シャルマネセル3世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

シャルマネセル3世Shalmaneser III、在位:紀元前858年 - 紀元前824年)は新アッシリア王国時代のアッシリアアッカド語ではシャルマヌ・アシャレド(Shulmanu asharid)と表記される。名前の意味は「シャルマヌ神は至高なり」である。アッシリアの勢力を大幅に拡大したが、晩年には息子の反乱のために国内は大混乱に陥った。

来歴[編集]

シャルマネセル3世の黒色オベリスク(黒のオベリスク)、オースティン・ヘンリー・レヤードにより1846年ニムルドから発掘、大英博物館蔵

アッシュールナツィルパル2世の息子として生まれた。紀元前858年に即位すると、父の代に大幅に強化されたアッシリアを更に拡大するべく多数の遠征を行った。即位直後にシリアへの遠征に向かい、アラム系国家ビート・アディニを征服した。

このアッシリアの膨張に対し、シリア地方にある他の諸国は危機感を募らせ反アッシリアの同盟を結んだ。シャルマネセル3世自身が残した碑文によればダマスコ王ハダドエゼル、ハマテ王イルフレニ、イスラエルアハブなど12の王がこの同盟に参加した。

紀元前853年カルカルの戦いで両者は激突した。シャルマネセル3世はこの戦いを大勝利として記録するが、実際には勝利を収めなかったと考えられる。この戦いの後シャルマネセル3世は一時バビロニアに矛先を変えて現地のカルデア人達を征服したが、その後シャルマネセル3世は繰り返しシリア地方に侵攻している。

そしてダマスコ王ハダドエゼルが紀元前842年に死去すると、その息子ハザエルの王位継承に反対してダマスコを攻撃した。なおもダマスコの完全征服はできなかったが、これによってシリア地方での優越した地位を確保し、ダマスコ、イスラエル、フェニキアの各都市国家に貢納を課した。しかし、完全征服については断念したと見られる。

844年ウラルトゥ王国に遠征を行ってから、ウラルトゥと長期にわたる戦いを繰り返した。更に紀元前835年以降はメディアとも戦ったが、紀元前832年以降は息子のアッシュール・ダイン・アピル英語版を軍総司令官に任じて彼に指揮を取らせた。しかしアッシュール・ダイン・アピルは紀元前827年、突如反乱を起こし、カルフ(ニムルド)を除くアッシリアの大半の都市を制圧するに到った。シャルマネセル3世は反乱の鎮圧に成功しないまま紀元前824年死去し、別の息子シャムシ・アダド5世が後を継いで反乱鎮圧を引き継いだ。

シャルマネセル3世の遺物[編集]

シャルマネセル砦[編集]

シャルマネセル3世はカルフ(ニムルド)に軍司令部と武器庫を兼ねた砦を建設した。これは現在シャルマネセル砦Fort Shalmaneser)と呼ばれている。この砦の玉座にはアッシリアとバビロニアの条約締結の光景が浮き彫りにされており、当時について貴重な情報が得られる。

黒色オベリスク[編集]

現在大英博物館所蔵の「黒色オベリスク」と呼ばれる石碑には、イスラエル王イエフがシャルマネセル3世に平伏し、貢物を献上する様子とそのリストが刻まれている。古代イスラエル史を考える上で非常に重要な史料である。


先代:
アッシュールナツィルパル2世
新アッシリア王
前858年 - 前824年
次代:
シャムシ・アダド5世