沙沙貴神社
| 沙沙貴神社 | |
|---|---|
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拝殿 | |
| 所在地 | 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1 |
| 位置 | 北緯35度8分12.5秒 東経136度8分3.8秒 / 北緯35.136806度 東経136.134389度座標: 北緯35度8分12.5秒 東経136度8分3.8秒 / 北緯35.136806度 東経136.134389度 |
| 主祭神 | 佐佐木大明神(少彦名命、大毘古神、仁徳天皇(大鷦鷯尊)、宇多天皇・敦実親王) |
| 社格等 |
式内社(小) 旧県社 |
| 本殿の様式 | 五間社流造銅板葺 |
| 例祭 | 沙沙貴十二座の神事(4月第3土曜日・日曜日、10月第3日曜日) |
| 主な神事 | 近江源氏祭(10月第2日曜日) |
| 地図 | |



沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は、滋賀県近江八幡市安土町常楽寺にある神社。式内社で、旧社格は県社。近江源氏の氏神であり、佐々木姓発祥の地に鎮座する[1]。
祭神
[編集]歴史
[編集]神代に少彦名神が小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったという。このことからこの地は「ササキ」と呼ばれるようになり、その地に少彦名神を祀ったことが当社の始まりであるという[1]。古代に沙沙貴山君が大毘古神を合わせて祀り[1]、景行天皇が志賀高穴穂宮への遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。
宇多源氏の源成頼がこの地に土着するようになると、孫の佐々木経方が佐々木氏と称するようになった。そして、もともとこの地に住んでいた沙沙貴山君の子孫である沙沙貴氏と次第に融合していくと、沙沙貴氏の氏神であった沙沙貴神社に宇多源氏の祖である敦実親王とその父・宇多天皇を新たに合祀し、自らの氏神とした。以降当社は宇多源氏とも近江源氏とも呼ばれる佐々木氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬するようになった[1]。
貞和5年(1349年)には正一位の神階に叙される。また、この頃には社領800石を有していた[2]。
戦国時代、この地を治めていた佐々木氏の嫡流六角氏の六角義賢・義弼父子は織田信長によって放逐され、当地は信長の支配下に入った。後には信長の居城である安土城が付近に築城されたが、当社は破却を免れて維持されている。しかし、社領は廃されたようである[2]。
慶長5年(1600年)に徳川家康が上杉景勝を攻めようとした際、家康は当社で戦勝を祈っている。続いて家康は関ヶ原の戦いに勝って江戸に帰る際に、伊庭の茶屋(後の伊庭御殿)より当社を遙拝している[2]。また、神主佐々木安重を召して1万石の社領を寄進している[2]。
後に佐々木一族である丸亀藩主京極氏より社領100石が寄進されている[2]。
天保14年(1843年)に火災によって楼門、回廊、宝蔵、水屋などを残して社殿が焼失するが[3]、弘化5年(1848年)に丸亀藩主京極高朗により本殿、権殿、拝殿などが再建された[1]。その際、水原源四郎俊勇が棟梁となって平安時代、鎌倉時代の様式で再建が行われている。それらの建物はいづれも滋賀県指定有形文化財となっている[1]。
1876年(明治9年)に郷社に列すが、1920年(大正9年)には県社に昇格している。また、同年には神饌幣帛料供進社に指定された[2]。
婆沙羅大名の佐々木道誉、信長に徹底して反抗した六角義賢、当社を再建した京極高朗の他、日露戦争での203高地の戦いで有名な乃木希典も佐々木一族である。現在も宇多源氏佐々木氏は、六角氏、京極氏、朽木氏、黒田氏、三井家など220余姓の末裔の篤い信仰を集めている[1]。
2018年(平成30年)9月の台風21号により本殿の屋根の3分の2が吹き飛ばされるなどの被害が出たが、本殿は2019年(令和元年)6月に、透塀は2020年(令和2年)3月に修復が終わった[4]。その際、ももいろクローバーZのメンバーに佐々木姓である佐々木彩夏がいることから当社はかねてよりファンの間で聖地とされていたため、ファンにより修復費のうち4,000万円が寄付されている[4]。
境内
[編集]- 本殿(滋賀県指定有形文化財) - 弘化5年(1848年)に丸亀藩主京極高朗により再建。大工は水原源四郎俊勇。建築物の建築構造は五間社流造、向拝三間、銅板葺。五間社流造の例はきわめて少ない。彫刻類は控え目で滋賀県下の中世以来の伝統様式を伝える落ちついた作品であり、先に権殿を造って腕試しをした大工水原源四郎の意欲作である[6]。2019年(令和元年)6月に修復されている[4]。
- 透塀(滋賀県指定有形文化財) - 2020年(令和2年)3月に修復されている[4]。
- 幣殿 - 1955年(昭和30年)建立。それまではここには中門(滋賀県指定有形文化財)が建てられていた[6]。
- 拝殿(滋賀県指定有形文化財) - 弘化5年(1848年)に京極高朗により再建。大工は水原源四郎俊勇。桁行・梁間とも三間、方形[7]。
- 中門(滋賀県指定有形文化財) - 本殿と権殿の間にある。もともとは本殿の正面にあったが、1955年(昭和30年)に幣殿が新たに建立されたため、磐境(いわさか)の中門として現在地に移築された[6]。
- 権殿(滋賀県指定有形文化財) - 中央の座祭神:置目姫命(おきめひめのみこと)・狭狭城山君の祖倭帒(やまとふくろ)宿禰の妹、源雅信公、源秀義(佐々木秀義)公、源氏頼(六角氏頼)公。東の座祭神:乃木希典命、乃木静子命。西の座祭神:沙沙貴郷、旧蒲生郡の明治・大正・昭和での戦没者参千七百余柱命。弘化3年(1846年)に京極高朗により再建。大工は水原源四郎俊勇。三間社流造。権殿は本殿を新築または修復する時に御神体を一時奉安する仮殿である。本殿と構造形式や細部意匠が類似することから、本殿の試作として先に作られたものとされる[7]。
- 乃木大将お手植えの松。
- 宝蔵 - 延享4年(1747年)頃再建[7]。
- 神輿蔵
- 祭器庫
- 十二支の石造群 - 石像彫刻家中嶋登茂美の作[7]。
- 干支の庭
- さざれ石の庭
- 石灯籠「彌陀六燈籠」(近江八幡市指定有形文化財) - 正安2年(1300年)造。高さ227センチメートル。花崗岩の火袋と笠は中台に合せて江戸時代に後補されたもの。六角形の石燈籠でありがなら円形の基礎となっており、めずらしい組合せである[7]。
- 絵馬殿
- 庭園「呑月(どんげつ)の庭」 - 1888年(明治21年)7月に勝元宗益によって築庭されたもの[7]。
- 手水舎 - 天保14年(1843年)造。大工は水原源四郎俊勇。天保の火災の3か月前に上棟した建物[7]。
- お祓所(おはらえど)
- 東廻廊(滋賀県指定有形文化財) - 若宮四座となっている。延享4年(1747年)頃再建[8]。
- 西廻廊(滋賀県指定有形文化財) - 表四座と裏四座に分かれている。延享4年(1747年)頃再建[7]。
- 楼門(滋賀県指定有形文化財) - 延享4年(1747年)再建。平安時代の様式。葭葺(よしぶき)、二層門。随神は明和9年(1772年)の作。扁額「沙沙貴神社」は有栖川宮熾仁親王の筆で三井家による奉納である[3]。
- 社務所
- 物品庫
- 霜楓園(国登録有形文化財) - 旧源照殿。元々は、1919年(大正8年)に東近江市五個荘金堂(こんどう)地区の外村(とのむら)与左衛門家に建てられた、皇族に縁がある貴人用の宿泊所である。1963年(昭和38年)に現在地に移築された[9]。今後は修復し、活用する予定である[10]。
- なんじゃもんじゃの木 - 当社のシンボル樹[7]。
- 百華苑
摂末社
[編集]文化財
[編集]国登録有形文化財
[編集]- 沙沙貴神社旧源照殿
滋賀県指定有形文化財
[編集]- 本殿
- 中門
- 透塀
- 権殿
- 拝殿
- 楼門
- 東回廊
- 西回廊
近江八幡市指定有形文化財
[編集]- 石灯籠
祭事
[編集]所在地
[編集]- 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
アクセス
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 2023年(令和5年)までは4月第1土曜日・日曜日、5月4日・5日、10月第3日曜日の年三回にわたって祭礼が行われていた。
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 沙沙貴神社について.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 沙沙貴神社.滋賀県神社庁、2026年2月20日閲覧。
- 1 2 楼門.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- 1 2 3 4 ももクロファンらが4千万円寄付 「佐々木姓氏神の神社」台風で大破も支援受け復興.京都新聞 2020年5月7日、2026年2月16日閲覧。
- ↑ 沙沙貴神社.滋賀・びわ湖 観光情報、2026年2月18日閲覧。
- 1 2 3 本殿.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 境内案内.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- ↑ 東廻廊.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- ↑ 沙沙貴神社旧源照殿(霜楓園).滋賀登文会、2026年2月16日閲覧。
- ↑ 霜楓園.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- ↑ 八角神殿.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
- ↑ 祭典・行事.沙沙貴神社、2026年2月16日閲覧。
関連項目
[編集]- 佐々木氏
- 宇多源氏
- 近江源氏
- 出雲源氏
- 天河伝説殺人事件 (映画) ‐ 撮影地として使用された
