新アッシリア帝国

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新アッシリア
𒆳𒀸𒋩𒆠
中アッシリア 前934年 - 前609年 新バビロニア
メディア王国
エジプト第26王朝
新アッシリアの位置
新アッシリアの支配域(緑)
公用語 アッカド語アラム語
首都 アッシュール(前911年-前879年)
カルフ(前879年-前706年)
ドゥル・シャルキン(前706年-前705年)
ニネヴェ(前705年-前612年)
ハラン(前612年-前609年)
君主
前911年 - 前891年 アダド・ニラリ2世
前612年 - 前609年アッシュール・ウバリト2世
面積
前670年1,400,000km²
変遷
ニネヴェの戦い 前612年
ハラン包囲戦前609年

新アッシリアアッカド語: 𒆳𒀸𒋩𒆠, ラテン文字転写: māt Aššur)は、紀元前934年から紀元前609年までメソポタミアに存在した多民族国家

歴史[編集]

前史[編集]

アッシリアは、紀元前25世紀に成立した国家の一つであった。初期の王であったトゥディヤ英語版は、比較的小国の君主であったがアッカドサルゴンに服属してその属国となった。サルゴンはメソポタミアに居住していたアッカド語シュメール語を話す民族をすべて統一して、単一の支配下に置いたが、その過酷な政策により、約200年後の紀元前2154年にアッカドは滅亡した。古アッシリア英語版滅亡後の紀元前1392年英語版中アッシリア英語版が成立した。

新アッシリアの興亡[編集]

アシュルバニパルの死亡時におけるアッシリア帝国。 濃い緑色はpahitu/pahutu(州)、黄色はmatu (従属国)、クリーム色がバビロン王国、黄色の点は他の従属国、黒い点はバビロン王国のpahitu/pahutu(州)。灰緑色はキプロス島と従属国10都市。茶色の文字(原寸の46,995ピクセルでないと読み取れないので注意)はかつて存在した州

中アッシリアも古アッシリアと同様、過酷な統治のために紀元前934年に新アッシリアに継承された。新アッシリアは互いに起源が異なる複数の民族と部族で構成され、被征服民族を自領に組み込んで再編した[1]。アッシリア人は国家支配に欠かせない初期の技術を完成させ、その多くは後の各国家で標準となった。多くの歴史家によると、新アッシリアは歴史上最初の真の帝国であったとされる。アッシリア人鉄器で武装した最初の民族であり、その軍隊は高度で効果的な戦術を採用した。紀元前10世紀後半のアダド・ニラリ2世の征服[2]に続いて、アッシリアは当時地球上で最も強大な国家として浮上し、バビロニアエジプトウラルトゥエラムを制圧し近東アナトリアカフカス北アフリカと地中海東部の覇権を握って支配した。特に紀元前8世紀のティグラト・ピレセル3世の治世に至って最盛期となり、広大な版図を誇った。この期間中、アラム語はアッカド語と並んで新アッシリアの公用語になった。アッカド王サルゴンの政策と非常によく似た被征服民への過酷な抑圧と、紀元前631年アッシュールバニパルの死後数年で引き起こされた内紛[3]が打ち続いたため、新アッシリアは崩壊し始めた。紀元前616年メディアペルシア人の王であるキュアクサレス2世は、バビロニア人とカルデアの支配者ナボポラッサルと、また新アッシリアに対するスキタイキンメリア人との同盟を結んだ。紀元前612年、メディア・新バビロニア・スキタイ・キンメリアを含む西アジア諸勢力の連合軍に敗北し、都ニネヴェが陥落した[3]紀元前609年、新アッシリアとその同盟国であったエジプトはメディアと新バビロニアの連合軍に打ち破られ、アッシュール・ウバリト2世の逃亡先であったハランも陥落した(ハラン包囲戦英語版)。その後、ハランを奪回しようと試みるも失敗し、アッシリアは独立国家としての地位を喪失した。新アッシリアもまた、先に存在していた古アッシリアと中アッシリアの滅亡の教訓に学ばず、結局は滅亡した。新アッシリアは崩壊したが、アッシリアの歴史は続いた。現在、アッシリア人はイラン・イラクおよびその他の地域に居住している。

君主一覧[編集]

名前 在位年 概要
アダド・ニラリ2世 前911年~前891年 新アッシリア帝国時代最初の王(彼の父アッシュール・ダン2世からとする場合もある)。西方でアラム人と戦い、ハブール川流域を確保するなど、帝国の土台を築いた。
トゥクルティ・ニヌルタ2世 前891年~前883年 アラム地方、ウラルトゥなどに遠征。ニネヴェやアッシュルを発展・拡大させた。
アッシュル・ナツィルパル2世 前883年~前859年 新アッシリア帝国中興の祖。シリアを攻めて地中海まで達し、フェニキアからも貢納を取り立てた。首都をカルフ(ニムルド)に遷した。
シャルマネセル3世 前858年~前824年 ウラルトゥ、シリア、バビロニアなど、各方面へ遠征し、アッシリア帝国の版図を拡大した。
シャムシ・アダド5世 前823年~前811年 兄弟との後継者争いを制してアッシリア王となる。バビロニアに対して遠征し、宗主権を得た。妻サンムラマートとの間にアダド・ニラリ3世をもうけた。
アダド・ニラリ3世 前810年~前783年 母親のサンムラマート(セミラミスのモデルとなった女性)の影響が大きかった。地方の高官の勢力が強く、アッシリア王の権力は弱体化していた。
シャルマネセル4世 前783年~前772年 北のウラルトゥ王国との戦いで苦戦を強いられる。宦官や軍人シャムシ・イルの権勢が強く、彼自身の権限は大きく制限されていた。
アッシュル・ダン3世 前772年~前755年 宦官や軍人シャムシ・イルの権勢が強く、彼自身の権限は大きく制限されていた。
アッシュル・ニラリ5世 前754年~前745年 軍人シャムシ・イルの権勢が強く、軍事遠征もあまり行えなかった。ティグラト・ピレセル3世に王位を簒奪されたと見られている。
ティグラト・ピレセル3世 前744年~前727年 常備軍を創設し、新アッシリア帝国黄金時代の基礎を築いた。ウラルトゥ、シリア、バビロニアなど広範囲に積極的に戦争を行った。
シャルマネセル5世 前727年~前722年 北イスラエル王国への遠征を開始した。だが、治世わずか5年で、サルゴン2世に取って代わられた。
サルゴン2世 前722年~前705年 サルゴン王朝の創始者。シャルマネセル5世の直系ではなく、王位簒奪者の可能性が高い。北イスラエル王国を滅ぼしたことで有名。ウラルトゥへの遠征など、積極的に活動した。新首都「ドゥル・シャルキン」を建設したが、完成前にアナトリアで戦死した。
センナケリブ 前705年~前681年 新アッシリア帝国の黄金期を築いた。軍事遠征を積極的に行い、エルサレム包囲戦でも有名。首都をニネヴェに遷した。反乱したバビロンを破壊。後継者を年下の息子エサルハドンに指名したことを恨んだその兄に暗殺された。
エサルハドン 前681年~前669年 兄によるクーデターを鎮圧してアッシリア王に就き、新アッシリア帝国の黄金期を維持した。軍事遠征を積極的に行い、エジプトまで攻めていったが、生来病弱で、エジプト遠征の途上で病没した。彼自身が王位継承で苦労したにもかかわらず、後継のアッシリアの王に年下の子アッシュルバニパルを、バビロンの王にその兄であるシャマシュ・シュム・ウキンを指名したことが、やがて内戦を招くこととなる。
アッシュルバニパル 前669年~前631年頃 新アッシリア帝国黄金期の最後の王。軍事遠征を積極的に行った。学問への関心も高く、各種の文書を収集したアッシュルバニパルの図書館は有名。治世第17年に、バビロンの王となった兄、シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を起こし、内戦が勃発。4年かけてこれを鎮圧したが、この内戦で国力を疲弊したことが、帝国滅亡の遠因となった可能性がある。
アッシュル・エティル・イラニ 前631年頃~前627年頃 即位後わずか4年で亡くなった。史料は少ない。
シン・シュム・リシル 前626年頃 反乱により新アッシリア王を名乗った宦官。バビロニア北部を掌握したが、3か月で終わった。
シン・シャル・イシュクン 前627年頃~前612年頃 アッシュル・エティル・イラニの兄弟。勃興した新バビロニアの進撃を食い止めることができず、首都ニネヴェでメディアと新バビロニアの連合軍に包囲され、おそらくここで戦死したと思われる(滅亡期の混乱で、記録すら残っていない)。
アッシュル・ウバリト2世 前612年頃~前609年頃 新アッシリア帝国の残党を率いてハッラーンで立て直しを図ったが、新バビロニア軍の攻撃によりこれも失った。紀元前609年の戦闘を最後に史料から消え、ここに新アッシリア帝国は滅びた。

出典[編集]

  1. ^ 古畑 2005, p. 69
  2. ^ 青島 2015, p. 17
  3. ^ a b アッシリア” (日本語). コトバンク. 2020年7月11日閲覧。

参考資料[編集]

関連項目[編集]