函館夜景
函館夜景(はこだてやけい)とは、北海道函館市のうち函館市旧市街地、津軽海峡上のイカ漁区域における夜の景色(夜景)である。
概要
[編集]都市の両側に海(函館湾と津軽海峡)があり、ほぼ中央に夜景が映し出されるバランスのとれた地形であり、一望できる位置に程よい高さの眺望地点が存在する。低層建築物が多いことから街路照明が夜景の大きな構成要素となっている。眺望地点は表夜景(函館山山頂)と裏夜景(横津岳山麓)の二か所[1]。市街地やほかの観光施設から近く、交通機関も充実しているのも特徴である[2]。
- 陸軍の重要拠点だった函館
第二次世界大戦終結前の函館は要塞地帯法の軍事的事情によって住民生活に制限が加えられていて(大日本帝国陸軍函館要塞、のちの津軽要塞)、軍事施設である函館山への登山はもちろん、写真撮影はもちろん写生をすることを厳しく禁じられていた[3]。函館要塞時代においてはロシア帝国を仮想敵国として要塞を構築[4]。1919年(大正8年)に一時廃止されたものの[5]、津軽海峡を封鎖できるよう津軽要塞として再構築され、引き続き制限を加えられた。
- 電力事業
ところで夜景の主な光源となる電力事業であるが、当地では1896年(明治29年)1月15日に当時の函館区東川町(現在の北海道電力東雲変電所)に火力発電による電力会社として函館電燈所が開業した。その後、渡島水電(のちの函館水電)が1907年(明治40年)2月に買収して函館およびその近郊に電灯・電力の供給を開始、翌1908年(明治41年)には水力発電所の大沼発電所が完成し送電を開始している[6]。
- 戦後の観光開発
敗戦後制限がなくなり、函館市と商工団体によって大蔵省(現・財務省)に対し函館山の払い下げの陳情がおこなわれた。1946年(昭和21年)10月17日に一時使用が許可され、観光開発が開始、1950年(昭和25年)、軍用道路を改良し登山道を開通させ、1953年(昭和28年)5月には住民や観光客のために函館市営バスによる函館山登山バス(現・函館バス1系統「函館山登山バス」)を、1958年(昭和33年)11月15日 には函館観光事業会社(現・函館山ロープウェイ)の営業を始めた。1957年(昭和32年)11月、週刊読売の「新日本百景」で函館山が第1位に選ばれたことで人気が高まった[3]。函館山の観光開発を提案したのは宗藤大陸である[7]。
- 平成から令和時代
平成に入り、1991年(平成3年)函館青年会議所関係者が発起して記念日「函館夜景の日」を制定、市内で関連イベントを開催した。8月13日とは8(や)とトランプの“K”にあたる13の語呂合わせである[8]他、市は国の交付金「ふるさと創生事業(1億円)」を活用し、主に歴史的建造物のライトアップや街路灯強化を行い夜景の見栄えをよくした(1989年<平成元年>策定のファンタジー・フラッシュ・タウン基本計画)[9][10]。
- 「100万ドルの夜景」商標権問題
函館夜景をPRする際に使用してきた「100万ドルの夜景」が、1998年(平成9年)に福島県の宿泊事業者に登録、函館市に買い取りを要求し問題になった。のちに宿泊事業を引き継いだ実業家が函館の飲食店ラッキーピエロの経営者の一人と知人だったことが縁でラッキーピエロが商標権を購入することができ問題解消に至った[11]。
- 観光公害(オーバーツーリズム)問題
2019年新型コロナウイルス感染症が収まるにつれ、訪日外国人旅行客(インバウンド)が回復した影響により、2024年(令和6年)より一定時間に登山客が集中する観光公害(オーバーツーリズム)が発生した[12]。
年表
[編集]- 1946年(昭和21年)10月17日 - 大蔵省より函館山の一時使用許可がでる
- 1950年(昭和25年) - 函館山登山道開通
- 1953年(昭和28年)5月 - 函館市営バスが函館山登山バスを運行開始
- 1957年(昭和32年)11月 - 函館山が週刊読売の「新日本百景」第1位に選ばれる
- 1988年(昭和63年) - 函館山ロープウェイ、施設の大型化が図られる[13]
- 1991年(平成3年) - 函館夜景の日制定
- 1998年(平成9年) - 「100万ドルの夜景」商標権問題が起きる。のちに解消
- 2003年(平成15年)4月1日 - 函館市営バスが函館バスに完全移管される[14][15]
気象
[編集]5月から7月にかけて函館山山頂部で霧が発生することがあり、山頂部から眺めることができない日がある[16]。
裏夜景
[編集]2004年(平成16年)市が新しい眺望地点として横津岳山麓から函館山方向を望む裏夜景の調査をしており、「桔梗農道」と「函館KGカントリークラブ」を有力地として挙げている。前者は農地であり眺望施設の整備は難しい、後者は民間施設でありアクセス道路の整備の調整が必要であるとしている[17]。
脚注
[編集]- ^ 函館市夜景診断調査報告書 pp.66-70
- ^ 函館市夜景診断調査報告書 p.62
- ^ a b 函館市史 通説編第4巻 p682-p686
- ^ 日本の要塞-忘れ去られた帝国の城塞 p83
- ^ 白い航跡-青函連絡船戦災史- p52
- ^ 函館市史 通説編第3巻 p251
- ^ わが街 はこだてタウン誌50年 p.60
- ^ "函館夜景の日、市内13カ所から一斉に花火" e-Hakodate/函館新聞 2009年8月14日 10:03更新 2024年3月12日閲覧
- ^ "函館における観光開発" 龍野紋香 1996年
- ^ "街灯の色味の変更について" 函館市民の声 函館市 2020年4月21日更新 2024年3月10日閲覧
- ^ 函館西部地区Ⅲ 内陸部 p21
- ^ "函館山の夜景、混雑緩和へ 市がオーバーツーリズム対策 AIカメラや分散化" 函館新聞 2024年6月6日20時4分更新 2024年9月18日閲覧
- ^ 函館市史 通説編第4巻 p682-p686
- ^ “函館市営バスが60年の歴史に幕 運行終了式”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年4月1日)
- ^ “「新生函館バス」出発 市営路線の移管が終了 拍手に包まれ第1便”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2003年4月1日)
- ^ 函館市夜景診断調査報告書 p.15
- ^ 函館市夜景診断調査報告書 p.29
参考文献
[編集]- 自治体誌・資料
- 函館市史編さん室編 『函館市史 通説編第4巻』 函館市 2002年
- 石井幹子デザイン事務所 『函館市夜景診断調査報告書』 函館市 2004年
- 商業誌
- 長谷川晋·編 『日本の要塞-忘れ去られた帝国の城塞』 学習研究社 2003年 ISBN 978-4056032024
- 青函連絡船戦災史編集委員会編 『白い航跡-青函連絡船戦災史-』 北の街社 1995年 ISBN 978-4873730462
- 個人誌
- 茂木治 『資料 函館西部地区Ⅲ 内陸部』 2010年
- 雑誌
- タウン誌「街」編集室編 『わが街 はこだてタウン誌50年』 2013年 ISBN 978-4-9907060-0-5