ウラルトゥ
| ウラルトゥ | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| Biainili[1] | |||||
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前9世紀から前6世紀のウラルトゥの版図 | |||||
| 公用語 | ウラルトゥ語、古アルメニア語 | ||||
| 首都 |
アルザシュクン トゥシュパ (前832年以降) | ||||
| 国王 | |||||
| 前858年 - 前844年 | アラマ | ||||
| 前844年 - 前828年 | サルドゥリ1世 | ||||
| 前828年 - 前810年 | イシュプイニ | ||||
| 前595年 - 前585年 | ルサ4世 | ||||
| 変遷 | |||||
| 建国 | 前860年 | ||||
| トゥシュパへ遷都 | 前832年 | ||||
| 滅亡 | 前585年 | ||||
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ウラルトゥ (Urartu) は紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。
名称
[編集]「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。王国は、ウラルトゥ語でビアインリ (Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン (Van)」の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名はアララト山 (Ararat) とも関係づけられる。
歴史
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前史
[編集]紀元前1250年ごろのアッシリアの文書は、「ウルアトリ (Uruatri)」または「ナイリ (Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。
黎明期
[編集]その民族は、紀元前860年から紀元前830年のあいだに、王アラマとルティプリの下で黎明期を迎え、王国を形成した。首都は、初期の頃にはアルザシュクンに置かれていた。
拡大期
[編集]その息子サルドゥリ1世の下で、紀元前832年頃に現在のヴァンのあたりのトゥシュパ (Tushpa) に遷都。 ウラルトゥ王国はメヌア(メヌアシュ)からサルドゥリ(サルドゥリシュ)2世の時代が最盛期[2]で、最大版図はアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至った。
衰退期・滅亡
[編集]紀元前714年には、ウラルトゥの王ルサ1世 (Rusa) がサルゴン2世率いるアッシリア軍に大敗し、王は自殺に追い込まれた。この戦い以降、ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った(ウラルトゥ・アッシリア戦争、紀元前714年 - 紀元前585年)。ウラルトゥ王国は、キンメリア人やアッシリアの攻撃に苦しんだ。紀元前585年にスキタイ人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。アケメネス朝の成立後、この地にアルメニア人が定住した(アルメニア属州、紀元前553年 - 紀元前331年)。
発掘
[編集]言語系統
[編集]ウラルトゥ語は、フルリ・ウラルトゥ語族に分類される膠着語である。フルリ人が築いたミタンニ王国(紀元前1500年頃 - 紀元前1270年頃)で使用されたフルリ語と近縁関係にある。
歴代国王
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黎明期
[編集]拡大期
[編集]衰退期
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- Boris B. Piotrovsky, The Ancient Civilization of Urartu (translated from Russian by James Hogarth), New York:Cowles Book Company, 1969.
- ボリス・ピオトロフスキー著, 加藤九祚訳, 「埋もれた古代王国の謎―幻の国ウラルトゥを探る」岩波書店, (1981年)
- 杉勇「ウラルトゥ王国」(『アジア歴史事典 1』(平凡社、1984年))
関連項目
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