中知床岬灯台

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中知床岬灯台
旧中知床岬灯台(アニワ灯台、2017年5月)
位置 北緯46度1分15秒 東経143度24分54秒 / 北緯46.02083度 東経143.41500度 / 46.02083; 143.41500座標: 北緯46度1分15秒 東経143度24分54秒 / 北緯46.02083度 東経143.41500度 / 46.02083; 143.41500
所在地 樺太庁大泊郡知床村豊原支庁管内)中知床岬五丈岩
塗色・構造 黒白横線塗・コンクリート造円形
レンズ 第3等
灯質 群閃白光 毎24秒に2閃、18秒を隔て、6秒間に2閃
光達距離 17.5 海里(約 32.4 km
明弧 全度
塔高 26 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 40 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1939年10月27日
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中知床岬灯台(なかしれとこみさきとうだい)は、かつて日本統治時代樺太庁大泊郡知床村豊原支庁管内)にあった日本灯台第二次世界大戦後のソビエト連邦及びロシア連邦による樺太南部の実効支配化に伴い、アニワ灯台(ロシア語: Мая́к Ани́ва)となり、2006年まで運用されていた。

概要[編集]

中知床岬灯台[編集]

中知床半島先端で、宗谷海峡に突き出した中知床岬南端の岩礁である五丈岩上に設置され[注釈 1]、西側は亜庭湾、東側はオホーツク海に面しており、昭和10年代の北洋漁業の発展に伴うこの方面の航路の安全確保のため[3]に建設された。

建設は1937年6月に着手され、1939年10月に竣工している[4]。工事は逓信省の直轄で実施されて工費は60万円、敷地に資材を置くことができなかったため、北方に約8 km離れた中知床岬西岸の狭い空地に工事ヤードを設置し、により人員や資材を運搬して工事が進められたが[4]、濃霧や強風・波浪の影響もあって工事は困難なものとなっていた[5]

構造は、設置される岩礁の形状と波力に対する抵抗を考慮して楕円形平面とした[6]3層の基部の端部に9層で円筒形の灯塔を設置したものとなっており、光源は石油蒸発白熱灯[7]、灯台レンズ回転機は重錘式(重錘の重量は270 kg)で3時間ごとに巻き上げる必要があった[8]。灯台の構造および内部配置は以下の通り[9]

中知床岬灯台構造
構造 建物 階層 用途
鉄筋コンクリート造 灯塔(円形) 9階 灯籠
8階 回転機械室
7階 貯油室
6階 霧信号室
5階 吏員寝室(4名分)
4階 吏員寝室(4名分)
3階 庸人寝室(4名分)
基部(楕円形) 2階 通信室、居間キッチン浴室トイレ、食糧庫、倉庫ほか
1階 発電機室、蓄電池室ほか
地下1階 貯油庫、冷却水槽、飲料水槽、野菜庫ほか

竣工後11月1日より運用を開始しており[10]、冬季(当初は1月1日から3月31日の間、1940年11月以降は12月中旬から4月中旬の間[注釈 2])は休止されていた[10]ほか、併設されていた霧信号所無線標識局の仕様は以下のとおりであった。

  • 霧信号所:20秒を隔て4秒吹鳴[1][注釈 3]
  • 無線標識局:使用周波数306.8 kHz、測定距離70 km、無線標識信号は「"AW"の反復12秒の後、長符18秒」を3回繰返の後、沈黙4分、海馬島無線標識局・西能登呂岬無線標識局と一群となっている[13]

灯台本体とともに吏員退息所が建設されているが、灯台付近には適切な建設地が確保できなかったため、北方に約27 km離れた、亜庭湾に面した知床村札塔に設けられており(北緯46度15分09秒 東経143度24分32秒 / 北緯46.252629358678035度 東経143.4090113916296度 / 46.252629358678035; 143.4090113916296)、灯台との間は短波無線通信で連絡を取る方式としている[7]。退息所は吏員退息所5棟、庸人[注釈 4]舎1棟、無線電信棟1棟、倉庫1棟の計8棟から構成されており、1939年11月29日に完成し、うち4棟は2004年時点でも使用されていた[7]

本灯台の設計と工事監督は1918年から逓信省航路標識管理所[注釈 5]技手を務め、大阪港北突堤灯台などを設計していた三浦忍[注釈 6]が担当したとされており[注釈 7]東京工業大学名誉教授日本近代建築史)の藤岡洋保は本灯台の設計に関し、曲面を多用したこのデザイン表現主義の影響を感じさせる[17]三浦設計の灯台のうち、同時期のほかの灯台と比較して、デザインのユニークさや細部に至るまでの配慮が見られる点で、大阪港北突堤灯台、中知床岬灯台、「南方測候所」がもっとも注目される[6]としている。

なお、1939年に、かねてより灯台守のことを気にかけることのあった貞明皇后(当時は皇太后)に完成間もない本灯台の模型が献上された際に、皇太后より灯台事業および灯台守の状況の説明が求められ、1940年2月26日に灯台局長が拝謁して説明を行なっている[18]

アニワ灯台[編集]

第二次世界大戦後はソ連軍部の、その後ロシア国防省の所管となっている。戦後1960年代初めまでは海軍兵士12名を含む18名が常駐していたが、その後1962年頃からは3家族の灯台守が常駐していた[7]。また、1968年以降に楕円形平面の基部部分の上部にコンクリートブロック造の3階部分が増築されている[7]

1988年には自動化されて無人となり[7]1990年代頃からは電源として原子力電池の一種であるRTG[注釈 8]が使用されていたが、2006年には運用を停止し、RTGは撤去されている[8]

その後、本灯台は荒廃が進む一方で観光地として人気を博すようになり、2020年におけるアニワ灯台ツアー参加者はコロナ禍前を上回って年間数千人が訪れる状況となっている[20]。この状況を受け、地元ではアニワ灯台の修復など観光地としての整備を求める声が上がっており、地元サハリン州と、灯台を管理するロシア国防省の間でその実現に向けた協議が行われている[20]

歴史[編集]

日本(中知床岬灯台)時代
  • 1937年7月:着工
  • 1939年
  • 1940年11月16日:灯台および霧信号所の冬季休止期間を1月1日 - 3月31日の間から、12月中旬 - 翌年4月中旬の間に変更[21]
ソ連/ロシア(アニワ灯台)時代

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 灯台の座標は点灯当初の逓信省告示では北緯46度1分15秒 東経143度24分54秒 / 北緯46.02083度 東経143.41500度 / 46.02083; 143.41500であった[1]が、『灯台表 第2巻』では北緯46度1分2秒 東経143度24分9秒 / 北緯46.01722度 東経143.40250度 / 46.01722; 143.40250とされている[2]
  2. ^ 実際には5月中旬まで休止していたこともあり、1942年5月6日[11]1944年5月18日[12]の再開であった。
  3. ^ 『灯台表 第2巻』では30秒を隔て5秒吹鳴[2]
  4. ^ 国家等と私法契約に基づいて労務提供を行う非官吏で、主に肉体的労働に従事する[14]
  5. ^ 1885年の逓信省設立時に同省灯台局が灯台を管轄することとなったが、1891年の灯台局の廃止に伴い、灯台業務のうち航路標識事業は航路標識管理所に移管され、その後1925年に灯台局が再度設置されて航路標識管理所は廃止となり、1941年には灯台局と管船局の業務が統合されて逓信省外局の海務院が設置されている[15]
  6. ^ 1896年-1945年1915年神奈川県立工業学校(現・神奈川工業高校)建築科卒、1939年に文部省に異動、1941年に技師に昇格、後に灯台局/海務院技師を兼任[16]、1945年に阿波丸事件により殉職[6]
  7. ^ 本灯台について設計が三浦である明確な証跡は残されておらず、海上保安庁に残された本灯台の図面25枚の設計者名欄は空欄であるが、藤岡洋保は、雑誌『燈光』の記事や三浦家に本灯台の図面が残されていることなどから三浦の設計であると推測しているほか、野母崎灯台、三木埼灯台、舳倉島灯台、黄白嘴吏員退息所についても資料により三浦の関与が確認されている[16]
  8. ^ Radioisotope thermoelectric generator、シベリア北極海周辺ではかつて多数の原子力電池が使用されており、そのまま放置されているものもある[19]

出典[編集]

  1. ^ a b 「逓信省告示第2247号」『官報3773号』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 『灯台表 第2巻』 p.40-41(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 『南樺太における日本期の灯台の現況』 p.287
  4. ^ a b 『南樺太における日本期の灯台の現況』 p.288-289
  5. ^ 『樺太中知床岬灯台建設工事 』 p.32
  6. ^ a b c 『灯台技術者・三浦忍の経歴と作品』 p.620
  7. ^ a b c d e f g h i 『南樺太における日本期の灯台の現況』 p.289
  8. ^ a b c d Владивостокцы зажгли огонь на заброшенном маяке на Сахалине в честь 75-летия Победы во Второй мировой войне (ФОТО)”. Новости Владивосток. 2023年5月15日閲覧。
  9. ^ 『樺太中知床岬灯台建設工事 』 p.33
  10. ^ a b 「逓信省告示第3193号」『官報3848号』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「水路告示第20号17年項外」『官報4608号』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「水路告示第22号19年項外」『官報5214号』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 『灯台表 第2巻』 p.280-281(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 石井滋「雇員・傭人制度研究についての一考察」『社学研論集』第23巻、早稲田大学大学院社会科学研究科、2014年3月、152頁。 
  15. ^ 灯台局”. アジア歴史資料センター. 2023年5月15日閲覧。
  16. ^ a b 『灯台技術者・三浦忍の経歴と作品』 p.619
  17. ^ 『灯台が照らす日本の近代』
  18. ^ 『昭和十六年版 北海道樺太年鑑』小樽新聞社、1941年、30頁。 
  19. ^ 宮崎信之 (1995年). “4.ホッキョクグマと原子力電池による危険”. 北極海におけるワモンアザラシ生物調査と環境モニタリング調査 - フィールドノートから -. 東京大学. 2004年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月15日閲覧。
  20. ^ a b 「「樺太遺産」保存か解体か」『北海道新聞』、2021年4月24日、22面。
  21. ^ 「水路告示第46号15年1002項」『官報4160号』(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献[編集]

書籍

  • 三木邦成『サハリンに揺れた日本の灯台』近代文芸社、1997年。ISBN 489039236X 

雑誌

  • 森田富士助「樺太中知床岬灯台建設工事」『土木建築工事画報』第15巻第1号、工事画報社、1939年1月、32-33頁。 
  • 角幸博、石本正明、角哲、原朋教「南樺太における日本期の灯台の現況」『日本建築学会技術報告集』第13巻第25号、日本建築学会、2007年6月、287-290頁。 
  • 藤岡洋保「灯台技術者・三浦忍の経歴と作品」『日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)』、日本建築学会、2003年9月、619-620頁。 

その他

関連項目[編集]

外部リンク[編集]