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大森房吉

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大森 房吉
生誕 1868年10月30日[1]
日本の旗 日本越前国
死没 (1923-11-08) 1923年11月8日(55歳没)
研究分野 地震学
研究機関 東京帝国大学
出身校 東京帝国大学
プロジェクト:人物伝
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1906年 サンフランシスコの新聞より

大森 房吉(おおもり ふさきち、1868年10月30日明治元年9月15日[1][2]) - 1923年大正12年)11月8日)は、日本地震学者地球科学者。日本における地震学の創始者のひとり[3]初期微動継続時間から震央を求める大森公式大森式地震計などを考案した[3]

経歴

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  • 1868年越前国足羽郡福井城下(現・福井県福井市手寄2丁目)の下級武士大森藤輔の五男として新屋敷百軒長屋で生まれる[4]。8人兄弟で家は貧しかった[4]。創立したばかりの旭小学校に入学し、3年生のときに家族とともに上京[4]
  • 1877年、官立阪本学校(現・中央区立阪本小学校)の5級生(4年生)に転入。
  • 1881年、共立学校(現・開成高校)に進学。
  • 1883年、東京大学予備門本学に入学。
  • 1887年、帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)に入学。物理学を専攻。
  • 1890年帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)物理学科を卒業[5]、その後大学院で気象学地震学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者ジョン・ミルンの指導のもとで1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。
  • 1894年に本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す(余震の)大森公式も発表している。
  • 1894年から3年間ヨーロッパへ留学。
  • 1896年にヨーロッパ留学から帰国後、帝国大学地震学教授となる[6]。濃尾地震を契機に文部省(現・文部科学省)内に設置された震災予防調査会の幹事を長らく務め、日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている。
  • 1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発した。
  • 1899年初期微動継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表した。
  • 1905年に同じ講座の助教授であった今村明恒が、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞に煽情的に報じられたため社会問題となった。房吉は震災対策の必要性には理解を示していたが、そのために社会に混乱を起こすことを恐れていた。そのため、その記事を根拠のない説として退ける立場をとった。
  • 1910年有珠山の噴火の際には、自ら試作した地震計壮瞥町に設置して火山性地震の詳細な観測を行った[7]。それら観測の結果、火山性微動を世界で最初の記録するなど従来の火山学に新しい知見をもたらした[7]
  • 1911年には「大噴火の予知は場合によっては酷く困難な問題ではない」と述べ[7]、噴火予知のための恒常的観察を行う火山観測所の設置を提言し[7]、有珠山論文を発表した[7]
  • 1914年
    • 1月12日の朝、前日から桜島周辺で小さな地震が多発している旨の報告を受け、注意を促す電報を打とうとしていた矢先に桜島大正大噴火が発生している[8]
    • 1月16日に海上から桜島を視察し、同日19時に鹿児島市内には危険が及ばないとする見解を発表した。これにより当時混乱状態にあった市内は平静を取り戻した。また、ノーベル賞物理学委員会から論文提出の依頼状が届くが、論文は提出されなかった[9]
  • 1923年に大森は汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアに出発した。その留守の間に関東地震関東大震災)が発生した。房吉はちょうどシドニーリバビュー天文台で、この地震が地震計に記録されているのを見たという。この地震が日本で発生した大地震であることを知り、帰国の途についた房吉だったが、オーストラリア滞在中に脳腫瘍の病状が悪化。帰国後は直ちに東大病院に入院したが一か月後に死去した[9]。墓所は多磨霊園

栄典

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位階
勲章等

大森式地震計

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大森式地震計、気象庁松代地震観測所資料室展示品

1890年代から1900年代初頭に各地の測候所に設置されていた地震計は、G.M.E(グレー - ミルン ・ユーイング)普通地震計で感震器が動作することで記録を開始する方式であったため、p波が記録出来ない欠陥があった。大森房吉はGME普通地震計を改良し、1898年頃に常時記録可能な大森式(水平)地震計を制作した[13]。この地震計は煤書式で記録紙を円筒形に巻いたドラムをゼンマイでゆっくりと動かし常に記録し続ける方式[14]。従って、P波、S波、L波の違いをはっきりと区別して記録することが可能であった[13][15]。 後に微動計、簡単微動計などの様々な改良型が作られ、日本国内(大学・気象台測候所)だけでなく日本国外でも使用された[16]

主要論文

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顕彰

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生誕地の福井市手寄2丁目の手寄公園には、大森房吉の銅像や、大森式地震計を表したレリーフがある。

参考文献

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参考資料

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関連資料

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脚注

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  1. ^ a b 戸籍上の出生日は明治元年9月13日新暦10月28日)。
  2. ^ 金港堂 編『第5回内国勧業博覧会審査官列伝 前編』金港堂、1903年、63-64頁。 
  3. ^ a b 大森房吉コトバンク
  4. ^ a b c 大森房吉福井市旭小学校
  5. ^ 『官報』第2109号、明治23年7月11日、p.127
  6. ^ 「叙任及辞令」『官報』1897年12月8日(国立国会図書館デジタル化資料)
  7. ^ a b c d e 有珠山1977年火山遺構公園の案内看板の記載内容より
  8. ^ 大森房吉自身の報告による(出典:九州鉄道管理局編 大正三年桜島噴火記事 1914年
  9. ^ a b 日本地震学会広報誌「なゐふる」 Vol.98(2014年7月) 日本地震学会 (PDF)
  10. ^ 『官報』第8657号「叙任及辞令」1912年5月1日。
  11. ^ 『官報』第2974号「叙任及辞令」1922年7月1日。
  12. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
  13. ^ a b 大森房吉 田中舘愛橘記念科学館
  14. ^ 1905年芸予地震 (M=7.3) の大森式地震計による記録とその数値化 地震 第2輯 1998年 51巻 1号 p.113-121, doi:10.4294/zisin1948.51.1_113
  15. ^ 近地観測点における1923年関東地震によるP波波形の特徴 気象庁に保存されている地震記録の写真について 地震 第2輯 1996年 49巻 2号 p.141-168, doi:10.4294/zisin1948.49.2_141
  16. ^ 大森式地震計 国立科学博物館地震資料室
  17. ^ 雑誌記事|国立国会図書館サーチ書誌情報
  18. ^ 福井新聞ONLINE2018年6月25日配信
  19. ^ 『福井新聞』2023年9月1日 第1面
  20. ^ 『福井新聞』2023年9月1日 社会面
  21. ^ 『歴史街道』2023年10月・通巻426号.目次|PHP研究所

関連項目

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外部リンク

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