ベンジャミン・シーゲル

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ベンジャミン・シーゲル
Benjamin Siegel
ベンジャミン・シーゲル(1928年)
生誕 1906年2月28日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークブルックリン区
死没 1947年6月20日(満41歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ビバリーヒルズ
死因 暗殺
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
別名 Bugsy Siegel
バグジー・シーゲル
職業 ギャングスター
配偶者 エスタ・クラカウワー
両親 父:マックス・シーゲル
母:ジェニー・リーヘンタール

ベンジャミン・シーゲル英語: Benjamin Siegel1906年2月28日 - 1947年6月20日)はアメリカ合衆国ギャング。渾名はバグジー (Bugsy)。禁酒法下の密輸ギャングを経てラッキー・ルチアーノらのマフィア組織の樹立に協力し、1940年代、賭博の街ラスベガスの成立に関わった。

来歴[編集]

初期[編集]

ニューヨークブルックリンで、ウクライナ出身のユダヤ系の貧しい両親の間に生まれる。両親は彼が生まれる数年前にキエフからアメリカへ移民してきた。貧困家庭で育ったものの、家族には裏社会と関わりのある人間はおらず兄は医者の道に進んだが、シーゲルははやくも少年時代からストリート・ギャングとなり、マンハッタンロウアー・イースト・サイド地区のラファイエット通りを中心として窃盗などの犯罪を働き、露天商から上納金を取り立てていた。

この頃、ヘルズ・キッチン地区のアパートベランダから下を歩く警邏中の警察官に水を入れた袋やレンガを投げつけていた。バグジーの渾名はここからきたと言われている。バグジーとはばい菌、害虫、狂人という意味の蔑称で、彼はよほど親しい人間でない限り、自分がそう呼ばれることを許さなかった。

シーゲルは人生で1度だけ正業についたことがある。それはタクシー運転手だった。当時のタクシー利用客はもっぱら富裕層だったため、客を外出先に送り届けた後で客の自宅へ空き巣に入ったという。

禁酒法時代[編集]

1920年頃、マイヤー・ランスキーと知り合い、、武装して窃盗や強盗を繰り返し、車を盗んで闇ルートで売りさばいた。テリトリーを拡大し、周りのギャングに恐れられた(バグズ&マイヤーギャング)。シーゲルはランスキーを助ける一方、彼が派遣するヒットマンともなった。さらにニューヨークの大物ギャングスターだったアーノルド・ロススタインの援助を受け、ランスキーたちと密売を始め、武装してライバルの密輸トラックを襲撃しては酒を横取りし、非合法の酒交換所で売りさばいた。フランク・コステロヴィト・ジェノヴェーゼジョー・アドニスたちと盟友になった。当時のシーゲルは、ナルシストプレイボーイのアドニスが憧れの存在だったという。

1931年、ルチアーノの口ひげピート抗争を手助けし、ユダヤ系殺し屋を率いて、旧世代ギャングのせん滅に力を発揮した。ランスキーが監獄送りにした密輸ライバル、ワキシー・ゴードンに命を狙われた時、監獄のゴードンの命で派遣された殺し屋を返り討ちにした[1][2]。こうしてシーゲルは裏社会での地位を確立し、瞬く間にルチアーノと同じウォルドルフ=アストリアの住人になっていた。

1927年に幼友達のギャングスター、ホワイティ・クラカウワー(1941年殺害)の妹だったエスタ・クラカウワーと結婚した。1930年32年に女の子が生まれる。結婚を機にニューヨーク北部のスカースデールに豪邸を購入したが、ウォルドルフから本拠を動かそうとはしなかった。スカースデールの近所の人たちはシーゲルのことを出張の多い会社重役と思い、ギャングスターとは思ってもいなかったという。

その後、マーダー・インク(殺人株式会社)結成に関与した。1935年にはダッチ・シュルツとも同盟を結び、彼のライバルだった闇金融業者ルイスジョセフのアンバーグ兄弟を殺害。

西海岸派遣[編集]

しかし彼が裏社会で活躍するにつれ警察の追跡は厳しくなり、また個人的にシーゲルを付け狙う人物も出現した。このため1937年にシーゲルは犯罪組織から西海岸での組織拡大も兼ねてカリフォルニア州に送られた。当地のギャングのボスのジャック・ドラグナには組織をまとめる力量がなかったし、シーゲルたちニューヨークの者からすれば、小物のローカル・ギャングだった。西海岸に到着すると彼はハリウッドに目を付ける。手練手管で映画エキストラ組合に強引に入り込み、組合ストを盾に大手映画会社から示談金を巻き上げた[3]。また映画スターから金を借りて返済せず、そうして懐に入れた金は年に40万ドルにも達した。さらに仲間のモー・セドウェイと組んで西海岸の競馬通信社や私設馬券場も勢力下においた[3]

1938年、シーゲルと友人のトニー・コルネロは当時カリフォルニアで違法だったギャンブルをサンタモニカ海岸3マイルの沖でレックス号という船の上で開いた[4]。3マイル沖の海上なら法律の適用外になるという目論見だったが、ロサンゼルスの郡警察はすぐに手入れに乗り出し、レックスを開店即休業に追い込んだ。そのため2人はさらに離れた12マイル沖で始めた。しかし今度は陸地から遠すぎで客がほとんど訪れなかった。この件で2人は大損したという。

1930年代後半、イタリアの伯爵夫人で社交家のドロシー・テイラー・ディフラッソと愛人関係にあった。そのコネを利用して準男爵の肩書を手に入れ、スペインのムッソリーニに近づき、かつ(政治思想とは関係なく)ナチスやファシストの大物幹部の暗殺を本気で計画していた。実行できなかったことを終生後悔していたという。1938年、コスタリカココス島の洞窟に黄金が埋まっているという話を信じ、伯爵夫人をスポンサーにして島のかなりの部分を爆破したが黄金は発見できず、伯爵夫人の5万ドルも吹き飛んだ。

エグザミナー紙がシーゲルの過去について記事を書いたとき、ドロシー伯爵夫人はオーナーのウィリアム・ランドルフ・ハーストの豪邸に自ら出向き、記事を取り下げるように言ったという。それでも新聞はシーゲルの過去を書き続けた。

1940年代初めに、今度は元ショーガールのヴァージニア・ヒルと出会い、付き合うようになった。ヒルは、ジョー・アドニスに紹介されたという。彼女との関係は死に至るまで続いたが、お互いに気分屋で喧嘩も絶えなかったという。友人には「ヴァージニアのベッドテクニックは最高」と言っていた。

ラスベガス[編集]

■フラミンゴ権益の取得経緯

マフィアの入る前から小ぶりなカジノタウンだったラスベガスは、1931年のネバダ州の賭博合法化以後に作られた地元経営者のカジノホテルの営業が良好だった為、さらなる投資の気運が高まっていた。ネバダで適当な場所を探していたランスキーが、1941年頃からモー・セドウェイら配下にラスベガスの小さな賭博クラブの経営に参画させ、地歩を築いたのが始まりで、1945年3月、本格カジノホテルの草分けとされるエル・コルテスに経営参加し、結果は成功した[5][6]。こうした下地があって、ランスキーは、たまたま資金不足で建設を中断していた実業家ビリー・ウィルカーソンのホテル資産(のちフラミンゴホテルと命名された)に目を付けた。1945年11月にホテル建設を開始したウィルカーソンが、カジノを任せようとエル・コルテスからモー・セドウェイとガス・グリーンバウムを引き抜いたのが発端だったとされる。ウィルカーソンは建設予算120万ドルに対して銀行から60万ドル、ハワード・ヒューズから20万ドルの計80万ドルを借り、残りは賭博で稼ごうと大金を注ぎ込み、逆に20万ドルの借金を作って建設中止を余儀なくされた[6]。ウィルカーソンの構想はゴージャスな部屋とスパ、フィットネス、高級レストラン、ナイトクラブ、ジュエリーショップなどを備えたヨーロッパスタイルの豪奢なカジノホテルだった[5][6]。ニューヨークマフィア(以下組織と呼ぶ)から投資金を集めたランスキーは、1946年2月、残りの建設費を全部負担するという条件で3分の2の権益を100万ドルで買い取り、シーゲルを呼び込んで建設責任者に、モー・セドウェイをアシスタントに据えて建設を再開した[7][8](当時の100万ドル≒約1200万ドル@2015年[9])。プロジェクトの受け皿にネバダ・プロジェクト・コーポレーションを設立した。契約ではウィルカーソンがオペレーターの権利を保持する条件だったが、建設が進むうちに骨抜きにされた。

■ホテル建設

シーゲルも、以前からラスベガスの賭博利権に参入していたが、ハリウッドから動かず、世話役のセドウェイらが中心に動いていた[1]。シーゲルは当初乗り気がしなかったがハリウッドのスター仲間を呼び込んでパーティを開いたりするうちに熱心に建設の指揮にあたり始めた。アリゾナの大手建設会社デル・ウェブ社が工事を担当したが、戦争の影響で資材調達が難航し、闇市場の高価な資材を調達してコストはオーバーランした。闇市の資材売り屋は、鋼材や銅をシーゲルに売った後、夜中に侵入してそれらを取り返し、夜が明けてから再び売りつけるなどフラミンゴをカモにした[10][11]。シーゲルは、資材が足りなくなるとハリウッドの映画スタジオに行って製材やパイプを調達したりもした[11]。建物デザインはウィルカーソンの欧州風イメージを元に建築家ジョージ・ヴァーノン・ラッセルが担当したが、途中からリチャード・ステッドルマンに変えた。インテリアデザインはトム・ダグラスが担当した。ハリウッドの洗練された魅力を持ち込もうと何度も設計を変更し、工事は中断・やり直しを繰り返して遅延した[8]。砂漠のオアシス感を出すため世界中の熱帯植物を輸入し、部屋の下水道を独立方式にしたり、ラスベガスでは初となる全館エアコンの導入を試みた(全館エアコン導入は元々ウィルカーソンのアイデア)[8]。高級感を出すため1セット1.1万ドル相当の高価な家具をそろえ、大理石は海外から輸入した[11]。自分のアイデアを実現するため金に糸目を付けず、1946年10月時点で建設費は予算の4倍の400万ドルに達した[8]

これより先、1946年7月にランスキーは資金不足に対応するためエル・コルテスの権益を76万ドルで売り払い、フラミンゴの建設資金に充当した。同年8月、シーゲルは銀行に借入を打診するが、FBIのフーヴァー長官が銀行にシーゲルの過去を記した手紙を送り、借入をブロックされた[10]。シーゲルは架空の株を売って金を集めた。ニューヨークでコスト問題が議論され、シーゲルの資金横領を疑う声もあったが、ランスキーがシーゲルを擁護した。同年11月、組織は資金の使途明細を出すこと、さもなくば一切の資金集めを停止するようシーゲルに警告した。シーゲルは早く開店して利益を出せば文句なかろうと、作業員を倍にし、残業手当を奮発し、工期短縮ボーナスを設定するなど更に資金をばらまいて工事を急がせ、1946年11月末、宿泊エリアを除くカジノ、ラウンジ、シアター、レストランなどが完成した。同年12月22日の週に全米ギャングの集会ハバナ会議でフラミンゴの件が話し合われた。同じ頃シーゲルに脅かされてフラミンゴを追い出され、パリに退避していたウィルカーソンが自分の広報誌でシーゲルの贅沢で過剰な出費と「本当のコスト」をすっぱ抜いた[8]

■上院議員の口利き

政府は戦後の帰還兵の住宅用資材を確保するため民間工事を制限していたが、1946年3月末、生産統制局CPAがシーゲルとデル・ウェブにフラミンゴの工事凍結を命じた[10]。最終的に工事は認められたが、政界実力者の口利きがあったと信じられている。FBIはシーゲルがネバダ州地盤の上院議員パット・マッカランにリベートを送ったと見て収賄の疑いでシーゲルとマッカラン両方をマークしていた(1946年8月26日付のFBIメモ[10])。FBIにマッカランとの関係を質されたシーゲルは地元の慈善団体に500ドル寄付しただけと、リベートを否定した。一説によると、マッカランは資材待ち工事リストでフラミンゴプロジェクトの順位を上にして資材の供給を優先的に受けるようにしたとも言われた[11]。当時のロスの新聞が「住宅がなく帰還兵が路頭に迷っているのに政府は娯楽ホテルの建設を許可した」と批判した。

■営業開始

1946年12月26日にホテルをオープンした。ウィルカーソンが設定した1947年3月の開店予定を前倒しした。天候不良が重なって客の入りは良くなかった。濃霧でロスの飛行機が飛べず多くの招待客が欠席した[10]。友人の俳優ジョージ・ラフトは車で駆け付け、その他俳優仲間は列車で来た。客は工事の騒音で迎えられた。エアコンも人工滝も作動しなかった。セレモニーではコメディ俳優のジミー・デュランテやローズ・マリーのパフォーマンスがオープニングを飾った[11]。ステージ前に集まった客は80人程度だった。カジノでは2人の賭博師が10万ドルずつ当てた[11]。宿泊設備はまだ工事中で使えず、泊り客は他のホテルに泊まった[11]。その後、2週間で30万ドルの損失を出した挙句、休業した。この間、シーゲルはラフトから10万ドルを借りた。カジノの胴元が損失を出すなどギャング賭博の通例では考えられず、組織はシーゲルのピンハネを疑った。その後、未完成部分の建設を続けようとした。組織は最期のチャンスを与え、シーゲルは広報担当にハンク・グリーンスパンを雇って宣伝に努め、1947年3月に再オープンした(セレモニーにはランスキーも出席)。以前に比べ客足は伸びたが、それでも組織が予想した利益よりはるかに少なかった。少しずつ利益が上がり始めるが、その頃には組織の態度は幻滅と怒りに変わっていた。シーゲルは、ニューヨークから派遣された組織の調査チームに傲慢な態度を取り、邪険に追い返したりしたとされる。ランスキーの言葉にも耳を貸さなかった[10]とも、またハバナ会議後にルチアーノに直談判しに行き、喧嘩別れした[6][12]とも、噂された。1947年4月、ホテルの総建設費は600万ドルに達し、当初の予算を500万ドルもオーバーした[8]。シーゲルの節操のない大盤振る舞いや浪費が明るみになった。1947年5月、シーゲルからの収支黒字化の報告は組織を驚かせた[13]。6月、愛人のヴァージニア・ヒルが現金60万ドルを持ってヨーロッパに逃げたという情報が関係者を駆け巡った[10]

最期[編集]

1947年6月20日夜10時40分頃、カリフォルニアビバリーヒルズの愛人ヒルの邸宅で、友人との夕食を終え帰宅したばかりのシーゲルがソファに座り新聞を読んでいるところを、庭陰で待ち伏せていた殺し屋にM1カービン銃で窓越しに銃撃され、計9発中4発が顔や胸に命中して殺された(両目が吹き飛ばされ左目が部屋の反対側の壁で見つかった)。

暗殺は、建設費の浪費、組織マネー横領を理由とするニューヨークマフィアの、又はシカゴアウトフィットを含めた全米シンジケートの、粛清と一般に信じられている。建設現場では闇市の資材商人の窃盗が横行したが、シーゲルがこの窃盗団の存在に気づき途中からバックリベートを受け取っていた[6]とも、多額の資金を掠め取って愛人ヒルに貢いでいたとも言われた。シーゲル暗殺は、1946年12月の全米シンジケートのハバナ会議で既に決定されていたとも言われた[14]

シカゴアウトフィットが裏で絡んでいるとの説も根強く信じられた。アウトフィットはシーゲルとドル箱の競馬通信社を巡って対立していた[3]。ニューヨークを含めて全米シンジケートはシーゲルが競馬通信社の利権を放棄すべきとの立場だった。シーゲルはフラミンゴの資金不足に対応するため、競馬通信社のサービス料金を2倍に値上げし、西海岸一帯のブックメーカーから苦情が殺到した[10]。これがアウトフィットとの摩擦を激しくしたと信じられた。また、地元マフィアのドラグナ一家のジャック・ドラグナと共同で競馬通信社を運営していたが、ある会議でドラグナを運営から排除することにしたといい、これを恨んだドラグナ一味が暗殺に関わったとの説もある[3]

ヴァージニア・ヒルは、元アウトフィットの闇金運びの女で、過去、地下賭博の精算金を持って全米を行き来していた[3]。ヒルを使ってニューヨーク勢の金を垂れ流させ、シーゲルを自滅に追い込んだのではないかという謀略説もある[15] 。ヒルによってシーゲルの一挙手一投足がアウトフィットに筒抜けだった。ヒルはシーゲル暗殺時フランスにいたが、一説には「暗殺予定日」の10日前にアウトフィットに呼び戻され、アウトフィットの指示でシカゴからフランスに向かった[16]

またシーゲルは、1947年3月頃、世話役のモー・セドウェイと不和になり、彼をフラミンゴから締め出していたが[11]、不和の原因は一説にセドウェイがシーゲルの素行調査を始めたことに起因するという。警察は、シーゲルとセドウェイの喧嘩がベガス界隈では常識だったとの賭博師の証言を元に、セドウェイを真っ先に取り調べした[10]

シーゲルは仲間を呼び集めてニューヨークから独立したカリフォルニアシンジケートを創ろうとしていたとも言われた[3]。シーゲルは若い時に優秀な暴力装置としてライバルのせん滅、組織の防衛に力を発揮し、仲間を助け、へまをせず、火の粉が自分に降りかかっても自分で振り払い、組織に自分がいかに有用な人間かを常に証明してきた男だった。カリフォルニアに移った後のシーゲルの我儘な振る舞いは寛大に扱われ、譲歩するのは常にニューヨーク側で、シーゲルに対する信頼は変わらなかった。変わったのはシーゲルの方で、ハリウッドの映画スターに囲まれ、華やかな社交界で天狗となり、昔の仲間との絆をスラム街の記憶と一緒にごみ箱に捨てた。ニューヨークマフィアの仲間は、彼に最大限の屈辱を与えるべく、その死を完全無視した。

シーゲルを建設責任者という大役に任命したランスキーは、その任命責任とフラミンゴプロジェクトの統括責任者としての二重の責任があり、ランスキーにもぺナルティがあったと見られたが、粛清は免れた。またフラミンゴ投資を積極的に勧めたフランク・コステロも投資仲間に恨まれたが、ルチアーノの仲裁で金を返すなどして事なきを得たという[10]

シーゲルと父マックスの名が刻まれた記念額(ビアリストーカー・シナゴーグ)

シーゲルの遺体はハリウッド・フォーエバー墓地に埋葬された。ロウアービアリストーカー・シナゴーグの記念額には、シーゲルの名が彼の2ヶ月前に亡くなった父マックスと共に刻まれている。

ラスベガスのその後[編集]

フラミンゴホテルは、シーゲルの暗殺後、オーナー会議が開かれ、サンフォード・アドラーらに経営を任せたが利益が上がらなかったため、1948年ニューヨークマフィア配下のモー・セドウェイやガス・グリーンバウムらの経営体制に移行した[11]。モーとグリーンバウムは、それまでのカジノの主流だった、カーペットジョイントと呼ばれる高級カジノ志向を捨てて大衆的な低価格路線を打ち出し、これが戦時中の配給制で禁欲を強いられたアメリカ市民の娯楽欲求に火をつけた。全米から客が大挙して押し寄せる大ブームとなり、その後のラスベガスの繁栄のきっかけを作った。時代の流れを読み切ったモーの戦略とブックメーカーとして場数を踏んだグリーンバウムの経験値が合体し、フラミンゴを成功に導いた。様子見を決め込んでいたニューヨーク以外のマフィアが一斉にラスベガスになだれ込み、大型カジノホテルを次々とオープンした。これらマフィア支配下のカジノホテルはカジノ収益のスキミング(ピンハネ)を開始し、後で脱税追及を徹底的に受けることになった。1948年のフラミンゴの利益は400万ドルだったが[6][3]、スキミングする前の総利益は、一説に1500万ドルとも言われた[3]

エピソード[編集]

  • 性格は荒っぽく気分屋だったが、社交的で女好きだった。手入れを欠かさない美髪に映画スター並の甘いマスク、当時としては破格の200ドルもするスーツとハンドメイドでシルクのシャツにジム通いで鍛え上げた180センチを超す長身を包んでいた。指にもマニキュアを施すなど装いには手間を惜しまなかった。ナイトクラブやレストランではウェイターらに気前よくチップをはずんだという。
  • 彼はギャングからハリウッド・スターに転身したジョージ・ラフト(ニューヨークのチンピラ時代からの友人)と親交を持ち、自身も甘いマスクでであったことから西海岸に移った時カメラテストを受けるなど本気で俳優転身を考えたことがあると言う。
  • (フラミンゴ開店したての頃)シーゲルと知り合いだったジミー・フラチアノ(後に証人保護プログラムに入る)には「これからラスベガスはどんどん大きくなるぞ」などと自分の夢を語ったりしたという。
  • ある時フラミンゴで機嫌よく過去の人殺しを語り始めた時、その場にいた建設業者のデル・ウェブが引いた。シーゲルは「心配ないよデル、我々は我々だけで殺しあうだけだ」(Del, don't worry, we only kill each other)と言ったという[17]
  • シーゲルの暗殺後、フラミンゴホテルにモー・セドウェイやガス・グリーンバウムらが乗り込んで「今日から我々がここの新しいオーナーだ」と宣言し、その場にいたフラミンゴの株主サンフォード・アドラーを威嚇し、アドラーは悲鳴を上げながら逃げ回ったという逸話がある(この逸話はシーゲルの暗殺後にフラミンゴに入って乗っ取り宣言した[6][8][11]ことと、暗殺から9か月後に経営権を手放さないサンフォード・アドラーに暴行した事件[11]を都合よくミックスしたものである)。

関連作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b The Real Bugsy Siegel Den of Geek, Oct. 2014
  2. ^ Benjamin "Bugsy" Siegel: The Gangster, the Flamingo, and the Making of Modern Las Vegas, p10 Larry Gragg, 2015
  3. ^ a b c d e f g h Bugsy John William Tuohy, 2001
  4. ^ S.S. Rex
  5. ^ a b This Day in History Dec 26
  6. ^ a b c d e f g The Fabulous Flamingo Hotel History - The Wilkerson-Siegel Years
  7. ^ History of the Flamingo
  8. ^ a b c d e f g History of the Flamingo Hotel – Gambling in Las Vegas
  9. ^ アメリカCPI
  10. ^ a b c d e f g h i j Las Vegas Babylon: The True Tales of Glitter, Glamour, and Greed Jeff Burbank, 2008
  11. ^ a b c d e f g h i j k The Flamingo - The First Years Stephen Fischer, 2005
  12. ^ Fortune's Formula: The Untold Story of the Scientific Betting System That Beat the Casinos and Wall Street p8, William Poundstone, 2008
  13. ^ Who Killed Bugsy Siegel? Los Angeles magazine, Oct. 2014
  14. ^ フラミンゴが利益を出せばシーゲルを許すとの結論だったとの説もある。
  15. ^ ヒルはシーゲルの死後ランスキーの求めに応じてスイス銀行に投じた(組織の)金を返却したという。Lansky's mob helps the war effort, then helps itself to gambling profit The Ledger, 1979年11月4日付
  16. ^ Virginia Hill part four Joe Bruno On the Web
  17. ^ 'Bugsy' Siegel - The mob's man in Vegas Ed Koch, 2008

外部リンク[編集]