受ける事に反対していたことが判明し、その潔白が確認された。毛利元就は自身の行いを深く恥じ、元保の兄・赤川就秀の次男・元通と甥の元之に赤川家を再興させた。

脚注[編集]

関連項目[編集]

登場作品[編集]