大橋十右衛門
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年[注釈 1]3月1日[1])- 1940年(昭和15年)2月2日[2][3][4])は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)[2]。
経歴
[編集]越中国射水郡掛開発村[2](富山県[3]射水郡掛開発村大字掛開発村[5]を経て現高岡市[2][4])で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた[2]。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた[2][5]。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した[2][5]。
1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け[2]、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが[3][4][5][6]、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた[6]。
1882年(明治15年)島田孝之、米沢紋三郎らと越中改進党の結成に参画し、自由民権運動を進めた[2]。1884年(明治17年)富山県会議員に選出され[2]、1908年(明治41年)まで4期在任し[2]、同常置委員、同副議長を務め[2][3][4][5]、1903年(明治36年)から1908年まで同議長に在任した[2]。その他、勧業諮問会委員、衛生会委員、米商会所肝煎、同頭取、北陸鉄道創立委員なども務めた[3][4]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(富山県郡部、憲政本党)で当選し[2][5][7]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。政治活動によって多額の資産を全て失う[2]。
1908年(明治41年)政界を引退し、漢詩、書画に親しみ、詩壇・半閑吟社(はんかんぎんしゃ)を主宰して指導を行った[2]。1940年2月、金沢で死去した[2]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(富山県第3区、1890年7月、立憲改進党)次点落選[8]
- 第7回衆議院議員総選挙(富山県郡部、1902年8月、憲政本党)当選 [7]
- 第8回衆議院議員総選挙(富山県郡部、1903年3月、憲政本党)次点落選[7]
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『富山大百科事典 上巻』286-287頁では安政6年。
出典
[編集]- ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十七回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1902年、20頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『富山大百科事典 上巻』286-287頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』136頁。
- ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』100頁。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 初版』269頁。
- ^ a b 「越中義塾」『富山大百科事典 上巻』217頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』26頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』44頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『富山大百科事典 上巻』北日本新聞社、1994年。