トゥクルティ・ニヌルタ2世

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トゥクルティ・ニヌルタ2世
在位 前891年-前884年

死去 前884年
子女 アッシュル・ナツィルパル2世
父親 アダド・ニラリ2世
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トゥクルティ・ニヌルタ2世Tukulti-Ninurta II、在位:前891年-前884年)は、古代メソポタミア地方のアッシリアの王新アッシリア時代の2人目の王である。アラム地方やウラルトゥなどに遠征したほか、ニネヴェやアッシュルの城壁を強化し、神殿や宮殿を建築するなどして発展・拡大させた。

家族[編集]

トゥクルティ・ニヌルタ2世の年代記。

トゥクルティ・ニヌルタ2世は新アッシリア時代の最初の王であるアダド・ニラリ2世の息子として生まれた。トゥクルティ・ニヌルタ2世の息子で、後継者となったのはアッシュル・ナツィルパル2世であった。トゥクルティ・ニヌルタ2世は父が成し遂げた新ヒッタイト諸国、バビロニア人、アルメニア人に対する支配を固めたほか、治世初期にイランザグロス山脈への遠征を成功させて、イラン人ペルシア人メディア人)が定着していた地域を新たに平定した[1][自主公表]

歴史[編集]

トゥクルティ・ニヌルタ2世はビート・ザマニ英語版の王、アンミ・バアル(Ammi-Ba'al)に対して勝利し、彼との間に条約を結んだ(この条約にはアッシリアの敵国に対して馬を売却することを禁ずる条項が含まれた)。この結果、ビート・ザマニはアッシリアの同盟国、実質的にはアッシリアの属国となった。アンミ・バアルは権力の座に残ったが、この時から彼は、トゥクルティ・ニヌルタ2世がフルリ人(フリ人)とナイリ英語版ウラルトゥ人を攻撃するために行ったティグリス川上流地域への遠征に協力しなければならなかった[2]

トゥクルティ・ニヌルタ2世はニネヴェ市とアッシュル市を発展させ、市壁を強化し、宮殿・神殿を建設するとともに庭園を自らの軍事的勝利の場面で飾り立てた[3]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ George V. Yana (2008年). “Ancient and Modern Assyrians: A Scientific Analysis”. Xlibris Corporation. p. 149. ISBN 9781465316295. https://books.google.com/books?id=32HS_jUi4NEC&q=Tukulti-Ninurta+II&pg=PA149 
    (『古代と現代のアッシリア人:科学的分析』(著:ジョージ・V・ヤナ、2008年、エクスリブリス出版(米国))p.149)。
  2. ^ Edward Lipiński (2000年). “The Aramaeans: Their Ancient History, Culture, Religion”. Peeters Publishers. p. 517. ISBN 9789042908598. https://books.google.com/books?id=rrMKKtiBBI4C&q=Tukulti-Ninurta+II&pg=PA156 
    (『アラム人:その古代史、文化、宗教』(著:エドワード・リピンスキー、2000年、ピーターズ出版(ベルギー国ルーベン))p.517)
  3. ^ John Malcolm Russell (1999年). “The Writing on the Wall: Studies in the Architectural Context of Late Assyrian Palace Inscriptions”. Eisenbrauns. p. 222. ISBN 9780931464959. https://books.google.com/books?id=W9JWPGbAc3cC&q=Tukulti-Ninurta+II&pg=PA222 
    (『壁に刻まれた文書:後期アッシリア宮殿の碑文について、建築上の文脈の研究』(メソポタミア文明シリーズ第9巻)(著:ジョン・マルコム・ラッセル、1999年、アイゼンブラウン社(米国)))
先代
アダド・ニラリ2世
新アッシリア王
前891年 - 前884年
次代
アッシュル・ナツィルパル2世