北門義塾
北門義塾(きたもんぎじゅく)は、柳田藤吉が創設した私塾。北門社ともいう。1872年(明治5年)に閉校した。
概要[編集]
1837年(天保8年)、盛岡藩に下駄商人・藤沢嘉兵衛の家に次男として生まれた柳田藤吉は、戊辰戦争で旧幕府方にも新政府にも武器を売り、財をなしたが、社会に貢献したいと福沢諭吉・箕作麟祥に相談すると、私塾を起こすことを勧められ、利益4万8000両を提供し洋学校を設立することにした。
この事業に賛同した三井家が所有する東京府早稲田にある建物(元高松藩下屋敷)が提供され、山東一郎・松本良順が学校を管理することにした。
1869年(明治2年)、北門社新塾として入学金・授業料なし、定数300人で生徒の募集を開始。
翌1870年(明治3年)、藤野文蔵らとともに開拓使に請願し、会所町にあった官舎を補修し、その年7月函館に分校・北門社郷学校(翌年7月、北門社郷塾に改称)を設けた。漢学と英語が教授され、漢学教師兼塾長には開拓大主典鈴木陸次が、英学教師には開拓大主典堀達之助があたった。ほかに漢学教授1名、助教4名もおかれ、堀以外の教師や助教の俸給や校費などはすべて柳田らが支弁した。郷塾の開設には、官舎貸与や官吏派遣など、開拓使も大いに支援した。
北門義塾は1872年(明治5年)に閉校し、跡地はのちに、大隈重信の別邸となった[1]。
また郷塾は、後の函館の初期中等教育の原型となった。
出身者[編集]
脚注[編集]
- ^ 『早稲田大学百年史 第一巻』第二編 第九章 都の西北。