谷順平

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谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日[1][2])- 1921年大正10年)8月3日[3][4])は、明治から大正期の農業経営者、実業家政治家衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助[1]

経歴[編集]

越中国新川郡仏田村[1]石川県新川郡仏田村、富山県[3]下新川郡道下村[4]を経て現魚津市[1])で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた[1][2]加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた[5]。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任[1][3][4][5]。1872年(明治5年2月金沢県新川郡第8区租税調役[1]、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる[1][3][4][5]。その後、戸長、下新川郡書記を務めた[3][4][5]

1879年(明治12年)石川県会議員に当選し2期在任したが、1880年(明治13年)7月、病のため辞任[1][3][4][5]。1888年(明治21年)3月、富山県会議員に選出され1892年(明治25年)6月まで在任し[1][5]、この間、徴兵参事員となり[5]、1890年(明治23年)同議長に就任した[1][3][4][5]。1889年(明治22年)4月、初代道下村長となった[1][5]

1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、独立倶楽部)で当選し[1][5][6]、1894年(明治27年)3月の第3回総選挙(富山県第2区、弥生倶楽部)では落選し[6]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。政党は、北陸自由党、憲政党立憲政友会に所属した[1]

実業界では、魚津銀行取締役、同監査役、富山県農工銀行取締役などを務めた[1][2][3][4]

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『富山大百科事典 下巻』182頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第4版』た49頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』136頁。
  4. ^ a b c d e f g h i 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』283頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j 『明治肖像録』48頁。
  6. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』44頁。
  7. ^ 「谷欽太郎」『富山大百科事典 下巻』181頁。

参考文献[編集]

  • 田中彦次郎編『明治肖像録』帝国史会、1898年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。