ディタ・フォン・ティース

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ディタ・フォン・ティース
Dita von Teese
Dita Von Teese at Cannes 2007.jpg
生誕 1972年9月28日(43歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシガン州ロチェスター
職業 バーレスク・モデル
配偶者 マリリン・マンソン(2005年 - 2007年)

ディタ・フォン・ティース(Dita von Teese、本名:Heather Renée Sweet、1972年9月28日 - )はアメリカバーレスクダンサーフェティッシュ・モデル。バーレスクを復活させたとして「クィーンオブバーレスク」の名で海外では呼ばれる。

読み方はディタ・フォン・ティースよりディータ・ヴォン・ティース名が日本では一般的。

現在、ハリウッドに在住[1]

経歴[編集]

3姉妹の次女として9月28日にミシガン州にうまれる。母親はネイリスト、父親は技術士。両親は彼女が10代の時に離婚をしている。母親が好んで見ていたと言うハリウッド黄金時代の映画女優や、父親が購買していたPLAYBOY誌のランジェリーなどに強く影響を受けているという。また、年老いても赤く染めた髪、長い爪にはマニキュアを施し、アイライナーを欠かさず自身を飾り立てる事をしていた叔母の存在が、芯のある美意識の存在として一番影響受けた身近な人物として答えている。

子供の頃からコルセットなどの凝ったランジェリーやストッキングが好きだった事も重なり10代の頃はランジェリーショップでアルバイトをした経緯を本人が語っている。5歳からバレエを習い、19歳でストリップ・ダンサーになった彼女は、ストリップの世界があまりにも個性がない事に失望。複雑なダンスに小道具やキャラクター(1930年代、40年代のミュージカルや映画からヒントを得て)を加えた独自のスタイルを作り上げ、バーレスクダンサーの方に転身する。大学ではクラシカルな服装などの研究などもしていたが、やる事がこれ以上ないとの判断により退学している。

また、10代の頃からヌードなどのモデルもしている。当初は地毛である金髪でモデルをし、茶色(海外で言う所の赤毛にあたる)に髪を染めてモデル活動もしていたが、ボンデージモデルの先駆者ベティ・ペイジに着眼し、ブルネットに染めた。以降仕事が増えた事もあり、黒髪は彼女のトレードマークとなる。またもう一つの彼女のトレードマークとも言える左目尻付近のホクロは生まれながらのものではない。ホクロはキャリア初期に刺青として彫ったと雑誌で発言している。往年のピンナップ・モデルを思い起こさせる彼女のスタイルは、他のどんなモデルとも一線を画している。

彼女のウエストは22インチ(約56センチ)であり、コルセットを使用すると17インチ(約43センチ)まで細くなる。豊胸手術を含め美容外科手術を施してはいるが、ウエストは長きに渡って絞り上げてきたものであり、完全なる肉体改造による。よってディータに憧れて無茶にウエストを絞るのは、内臓などを圧迫し危険な行為でもある。

コルセットやラバーなどのフェティッシュな素材の洋服を身に着ける事、SM的な行為などを本来から好み、フェティッシュモデルとしての仕事を洋服やランジェリー、アダルトグッズのカタログなどを下半身も露なモデルとしてさまざまこなし起用も沢山された為に徐々にディータの知名度は広まる。

最終的にはPLAYBOY誌に掲載されるにあたり、Ditaだけではないモデル名を、とヒュー・ヘフナーのアイデアのもと電話帳をめくっていたディータはこれ、として決めたものを提出。しかし誤って認識されてしまい決めたものと違う名前になってしまうが、本人はそちらを面白いと受け入れ現在の名前フォン・ティーズと言う名前がついた。PLAYBOY誌に掲載された事により一夜にして環境が変わった事を本人はコメントしており、現在も関連するイベント等には欠かさず顔を出す程である。

1999年、2001年、2002年、アメリカでは3回「PLAYBOY」で特集されている。2007年スペイン版カバーは現在の知名度と本業を前面に出した撮影が行われている。また、ディータ(Dita)名義で多数のフェティッシュマガジン映像に出演、女優としてはディータ名義だけではなく本名のヘザー・スイート名義で数本の映画にも出演している。


Steve Diet Goedde撮影による写真

マリリン・マンソンとの結婚[編集]

90年代に自分のサイトにて写真などを公開。その会員制メンバーには著名人も何名かいたが、その中でも彼女の熱烈なファンだったミュージシャンマリリン・マンソンは自身のPV「mOBSCENE」へ出演を依頼。2000年から交際が始まる。

2005年の12月、5年間交際していたミュージシャンのマリリン・マンソンアイルランドで結婚した。式は無宗派で行われ、執り行ったのは映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー。彼女はヴィヴィアン・ウエストウッドによる紫色のタフタのガウンにコルセット、マンソンは黒のタキシードで、60名ほどの参列者の前で誓いを立てたという。

2006年12月、ディータとマリリン・マンソンの離婚が発表された。06年にディータが離婚届を提出。一部では売名行為だったのでは、と言う意見や、金が目的だったのではなどと非難されたが、ディータ自身は既にセレブリティ相手の仕事もしていた為知名度や金銭の目的を否定している。慰謝料などの話も出ており、長い間調停中で戸籍の上では夫婦だったが、2007年12月29日に法律上の婚姻関係の解消が発表された。

セレブリティとしてのディータ[編集]

2007年には「ピーチ・ジョン」のカタログ表紙を飾り、ワコールとの協賛により来日。来日中には蜷川実花による撮影が行われ、京都観光も楽しんだ。ピーチ・ジョンのファッションショーの一環で招待客のみを集めたパーティーで、ディータは日本で初めてパフォーマンスを行った。このショーについては主催者のずさんな管理でトラブルが起きたものの、日本での知名度をかけた仕事は成功した。

シドニーファッションウィーク、MCAにて

2005年からアメリカのコスメティックMACにてエイズチャリティーのキャラクターアイコンとして、口紅の広告モデルおよび、パフォーマンスを世界で行っている。 パフォーマンスはMACのリップスティックをモチーフしたショーであり、アジア圏では韓国でショーを行っている。

モスキーノやジャン=ポール・ゴルチエのショーに出演したり、ルイ・ヴィトンのパーティーでパフォーマンスを披露するなど、ハイファッションの世界ではファッション・アイコンとしても知られている。きわどいと言われるものが元々好きだった為に、ヌードなどに対しての仕事には恥を感じていないと語っている。本業としているバーレスクのショーではクリスチャン・ルブタンスワロフスキーなどハイクラスのスポンサーがゴージャスなショーを一層際立てている。なお、クリスチャン・ルブタンとディータは親友であり、クリスチャンは事あるごとにディータ専用の靴を作っている。ディータの家には、クリスチャンが作ってくれた靴専用のコーナーがある。イギリスにおいてリキュールコアントローが2007年の新しい顔として選抜。2年間のアンバサダーを務める事になっている。

アメリカにおいてバーレスクは芸能としての認知度が高く、カンヌレッドカーペットに呼ばれるなど、若者からは強い支持を受けている。現在のアメリカではセレブリティとして扱われている。

人物[編集]

  • ヴィンテージ陶器(特にティーセット)のコレクター[2]
  • クライスラーニューヨーカー('39年)、BMW Z4、ジャガーSタイプを所有する[3]
  • フェミニンな服装を好み、好きなファッションブランドクリスチャン・ルブタンディオールジョン・ガリアーノエリー・サーブモスキーノマーク・ジェイコブスを挙げている。ハイファッションにも興味を示し、安いビンテージとブランドものを合わせたスタイルを好む[4]
  • 「バーレスクとストリッパーは何が違うのか?」「ストリッパーと呼ばれる事に対して抵抗はあるのか?」という質問をディータはよくインタビューで受けているが、数多くのインタビューでディータは繰り返し、「ストリッパーと呼ばれる事を誇りに思う。」「1920年代から40年代にかけて広がったバーレスクは、元々はストリッパーが舞台に立っていた。演出の方法に違いがあるだけで、バーレスクがストリッパーより優れているなんて言うつもりは無い。」と答えている。

外部リンク[編集]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ Kimberly Cutter (2007年4月21日). “Educating Dita”. 2008年11月11日閲覧。
  2. ^ exposay.com (2006年12月27日). “Dita's Vinage Obsession”. 2008年11月11日閲覧。
  3. ^ 公式ブログ. “ブログ”. 2008年11月11日閲覧。
  4. ^ OK!JAPAN (2007年12月13日). “ディタ・フォン・ティース、世界中で大人気のバーレスクダンサー、ディタが語る「本当の自分」”. 2008年11月16日閲覧。