マイヤー・ランスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
マイヤー・ランスキー
Meyer Lansky
Meyer Lansky NYWTS 1 retouched.jpg
マイヤー・ランスキー(1958年)
生誕 Меір Сухаўлянскі
マイェル・スホフラニスキ

1902年7月4日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国グロドノ
死没 1983年1月15日(満80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ州マイアミビーチ
死因 肺癌
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 ギャング

マイヤー・ランスキー英語: Meyer Lansky, 1902年7月4日 - 1983年1月15日)はユダヤ系ロシア人のギャング。本名はマイェル・スホフラニスキ(Majer Suchowlański)。ルチアーノらマフィアの財政顧問。

生涯[編集]

若年期[編集]

当時ロシア帝国領だったフロドナ(現在のベラルーシグロドノ)でポーランドユダヤ人の両親の間に生まれる。1911年、一家で渡米し、ニューヨークブルックリンのブラウンズヴィル、次いでマンハッタンロウアー・イースト・サイドのグランド通り周辺に住んだ。1916年頃、不良グループのボスだったラッキー・ルチアーノに用心棒代を払うのを拒否して喧嘩し、以後友達となった。父に薦められ機械工の見習いとなったが2年で辞め、アイルランド移民の少年仲間とクラップゲーム(サイコロ賭博)をやっていた。1921年頃、ゴールド・ダスト・ツインズというユダヤ人ギャング団に入り、"バグジー"・シーゲルと知り合った。車を使った窃盗団を組織し、近所の商店や金貸し屋をゆすっては商品を強奪して転売し、他のストリートギャングに恐れられた(バグズ&メイヤーギャング)[1]。ウイリアムズバーグ・ブリッジの下にあった倉庫に盗難車を蓄え ギャングに貸し出した[2]

マイヤー・ランスキー Meyer Lansky 1958

禁酒法時代[編集]

フランク・コステロを通じてアーノルド・ロススタインに認められ、ルチアーノと共にヤミ酒輸送ネットワークの一員になった。輸送中の酒を武力で横取りして非合法の酒取引所で転売した。やがてワキシー・ゴードンらとロススタイン配下のスコットランドの蒸留酒業者との間の配送ルートを確立した。偽造スタンプ工場の設立からラベル印刷、輸送トラック・貨物船の購入まで密輸稼業を本格化させ、売りさばいて得た莫大な収入を、地下賭博場の設立や政治家・警官の買収に当てた。1920年代中頃、サム・ブロンフマン一味のカナダ産酒を海上ルートで密輸入し、東海岸の密輸グループ「ビッグセブン」の一角を占めた[3]。1928年ロススタインが死ぬとその賭博興行の利権を受け継いだ。ルイス・"レプケ"・バカルターエイブ・レルズと知り合うと、麻薬ビジネスにも手を染めた(賭博に専念するため程なく離脱したとされる)。 1930年のカステランマレーゼ戦争ではサルヴァトーレ・マランツァーノに顔を知られていない無名のユダヤ系殺し屋を集めてルチアーノの対「口髭ピート」抗争を手助けした。翌年、ルチアーノがニューヨーク・マフィアを制すると、ルイス・バカルターやシーゲルと共にマーダー・インクの設立に関わった(一説にランスキーの発案ともいう)。アイルランド系、ユダヤ系、イタリア系移民の横の連携作りに尽力し、1934年にウォルドルフ=アストリアでジョニー・トリオらと全米犯罪シンジケートを立ち上げた[4]

ギャンブルの国際展開[編集]

南下政策[編集]

故ロススタインが深く関わっていた賭博リゾート、サラトガスプリングスでコステロらと共に違法賭博のノウハウを学び、1933年の「禁酒法」廃止と前後してニューヨークの外に進出した。ケンタッキー、フロリダ、ニューオリンズ、西海岸などに次々とヤミ賭博の拠点を作った。カーペットジョイント(高級賭博クラブ)運営をベースに、競馬やドッグレースも手掛け、私設馬券場、競馬通信社を支配した。シーゲルを西部に派遣しロサンジェルスに拠点を作り、ネバダ州の賭博合法化によりラスベガスにも進出を開始した。1938年、当局の手が及ばないキューバに目をつけ、バティスタ政権に賄賂(一説に300万ドル)を送って賭博リゾートの利権を独占した[5]トラフィカンテJrカルロス・マルセロら全米のギャング仲間と儲けを分かち合った。儲けた金はスイスのダミー会社に送金、資金洗浄した(マネーロンダリング)。

選挙協力と合法偽装[編集]

1938年、フランク・コステロとランスキーは25万ドルの秘密基金を作り、同年ニューヨーク州知事に出馬したトーマス・デューイの選挙資金を負担したと言われる。彼は選挙資金としてその金を受け入れ、その年の選挙には敗れたが、それから二度と彼らの脅威にならなかったという。1944年のデューイの大統領選挙出馬でも資金援助したとされる[1][6]

第二次大戦中、ルチアーノ釈放と国内のドイツスパイ掃討作戦を通じてOSS(CIAの前身)とのコネを築いた[1]。またルーズベルト大統領とキューバのバティスタ大統領との会談をセッティングしたと言われる。のちマイアミやキューバ、バハマなどカリビアン諸国に投資会社を多数設立してヤミ資金の流れをかく乱し、トーマス・デューイなど著名な政界OBを会社の重役に据えて合法偽装した[6][7][8]

フラミンゴ・ホテルとラスベガス[編集]

フラミンゴの建設プロジェクトにシーゲルを任命したが、戦時中の資機材の高騰や建設の遅延、シーゲルの気まぐれな設計変更等で建設は難航した。シーゲル自身の放蕩などで数百万ドルの資金を溶かしたとされ、シーゲルは責任を取らされて1947年に暗殺されたが、シーゲルにプロジェクトを委ねたランスキーにも制裁があったと噂された。戦後状況が好転し、人気リゾートとして成功した1950年代には、フラミンゴやサンズなどホテル賭博の上がりを大胆な手法で脱税・ピンハネした[9]

キューバの成功と失敗[編集]

1951年のキーファーバー委員会でコステロらマフィアの大物が次々と狙われる中、「小物」と見なされ、1952年にサラトガの違法賭博で3ヶ月の禁固刑を受けた。同年マイアミ北部のハレンダール市に移住した。1952年、キューバのバティスタが軍事クーデターを仕掛けた際、クーデターの準備に資金協力し[5]、バティスタ政権の賭博政策のアドバイザーとなった[10]。1950年代後半キューバに独自の拠点を作ろうとしたニューヨークマフィアのアナスタシア一家のボス、アルバート・アナスタシアと衝突するとコステロ一家のヴィト・ジェノヴェーゼと結託した[11]

1959年1月、カストロの革命政権が誕生するとキューバに莫大な資産を残してマイアミに逃げ帰った。虎の子のホテルリヴィエラは没収され、一説に1600万ドルを損したという[12]。帰米してすぐFBIと接触し、カストロ打倒その他状況の打開を訴えた[13]

1959年2月、シンジケート仲間のアブナー・ツヴィルマンが自宅で首つり死体で発見され、警察は自殺と結論付けたが、FBIはランスキーが首謀したと信じた[14]。同年9月、ジェノヴェーゼ一家幹部アンソニー・カルファノが暗殺されたが、収監中のジェノベーゼと殺害を共謀し、そのフロリダのタンパ市のカジノを奪ったとの説がある[15]

バハマ投資[編集]

1950年代よりバハマ諸島に進出を開始し、ウォール街の投資家ウォレス・グローブスやカナダ人ルー・チェスラーらを動かしてバハマ支配政党PLPからカジノの独占権を得ると、組織的なキックバックや集団ローン手法でカジノの上がりを掠め取り、これをニューヨークマフィア他全米ギャングに分配した。1960年代後半、キューバの革命暴動を予測できなかった反省から政治腐敗化したバハマの与党PLPを、スキャンダル汚職の暴露を通じて政権から追い落とし、賭博ライセンスの政治的保証と引き換えに野党のピンデリングの政権樹立に協力した[16]

ユダヤ人脈[編集]

禁酒法時代のランスキーの協力者はニューヨーク地元のユダヤ人脈に限られ、そのほとんどは街の愚連隊上がりの便利屋風情だった。全米に進出した1930年代後半より賭博興行のノウハウを持ったキャリアを増やし、プロジェクトごとに少数精鋭の賭博チームを率いたと推定されるが、具体的なオペレーションは闇に包まれている。ランスキーの長年の仲間では、ラスヴェガスのフラミンゴホテル建設でランスキーの手足となって動いたモー・セドウェイ、イスラエルに帰化を果たし、ランスキーの帰化に尽力したドク・スタチャーなどがいた。

晩年[編集]

1960年代、ギャンブル、ホテルゴルフコースへの投資などで3億ドルを儲けたと言われる。1960年代からFBIのターゲットとなっていたが、1970年脱税容疑を受けてイスラエルに逃亡した。2年後、帰化申請が却下され、国外追放されると、アメリカ政府は訪問先の中南米諸国にランスキーを入国させないように圧力をかけた[17]。アメリカに強制送還されたが保釈された。1976年に病気と老齢を理由に告訴は取り下げられ、FBIはランスキーの身辺調査を中止した。

マイアミの閑静な隠れ家で質素に暮らし、1983年1月15日肺癌で死去した。

3億ドル以上の資産を残したと言われたが[18][19]、本人名義の資産は5万7千ドル(鑑定額)で、彼の死後に遺族が発見したのは手紙類、200ページの手書き人生メモ、裁判書類、詩集コピーなどで、スイスバンク口座も札束の塊も発見されなかった[12]。「資産を持たず資産を持った部下を持った」などと言われた。妻テディの死後、孫たちの間で「失われた資産」探しが始まったが、いまだに見つかっていない。

組織上の立場[編集]

ヴィンセント・テレサニューイングランド一家所属)によれば、ランスキーはラスベガス等のギャンブルで全米のコーサ・ノストラの組織を儲けさせているが、あくまでコーサ・ノストラの代理人としてのそれであり、代理人として正直に振舞っている上では役に立つが、そうでなければいつでも消される立場にあるとしている[20]。またアンソニー・サレルノジェノヴェーゼ一家)は、ランスキーの死に際し、「ジェノヴェーゼ一家のワークスタッフに過ぎない。何をやるにもヴィンセント・アロ(ジェノヴェーゼ一家)を通さなければならず、独立した権力もなかった」とFBIに語った[21]。これらマフィアの内部証言者2人とも、世間に定着した「暗黒街の大物」「闇社会の帝王」のイメージを否定した。

「暗黒街の大物」の虚実[編集]

FBIの盗聴記録から、「生活の必要は自分から多くのものを奪った」、「戦争で大金持ちになった人々がいるが、彼らは職を持つべきではない」などと、富豪と思えないような発言(愚痴)を繰り返していたことが判明した[21]。息子の手術代を払えずヴィンセント・アロに用立ててもらったエピソードも後になって露見した[22]。晩年に滞在したイスラエルでのテレビインタビューではマスコミで言われている「3億ドルの資産」を真っ向から否定した。彼の質素な生活が、謙虚なライフスタイルの反映でも富豪のイメージを隠す偽装でもなく、実際の財政状態を表していたのではないかとの指摘もある[21]

エピソード[編集]

  • ルチアーノとの出会いはユダヤ人の用心棒などをやっていたルチアーノが、小柄だったランスキーに目を付けて自分を雇わせようとしたのが発端で、ランスキーは用心棒など要らないと突っぱねた。ランスキーが体格で大きく上回る自分に断固とした態度をとってきたことに驚いたと言い、以降無二の親友となった。身長は低く160前後だったという。
  • 第二次世界大戦直後、ユダヤ人国家であるイスラエル建国のため、ユダヤ人地下組織に多数の武器を提供したとされる。イスラエルはいかなるユダヤ人にも市民権を与える帰還法の申請を、多額の献金を受けていたにも関わらず、ランスキーに認めなかった。
  • ラスベガスでは彼の言葉がそのまま法律になったと言う。まわりは彼のことをミスター・ランスキーと敬意を払って呼んでいた。
  • ビジネスライクな公正さと誠実さで暗黒街ボスたちから絶大な信頼を得た。
  • 少年時代満足な教育を受けなかったコンプレックスから生涯読書家で通した。数字に強く、経済学の研究書を読み、経済感覚に秀でていた。マネーロンダリングの創始者とも言われた。
  • 人と会う時は賑やかな街中で会い、公衆電話を多用した。1960年代からマイアミの自宅に盗聴器が仕掛けられていた[21]
  • 非合法の活動を60年以上続ける中で、刑務所で過ごしたのは総計3ヶ月半。彼が長年摘発を免れたのはフーヴァーFBI長官と密約があったからだなどと噂された[1]
  • 晩年のランスキーから「自分が死んでも生活の心配はない」と言われていた妻のテディは、ランスキーが死んでいざ彼の顧問弁護士に相談してみると全く要領を得ない答えが返ってきた。しばらくして、ジェノヴェーゼ一家幹部で長年ランスキーの補佐役を務めたヴィンセント・アロがテディを訪れ、預かっていたものの返却だと12万5千ドルを置いていった。テディはこの金で優雅に余生を送ったという[12]

題材にした作品等[編集]

その生涯は『モブスターズ/青春の群像』(1991年)、『ランスキー』(1999年)などの映画で取り上げられている。また、『ゴッドファーザーPARTII』に登場するユダヤ系ギャング・ハイマン・ロスはランスキーがモデルである。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d The Money and the Power - The Making of Las Vegas and Its Hold on America, 1947-2000
  2. ^ New Yorkers and Booze, and Why Prohibition Won't Work
  3. ^ The Wexler / Gordon Story
  4. ^ MEYER LANSKY IS DEAD AT 81; FINANCIAL WIZARD OF ORGANIZED CRIME New York Times, 1983.1.16
  5. ^ a b The History of Cuban-American Relations
  6. ^ a b Thomas Dewey United States History
  7. ^ Thomas Dewey Carpe Noctem
  8. ^ The Affairs of State, p273 Tim Steele (2004)
  9. ^ The Sands, John William Tuohy
  10. ^ Little Man: Meyer Lansky and the Gangster Life, Robert Lacey, 1991
  11. ^ Vito Genovese Carpe Noctem
  12. ^ a b c The Lost Journals of Meyer Lansky, Ocean Drive magazine, January 2005
  13. ^ FBIに訴えながらも、カストロはカジノの営業を認めるだろうとの楽観的見通しを述べている。Meyer Lansky In His Own Words, 2012.5.30
  14. ^ The Meet The American Mafia March 2002
  15. ^ THIS DAY IN HISTORY: Little Augie Pisano is murdered
  16. ^ The Mafia: Shadow of Evil on an Island in the Sun Feb 25, 1967
  17. ^ Lansky's mob helps the war effort, then helps itself to gambling profit The Ledger, 1979.11.4
  18. ^ 1970年リーダースダイジェスト記事が3億ドルの資産を持った富豪として紹介した。In Search of Meyer By Jerry Klinger
  19. ^ 1982年のフォーブス誌の「400人のもっとも裕福なアメリカ人資産家」に名を連ねた。The Lost Journals of Meyer Lansky, Ocean Drive magazine, January 2005
  20. ^ My Life in the Mafia, Vincent Teresa, 1973
  21. ^ a b c d Meyer Lansky In His Own Words, 2012.5.30
  22. ^ The Real Jimmy Blue Eyes, 2002 The American Mafia

関連項目[編集]

外部リンク[編集]