サルヴァトーレ・マランツァーノ

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サルヴァトーレ・マランツァーノSalvatore Maranzano, 1886年7月31日 - 1931年9月10日)は、シチリア島の犯罪組織コーサ・ノストラのボス。6か国語に精通したインテリマフィアで、ローマ帝国ジュリアス・シーザーに憧れ、シチリアマフィアが世界を支配するという壮大な夢を持っていたが、シチリア人以外の参加を認めなかったため、国際的シンジケートを目指すルチアーノに暗殺された。

来歴[編集]

渡米[編集]

シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォ生まれ。神父を目指したが断念してマフィアになることを目指す。1925年にボスのヴィト・カッショ・フェロの命により、アメリカに渡り、ブルックリンでカステラマレ地方出身のシチリア移民が多く住むウィリアムズバーグに定住した。

マランツァーノは、いい暮らしを求めて渡米した多くの貧乏な移民と異なり、最初から裕福なビジネスマンとして登場した。不動産ビジネスを手掛ける傍ら、ニューヨーク市近郊のダッチェス郡ワッピンガーズフォールズに非合法の酒醸造所を作り、仲間を取り込んで密輸ギャングを組織して密輸ビジネスを始めた。フランク・コステロの手助けもあって、密造酒の密売で財をなし勢力を拡大した。密輸で稼いだ金で釣り船の操業や農場も所有した。

部下にヴィト・ボンヴェントレ、フランチェスコ・イタリアーノ、ヴィンセント・ダッナ、セバスチャン・ドミンゴ、チャールズ・ディベネディット、ナターレ・エヴォラ、ガスパール・ディグレゴリオジョゼフ・ボナンノらがいた。また、バッファローのステファノ・マガディーノやデトロイトのガスパー・ミラッツォ、フィラデルフィアのサルヴァトーレ・サベッラ以下アメリカ北東部のカステラマレ出身のギャングとも緊密な連携を図った。

禁酒法下ニューヨークは酒の密輸ビジネスが横行し、マランツァーノは周囲のギャングと密売ビールの販売を巡り争った。ブロンクスハーレムを牛耳っていたダッチ・シュルツとも対立した。

カステランマレーゼ戦争[編集]

シチリア出身の有力ボス、ジョー・マッセリアがマンハッタンからブルックリンに進出すると、対決姿勢を強めた。マッセリアはカステラマレ移民に高額な上納金を課し、支配下に取り込もうとした。マランツァーノは反発してマッセリアの密造酒トラックを横取りしたり、マッセリア傘下の酒場を荒らした。アル・カポネの支配下にあるシカゴのビール密造業にも進出を試み、カポネと同盟したマッセリアと対峙した。カステラマレ移民のギャングボスは当時コラ・シーロだったが、1930年初め、マッセリアに上納金(一説に1万ドル)を払い、副ボスのジョー・パリッノに組織を譲って行方をくらませた(イタリア逃亡)。ボスを継いだパリッノはマッセリアと密約して彼の傀儡になったためボスの地位をはく奪され、代ってマランツァーノが新ボスに選ばれた。1930年2月、マランツァーノ派に寝返っていたガエタノ・レイナの殺害をきっかけに、カステランマレーゼ戦争と呼ばれる抗争に突入した。マランツァーノは自前の暗殺部隊を組織し、マッセリア一家の部下を8人ほど殺害した。1930年11月、マッセリア陣営の中核で屈強な兵隊を率いたアル・ミネオとスティーブ・フェリーニョの暗殺に成功した。同じ頃マッセリア陣営のギャングがマランツァーノに鞍替えし始め、形勢はマランツァーノに有利になった。マッセリアの部下ラッキー・ルチアーノと密かに通じ、1931年4月15日、コニーアイランドのレストランでマッセリアは暗殺され、抗争は収束した。

五大ファミリー[編集]

1931年4月、マッセリア暗殺から2週間後、ブロンクスで数百名のギャングを招集して勝利宣言し、統一された新たな組織運営(ニューヨークを五つのファミリーに分割する)と規律を発表して非シチリア人のコーサ・ノストラ加入を禁止した。この時に、各地区のファミリーの縄張りを規定し、全米で24のファミリーが提携された。構成員の多いニューヨークだけは5つの勢力に整理して五大ファミリーとし、ボスをマランツァーノ、ルチアーノ、フランク・スカリーチェトミー・ガリアーノジョゼフ・プロファチの5人とした。全てにおいてイタリア人的で独裁的であったマランツァーノに対し、心の底では世代交代と他国系犯罪組織との友好関係を望んでいたルチアーノは彼の排除を決心した。

1931年5月、シカゴで行なわれたギャングスターの集まりで、アル・カポネのことを「かつてはマッセリア側についていたが、今は親睦を深めたいと願っている」と演説をし、彼をシカゴ・ファミリーのボスと認めた。この時集まった全員が拍手した。表ではルチアーノとは和解し、シカゴのカポネを認めていたが、裏では、自分がボスの中のボスであるために、ルチアーノ、カポネ、ヴィト・ジェノヴェーゼ等は危険分子と見なしていた。

終焉[編集]

1931年9月10日、連邦捜査官に扮した4人組がパーク・アヴェニューヘルムズリー・ビル9階のマランツァーノの事務所を訪れ、連邦捜査官(Federal Agents)だと名乗り、4人組の1人が、中にいた8人を壁際に並ばせた。その間に他の3人が奥のマランツァーノの部屋に入っていった。部屋の方から言い争いの声や怒号が聞こえ、続いて取っ組み合いして格闘している音が聞こえた。最後にピストルの音が鳴った。4人は飛び出して逃げた。壁際の8人も秘書を残して逃げた。秘書が部屋に入るとマランツァーノが死んでいた。遺体には刺し傷6つと4発の弾痕があった。殺し屋は連邦のバッジをしていたため、マランツァーノもその他も、連邦の刑事が密輸の捜査に来たと信じ切っていた。彼らはナイフで静かに殺そうとしたが、マランツァーノが暴れて抵抗した為、ピストルで射殺したと信じられた。

ルチアーノはマランツァーノに顔を知られていないユダヤ系の殺し屋を雇ったとされ、殺し屋の手配にランスキーバグジー・シーゲルが関わったとされた。殺し屋は一説にサム・レヴィン、シュルツの側近ボー・ワインバーグなどとされる。マランツァーノはひそかにルチアーノを暗殺しようと計画していたが、それを察知したルチアーノに先手を打たれたとする説もある。ルチア-ノに暗殺計画を密告したのは、カステランマレーゼ戦争でマランツァーノ陣営に加わっていたトミー・ガリアーノ配下のトーマス・ルッケーゼとも言われた。またルチアーノは、マランツァーノが連邦国税局IRSの調査対象になっていることを知り、殺し屋をIRSの制服に変装させたともいう。

マランツァーノは妻のエリザベッタ(1964年死去)と共にニューヨーク市クイーンズ区セント・ジョーンズ墓地に埋葬されているが、ここには奇しくもルチアーノとジェノヴェーゼの墓もある。

暗殺以後[編集]

ボナンノを含めてマランツァーノの部下たちは、ボスが殺されたにもかかわらず、ルチアーノに対し復讐をしなかった。言い伝えではマランツァーノの死後、ルチアーノの呼びかけに応じてカステラマレ勢力とルチアーノとの間で話し合いがもたれた(内容不明)。その後、新ボスを決める投票が行われ、ボナンノが有力幹部フランチェスコ・イタリアーノを負かして新ボスに選ばれ、マランツァーノの縄張りを継いだ。

ルチアーノがコーサ・ノストラを主導し、各地の犯罪組織のネットワーク化、組織運営の合議制化、制裁機関の設置などを実行して組織の近代化を推進した。ニューヨークを五つのファミリー(五大ファミリー)で統治するというマランツァーノのアイディアをルチアーノは受け継ぎ、実行に移すことになる。

エピソード[編集]

  • 彼のブルックリンにある家の自室の壁4面すべてに本棚がそなえてありジュリアス・シーザー関連の本で埋め尽くされていたという。ちなみにそれらの本をラテン原語で読む教養人であり、ジョゼフ・ボナンノをして“禁欲的な知識人であり、生まれながらの戦士である”と言わしめている。
  • マランツァーノはルチアーノに、マイヤー・ランスキーたちを裏切れとも言っていた。彼はユダヤ人を毛嫌いしており、シチリア人だけの組織を作ろうとしていた(反ユダヤという点ではマッセリアも同様だったが)。またルチアーノにマッセリアを裏切るよう仕向けたが、裏切りに乗らなかったため彼を拷問にかけ、顔に一生残る傷をつけた。この拷問はルチアーノにライバルのマランツァーノへ恨みを持たせるために当時ルチアーノのボスだったマッセリアが仕組んだ「殺さない暴行劇」だったとする説もある。
  • マランツァーノは、ヴィンセント・"マッド・ドッグ"・コールにルチアーノの暗殺を依頼していたというエピソードがある。コールはルチアーノ殺害を前払い金2万5千ドル、成功報酬2万5千ドルで請け負ったが、殺害を実行せず資金を着服したという。1963年のジョセフ・ヴァラキの供述によれば、コールはルチアーノを待ち伏せるためマランツァーノの事務所のあるビルにやって来たが、マランツァーノを殺したばかりのルチアーノの手下が逃げてくるのとビルの階段ですれ違った。彼らからマランツァーノが死んだことを聞いたコールはすぐにビルを出て帰った。
  • マランツァーノが殺された時、殺し屋をマランツァーノの事務所まで手引きしたのはルッケーゼという説がある。ルッケーゼは殺し屋を引き連れ事務所に来ると、頭の動作でマランツァーノを指して誰がマランツァーノかを殺し屋に教え、マランツァーノが殺し屋と格闘している間、傍らで傍観していたとされる。
  • 1963年マフィアの暴露本を出したニコラ・ジェンタイルは、マランツァーノが殺害された時、殺し屋をマランツァーノの事務所まで手引きしたのはボナンノだとした。ボナンノは1983年の自叙伝でマランツァーノの暗殺を事前に知らなかったとして殺害関与を否定した。
  • マランツァーノ暗殺後、48時間以内に全米の30~40人の口ひげピート(旧時代のボスの蔑称)が殺されたとする伝説(「シチリアの晩祷の夜」)があるが、実際は大量殺戮の事実はなかった。出元の1つはダッチ・シュルツの弁護士デキシー・デービスの誇張した回想(マランツァーノ死後90人が死んだ云々)ではないかと指摘されている。
  • トミー・ガリアーノの配下としてマランツァーノの対マッセリア暗殺チームに加わり、多くの暗殺現場に居合わせたジョゼフ・ヴァラキは、マランツァーノ暗殺より少し前に、ルチアーノからマランツァーノにあまり近づくなというアドバイスを受けたが、暗殺までそのアドバイスの意味がよくわからなかったという。

外部リンク[編集]