大谷木備一郎

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大谷木 備一郎(おおやぎ びいちろう、1858年(安政5年6月[1])- 1892年明治25年)2月7日[2])は、明治時代の政治家弁護士衆議院議員(1期)。

経歴[編集]

幕臣・大谷木吉之丞(のちに一と称す)、と母の下田氏の子として江戸牛込若宮町(東京府牛込区若宮町東京市牛込区若宮町を経て現東京都新宿区若宮町)に生まれる[3]。11歳にして聖堂に入り漢学を修める[3]。ついで北門社で英学を学び、外国語学校に入り、大学南校に学び、大学予備門を経て1879年(明治12年)東京大学法律科を卒業した[4]

代言人となり同期の高橋一勝らと攻法館(専修大学の前身)を設立し、1886年(明治19年)には代言事務所を日本橋区本町(現東京都中央区日本橋本町)に開業した[4]。同年、海軍主計学校の嘱託教員となり、翌年の1887年(明治20年)東京組合代言人会長に挙げられ、同年東京法学院の講師となった[5]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では東京府第7区から出馬し当選[1]。衆議院議員を1期務めた[1]。在任中は大成会に所属したが、病により1892年2月7日に没した[1]葬儀は盛大に行われ、弟の富次郎と耐三が喪主を務めた。代々の菩提寺である下谷龍谷寺に葬られた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 衆議院、参議院 編 1962, 109頁.
  2. ^ 篠田 1891, 27頁.
  3. ^ a b 篠田 1891, 25頁.
  4. ^ a b 篠田 1891, 26頁.
  5. ^ 篠田 1891, 26-27頁.

参考文献[編集]