島田孝之
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島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6月12日) - 明治40年(1907年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党)、実業家。字は維則、号は克堂・湘洲・鴎東など。
経歴
[編集]越中国礪波郡島新村(現在の富山県高岡市)出身。明治8年(1875年)に新川県教務監督となるが、翌年に新川県が石川県に吸収されて廃県になると、県令山田秀典の新たな赴任先の青森県に随行し、野辺地警察署長に就任した。明治14年(1881年)に辞任して郷里に帰り、自由民権運動に参加し、北辰社を結成した。翌年、北辰社は他の結社と合同して越中改進党となり、幹事の島田は石川県会議員に選出された。明治16年(1883年)に富山県が置かれると、富山県会議員となり、3期務めた。明治19年(1886年)には議長に就任し、改進党の機関紙『北辰雑誌』を発行している。
1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4期務めた。1892年の第2回衆議院議員総選挙では、激しい選挙干渉のなか、島田は暴漢に襲われ負傷した。投票の結果、武部其文に41票差で敗れたが、支持者から無効票の多さに疑問が出され、選挙人(有権者)による訴訟で富山地方裁判所は無効票のうち69票を島田票と認め、その後の当選訴訟もそれを認め、島田が正当な当選者と認められた。議員として他に中越鉄道社長、農工銀行頭取、富山日報社長を歴任した[1]。
著書
[編集]- 薄游小稿
- 湘洲詩鈔
脚注
[編集]- ^ 『新富山県』p.383
参考文献
[編集]- 富山県統計課『新富山県』1931年。
- 三松隠士『帝国議会衆議院議員列伝 第壱巻』公同舘、1890年。
- 木戸照陽『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年。