クレメンタイン・チャーチル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。
  • クレメンタイン[1]
  • クレメンティーン[2]
The Right Honourable(閣下)
The Baroness Spencer-Churchill
スペンサー=チャーチル女男爵

GBE
Clementine-Churchill-at-the-Nobel-celebration-in-1953-391768423875.jpg
夫ウィンストンのノーベル文学賞授賞式に際して。1953年撮影
イギリスの旗イギリス首相の配偶者英語版
在位期間
1940年5月10日 – 1945年7月26日
君主 ジョージ6世
前任者 アン・チェンバレン英語版
後任者 ヴァイオレット・アトリー英語版
在位期間
1951年10月26日 – 1955年4月6日
君主 ジョージ6世
エリザベス2世
前任者 ヴァイオレット・アトリー
後任者 クラリッサ・イーデン英語版
個人情報
生誕 クレメンタイン・オギルヴィ・ホージアー
: Clementine Ogilvy Hozier

(1885-04-01) 1885年4月1日
イングランドの旗 イングランド ロンドンメイフェア
死没 (1977-12-12) 1977年12月12日(92歳没)
イングランドの旗 イングランド ロンドン、ナイツブリッジ
配偶者 ウィンストン・チャーチル
(m. 1908; d. 1965)
子供 ダイアナ・チャーチル英語版
ランドルフ・チャーチル英語版
サラ・タチェット=ジェッソン、オードリー男爵夫人英語版
マリーゴールド・チャーチル[注釈 1]
メアリー・ソームズ、ソームズ男爵夫人英語版
ブランチ・ヘンリエッタ・ホージアー
英: Blanche Henrietta Hozier
ヘンリー・モンタギュー・ホージアー
英: Henry Montague Hozier

クレメンタイン・オギルヴィ・スペンサー=チャーチルスペンサー=チャーチル女男爵GBE: Clementine Ogilvy Spencer-Churchill, Baroness Spencer-Churchill, GBE1885年4月1日 - 1977年12月12日)は、イギリス首相を務めたウィンストン・チャーチルの妻。旧姓はホージアー(英: Hozier)。また自身も一代貴族であった。

幼少期[編集]

法的にはヘンリー・モンタギュー・ホージアーと、レディ・ブランチ・ホージアー(デイヴィッド・オギルヴィ (第10代エアリー伯爵)英語版の娘)の間に生まれたとされているが、レディ・ブランチは不貞で広く知られており[3]、父親が誰だったのかに関しては議論も多い[4][5][6]。1891年にサー・ヘンリーはレディ・ブランチが恋人といる所を目撃して離婚裁判を起こしたが、彼女は夫の側の不貞を申し立ててこれを退け、夫妻はその後別居した。レディ・ブランチはクレメンタインの父親が有名な騎手ジョージ・ベイ・ミドルトン英語版だと主張し続け、クレメンタインの末娘であるメアリー・ソームズ英語版もこれを信じていた[7]。一方で、彼女の伝記を書いたジョーン・ハードウィック(英: Joan Hardwick)は、サー・ヘンリーの不妊症の噂にも触れつつ、レディ・ブランチがホージアー家の子どもとして儲けたのは、彼女の姉妹の夫で、ミットフォード姉妹の祖父として知られるアルジャーノン・フリーマン=ミットフォード (初代リーズデイル男爵)との子どもだと推測している[要文献特定詳細情報]。噂は絶えないものの、いずれにしろクレメンタインはサー・ヘンリーの娘として記録されている。

クレメンタインが14歳になった1899年夏、彼女の母は家族と共にフランスディエップに移った。家族は水浴、カヌークロイチゴ摘みなど牧歌的な生活を送り[8]、海沿いに暮らすイギリス人たちのグループ「ラ・コロニー」(: ‘La Colonie’)と知り合った。このグループは軍人や作家、画家などで構成されており、中には後に家族と深い親交を結ぶことになるオーブリー・ビアズリーウォルター・シッカートなどがいた。クレメンタインの末娘メアリー・ソームズが後に書いた回顧録では、クレメンタインがシッカートの端整な顔立ちに、今まで見たこともないような魅力を感じて深く感じ入ったことが書かれている[9]。しかしながら、ホージアー家の幸せなフランス生活は長姉キティがチフスに罹ったことで暗転し、レディ・ブランチはキティの看病をするため、クレメンタインとネリーの姉妹をスコットランドに送るのが得策だと判断した。キティはその後1900年3月5日に亡くなった[9]

バークハムステッドのブルー・プラーク

クレメンタインは当初ガヴァネスによる教育を受け、その後ドイツの高名な教育学者フリードリヒ・フレーベルだったカール・フローベルと、その妻ジョアンナが経営するエディンバラ・スクール(英: the Edinburgh school)に短期間通い[8]、バークハムステッド女子学校(現バークハムステッド・スクール英語版)とパリ大学(ソルボンヌ)に進学した。彼女は18歳の時に恋に落ちたシドニー・ピール英語版と、秘密裏に2回婚約している[10]

結婚と出産[編集]

若き日のウィンストン・チャーチルと、当時フィアンセだったクレメンタイン。ふたりが結婚する直前の1908年に撮影された

チャーチル夫妻は短い交際を経てすぐに結婚した。ふたりは1908年のディナーパーティで4年ぶりに再会し、一目見て以来、ウィンストンはクレメンタインの美貌と気品を認め、一晩同席しただけで彼女の旺盛な知性と性格に惚れ込んだという[8]。数ヶ月手紙のやりとりを続けた後、ウィンストンは彼女の母であるレディ・ブランチに、結婚の許しを願う手紙を書いた。しかしながらウィンストンはクレメンタインと連れ立ってレディ・ブランチに会いに行くことにしたため、手紙がレディ・ブランチの元へ渡ることはなかった[11]。この手紙は夫妻の末娘であるメアリー・ソームズ英語版が書いた回顧録に収録されている[12]

チャーチル夫妻は1908年9月12日聖マーガレット教会で結婚したが[13][14][15]、ウィンストンは彼女より10歳以上年上だったほか[注釈 2]、既に経験豊富な庶民院議員でもあった。

夫妻の間には5人の子どもが生まれた。長子から順に、ダイアナ英語版(1909年 – 1963年)、ランドルフ英語版(1911年 – 1968年)、サラ英語版(1914年 – 1982年)、マリーゴールド(1918年 – 1921年)、メアリー英語版(1922年 – 2014年)である。末娘のメアリーのみが長生きした一方、夭逝したマリーゴールドに加え、その他の3きょうだいも50代から60代で亡くなっている。ウィンストン自身の公職生活はストレスの多いものだったが、チャーチル夫妻は愛情のこもったおしどり夫婦として知られた[17]

二度の大戦[編集]

第一次世界大戦[編集]

1915年撮影

第一次世界大戦中、彼女はロンドンの北東首都大司教区[注釈 3]キリスト教青年会 (YMCA) を代表して軍需工場労働者の酒保を設立し、これが認められて1918年に大英帝国勲章・コマンダー (CBE) に叙勲された[18]

1921年にエルサレムを訪れたチャーチル夫妻(前列右端)

1930年代[編集]

1930年代、クレメンタインはウィンストンを同伴せずに、ウォルター・ギネス (初代モイン男爵)のクルーザー、ロザウラ英語版で、ボルネオ島セレベス島モルッカ諸島ニューカレドニアニューヘブリディーズなどを巡る旅に出た。旅の中で、彼女より7歳年下の裕福な画商、テレンス・フィリップ(英: Terence Philip)との情事があったことが広く信じられている。しかし確証はどこにもなく、またフィリップ自身も同性愛者だったと考えられている。クレメンタインは、旅の後1羽のバリ鳩を連れて帰ってきた。この鳥が亡くなった後、彼女はチャートウェルの庭にあった日時計の下に以外を埋め、その土台に詩を寄せている[19]

常に批判の的となる政治家の妻として、クレメンタインは他の政治家の妻たちに、鼻であしらわれ、無礼に扱われていた。しかし、彼女はそういった扱いに対する忍耐を持ち合わせていなかった。モイン男爵一行と旅をした際、彼らはBBCの放送で、熱烈な宥和政策支持者の政治家が、ウィンストンを名指しで批判する様子を聞いた。男爵の招待客だったレディ・ヴェラ・ブラウトン (enは批判に対して「まったくですね」(英: "hear, hear")と述べた。クレメンタインはモイン男爵がとりなしの言葉を発するのを待っていたが、そのような言葉は出ず、彼女は怒って客室に戻り、モイン男爵への手紙を書いた上で帰り支度を始めた。レディ・ブラウトンは彼女を引き止めようとしたが、夫への侮辱に対する謝罪は全く受け付けなかったという。彼女は単身上陸し、翌朝には帰途に就いた[20]

第二次世界大戦[編集]

エレノア・ルーズベルトと語らうクレメンタイン(右)、1944年

第二次世界大戦中、彼女は赤十字社エイド・トゥ・ロシア・ファンド英語版の代表を務めたほか、キリスト教女子青年会 (YWCA) の戦時中募金要請(英: War Time Appeal)の会長、また年少士官の妻のためのフルマー・チェイス助産院(英: Fulmer Chase Maternity Hospital for Wives of Junior Officers)の責任者を務めた[21]。戦争終結直前にロシアを訪れた際に、彼女は労働赤旗勲章を受けている[22]

戦後[編集]

This building was the home of the late Baroness Spencer-Churchill, GBE, wife of Sir Winston Churchill, when as Miss Clementine Hozier she attended Berkhamsted School for Girls from 1900–03. Unveiled by her daughter, Lady Soames MBE, on 17 October 1979
バークハムステッド・ハウスに掲げられた、彼女を記念するプラーク

彼女は戦後すぐの1946年に大英帝国勲章のデイム・グランド・クロスを叙勲され[23]、「デイム・クレメンタイン・チャーチル、GBE」(英: Dame Clementine Churchill GBE)となった。また同じ年にはグラスゴー大学オックスフォード大学[注釈 4]から名誉学士号を受けている[25][26]

後半生と死[編集]

チャーチル夫妻の墓

ウィンストンは1965年1月24日に90歳で亡くなり[16]、クレメンタインは未亡人となった。これに際した同年5月17日、彼女は一代貴族として認められ、「ケント州チャートウェルのスペンサー=チャーチル女男爵」(英: Baroness Spencer-Churchill, of Chartwell in the County of Kent)と呼ばれることになった[27]。彼女は貴族院中立議員英語版となったが、進行する難聴のせいで議員生活を送ることは不可能だった。1976年にはブリストル大学から名誉学士号を受けた[26]

最晩年の数年間、彼女はインフレーション物価上昇のせいで、余生を送る資金をやりくりするのに苦労した。1977年早くには、亡き夫ウィンストンの絵画5点をオークションにかけた[28]。彼女が亡くなった後、グレアム・サザーランド英語版が描いたウィンストンの肖像画英語版が、ウィンストンが気に入らなかったためとして彼女の指示で破壊されていたことが分かった[29]

彼女はロンドンナイツブリッジ、プリンシズ・ゲート7番地(英: Prince's Gate)の自宅で、心臓発作により1977年12月12日に亡くなった[30][31]。92歳没。彼女は夫や子どもたちと共に、オックスフォードシャーウッドストック英語版に程近い、聖マーティン教会 (ブレイドン)英語版に埋葬されている(但し、夭逝したマリーゴールドの墓だけはロンドンのケンザル・グリーン墓地英語版にある)[4]

彼女を記念したもの[編集]

ハーロウのクレメンタイン・チャーチル病院

ミドルセックスハーロウにあるクレメンタイン・チャーチル病院(英: The Clementine Churchill Hospital)は彼女を記念して名付けられた病院である[26]

バークハムステッド女子学校に通っていた頃に住んでいたバークハムステッド・ハウスには、彼女を記念したブルー・プラークが取り付けられており、1979年に行われた除幕式では、末娘のソームズ男爵夫人英語版が除幕を行った[32]。このプラークは彼女がこの場所に住んでいたことを記念して付けられたものである[33]

名前・称号の変遷[編集]

開始日 終了日 名前・称号 理由
1885年4月1日  1908年9月12日  ミス・クレメンタイン・ホージアー
Miss Clementine Hozier
ヘンリー、ブランチのホージアー夫妻の元に生まれる
1908年9月12日  1918年  ミセス・ウィンストン・チャーチル
Mrs Winston Churchill
ウィンストン・チャーチルとの結婚
1918年  1946年  ミセス・ウィンストン・チャーチル、CBE
Mrs Winston Churchill, CBE
大英帝国勲章コマンダー (CBE) 叙勲
1946年  1953年4月24日  デイム・クレメンタイン・チャーチル、GBE
Dame Clementine Churchill, GBE[注釈 5]
大英帝国勲章デイム・グランド・クロス (GBE) 叙勲
1953年4月24日  1965年5月17日  レディ・チャーチル、GBE
Lady Churchill, GBE
夫ウィンストンがガーター勲章叙勲
1965年5月17日  1977年12月12日   ライト・オナラブル スペンサー=チャーチル女男爵、GBE
The Right Honourable The Baroness Spencer-Churchill, GBE 
1958年一代貴族法英語版により一代貴族に叙される

紋章[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 英: Marigold Churchill
  2. ^ チャーチルは1874年生まれである[16]
  3. ^ 英: the North East Metropolitan Area of London
  4. ^ 夫ウィンストンもオックスフォード大学から名誉学士号を送られている[24]
  5. ^ 自身では「ミセス・ウィンストン・チャーチル」"Mrs Winston Churchill" との表記を使い続けた。

出典[編集]

  1. ^ 「英国の女たち」シリーズ 第2回 政界の女たち”. 英国ニュースダイジェスト (2008年5月1日). 2017年10月7日閲覧。
  2. ^ ボリス・ジョンソン 石塚雅彦、小林恭子訳 (2016-03-30). チャーチル・ファクター: たった一人で歴史と世界を変える力. プレジデント社. https://books.google.co.jp/books?id=DcYCDAAAQBAJ&pg=PT116&lpg=PT116&dq=クレメンティーン・チャーチル 2017年10月7日閲覧。. 
  3. ^ Turner, Graham (2002年8月16日). “'Father always came first, second and third'”. テレグラフ. 2017年10月6日閲覧。
  4. ^ a b Clementine Ogilvy Hozier Churchill - Find a Grave(英語) - 2017年10月6日閲覧。
  5. ^ Clementine HOZIER”. Clement-Jones family - Person Sheet. 2017年10月6日閲覧。
  6. ^ The British Mad Dog - Debunking the Myth of Winston Churchill (PDF)”. p. 28. 2017年10月6日閲覧。
  7. ^ “Clementine Spencer Churchill”. Dictionary of National Biography(オックスフォード英国人名事典. doi:10.1093/ref:odnb/30929. http://www.oxforddnb.com/view/article/30929. 
  8. ^ a b c Soames, M. (2002). Clementine Churchill: the biography of a marriage. London, Doubleday ISBN 9781446488959
  9. ^ a b Soames, Mary英語版 (2011-11-30), Clementine Churchill, Random House, p. 43, ISBN 9781446488959, https://books.google.co.jp/books?id=MZqXkDyT6X0C&pg=PP43&lpg=PP43 2017年10月7日閲覧。 
  10. ^ Manchester, W. (1988) The Last Lion – Winston Spencer Churchill – Alone – 1932–1940; p. 386; Little, Brown & Co.; 0-316-54503-1
  11. ^ Churchill 1969, p. 801.
  12. ^ Soames, Mary英語版 (2011-11-30), “3. To Thine Own Self Be True”, Clementine Churchill, Random House, ISBN 9781446488959, https://books.google.co.jp/books?id=MZqXkDyT6X0C&pg=PP43&lpg=PP43#v=onepage&q=%22My%20dear%20Lady%20Blanche%20Hozier%2C%22&f=false 2017年10月7日閲覧。 
  13. ^ Grunwald, Lisa; Adler, Stephen (2015-05-12). The Marriage Book: Centuries of Advice, Inspiration, and Cautionary Tales from Adam and Eve to Zoloft. Simon and Schuster. ISBN 9781439169674. https://books.google.co.jp/books?id=ncsNBAAAQBAJ&pg=PA5&lpg=PA5&dq=churchill+St.+Margaret%27s,+Westminster+marriage 2017年10月7日閲覧。. 
  14. ^ Pelling, Henry (1989-06-18). Winston Churchill. Springer. p. 579. ISBN 9781349106912. https://books.google.co.jp/books?id=hCmwCwAAQBAJ&pg=PA579&lpg=PA579&dq=churchill+St.+Margaret%27s,+Westminster+marriage 2017年10月7日閲覧。. 
  15. ^ 関榮次 『チャーチルが愛した日本PHP研究所2014年1月31日ISBN 97845696936512017年10月7日閲覧。
  16. ^ a b “チャーチル (Churchill, Sir Winston Leonard Spencer)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版. ブリタニカ百科事典. ブリタニカ・ジャパン. (2013). 
  17. ^ Manchester, W. (1988) The Last Lion – Winston Spencer Churchill – Alone – 1932–1940; Little, Brown & Co.; 0-316-54503-1
  18. ^ The London Gazette: (Supplement) no. 30460. p. 368. 1918年1月7日
  19. ^ Manchester, W. (1988) The Last Lion – Winston Spencer Churchill – Alone – 1932–1940; p. 263; Little, Brown & Co.; 0-316-54503-1
  20. ^ Manchester, W. (1988) The Last Lion – Winston Spencer Churchill – Alone – 1932–1940; p. 387; Little, Brown & Co.; 0-316-54503-1
  21. ^ Blue Plaque for Lady Churchill”. ケンジントン・アンド・チェルシー区 (2014年9月26日). 2017年10月7日閲覧。
  22. ^ Winston S. Churchill. The Second World War. VI. p. 421. ISBN 0-14-008616-1. 
  23. ^ The London Gazette: (Supplement) no. 37598. p. 2783. 1946年6月13日
  24. ^ How Sir Winston Churchill became a Leiden Honorary Doctor”. ライデン大学 (2016年5月9日). 2017年10月7日閲覧。(英語)
  25. ^ Purnell, Sonia (2015-10-27). Clementine: The Life of Mrs. Winston Churchill. ペンギン・ブックス. p. 355. ISBN 9780698408203. https://books.google.co.jp/books?id=u-NJBgAAQBAJ&pg=PA355&lpg=PA355&dq=University+of+Glasgow+clementine+churchill+honorary+degree 2017年10月7日閲覧。. 
  26. ^ a b c Smith, Jennifer (2013年12月28日). “How Churchill's wife played a central role in winning the war by smoothing over relations with other Allied leaders”. デイリー・メール. 2017年10月7日閲覧。
  27. ^ The London Gazette: (Supplement) no. 43654. p. 4861. 1965年5月18日
  28. ^ TIME magazine, 7 March 1977, p.40
  29. ^ Furness, Hannah (2015年7月10日). “Secret of Winston Churchill's unpopular Sutherland portrait revealed”. デイリー・テレグラフ. 2017年10月7日閲覧。
  30. ^ Smith, J.Y. (1977年12月13日). “Clementine Spencer-Churchill, Prime Minister's Wife, Dies”. ワシントン・ポスト. 2017年10月6日閲覧。
  31. ^ COLLINS, JOSEPH (1977年12月13日). “Associated Press Lady Spencer‐Churchill in London in 1975. A bust of her husband is at left.”. ニューヨーク・タイムズ. 2017年10月6日閲覧。
  32. ^ Langworth, Richard M., ed (1993). “International Datelines – Two More Churchill Datelines”. Finest Hour (Journal of the International Churchill Societies) (79): 7. ISSN 0882-3715. http://www.winstonchurchill.org/images/finesthour/Vol.01%20No.79.pdf 2011年5月6日閲覧。. 
  33. ^ Cook, John (2009). A Glimpse of our History: a short guided tour of Berkhamsted. Berkhamsted Town Council. オリジナルの8 March 2012時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120308204035/http://www.berkhamsted.gov.uk/download/Heritage%20Leaflet.pdf. 

参考文献[編集]

発展資料[編集]

外部リンク[編集]

名誉職
先代:
アン・チェンバレン英語版
イギリスの旗イギリス首相の配偶者英語版
1940年 – 1945年
1951年 – 1955年
次代:
ヴァイオレット・アトリー英語版
先代:
ヴァイオレット・アトリー
次代:
クラリッサ・イーデン英語版