アーロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
Haro

Escudo de Haro.svg

Ayuntamiento en Fiestas - Haro - La Rioja.jpg
Flag of La Rioja (with coat of arms).svg ラ・リオハ州
Flag of La Rioja (with coat of arms).svg ラ・リオハ県
コマルカ アーロ
面積 40.53 km²
標高 479mm
人口 11,536 人 (2014年[1]
人口密度 284.63 人/km²
住民呼称 jarrero/-a、harense
Haroの位置(スペイン内)
Haro
Haro
スペイン内アーロの位置
Haroの位置(ラ・リオハ州内)
Haro
Haro
リオハ県内アーロの位置

北緯42度34分37秒 西経2度50分46秒 / 北緯42.57694度 西経2.84611度 / 42.57694; -2.84611座標: 北緯42度34分37秒 西経2度50分46秒 / 北緯42.57694度 西経2.84611度 / 42.57694; -2.84611

アーロスペイン語: Haro)は、スペインラ・リオハ州ムニシピオ(基礎自治体)。エブロ川の流域にあり、リオハ・アルタ地区に属する。カトリック教会のカラオラ・イ・ラ・カルサダ=ログローニョ司教座が置かれている。

地理[編集]

位置[編集]

北はブルゴス県ミランダ・デ・エブロと接している。西はビリャルバ・デ・リオハスペイン語版シウリスペイン語版アングシアーナスペイン語版カサラレイナスペイン語版と接している。南はヒミレオスペイン語版オリャウリスペイン語版ロデスノスペイン語版サラトンスペイン語版と接している。東はブリニャススペイン語版、アラバ県ラバスティーダスペイン語版と接している。

水文[編集]

北西から流れてきたエブロ川と、南西から流れてきたティロン川スペイン語版(エブロ川の支流)は、アーロで合流する。河川の豊富な水量は森やポプラ並木の景観を可能にし、果樹園に灌漑用水を供給している。

気候[編集]

地中海性気候海洋性気候の影響を受ける。年平均気温は12.6℃、最も寒い1月の平均気温は約5℃、最も暑い8月の平均気温は20.6℃である。冬には霧が発生する。降水量は、年間平均504ミリメートルであり、月別では、多い時で、58ミリメートルである。

歴史[編集]

名称の由来[編集]

アーロの名前の由来についてははっきりしたことは分かっていないが、20世紀の歴史学者ドミンゴ・エルゲータスペイン語版による説が有力である。ドミンゴ・エルゲータは、この地方が航行できたので、エブロ川ティロン川スペイン語版の合流点を照らしたラ・モータの丘の灯台を管理していた田舎町の存在について主張している。スペイン語で「灯台」は「faro」であり、エルゲータはfaroがやがてHaroに変化したと推測している。古代ローマが支配する以前のこの地域にはベローネス英語版と呼ばれるケルティベリア人が居住していた。

ヒスパニア時代[編集]

ローマ領ヒスパニア時代、カストルム・ビリビウム (Castrum Bilibium) という名の砦が作られた。5世紀頃、ギリシャ人たちはファロ (Pharo) と呼んだ。アラブ人占領時代の9世紀にはワディ・アルム (Wadi Arum) と呼ばれた。

中世[編集]

初めて歴史上に名を残したのは1040年、ナバラ王ガルシア・サンチェス3世英語版の文書で、ビリビウム・クン・ファロ (Bilibium cum Faro) とあった。1063年の文書には、町にユダヤ人共同体があったことが記されていた。1187年、カスティーリャ王アルフォンソ8世はアーロにフエロ(特権)を授けた。同時に、ユダヤ人共同体にアルハマ(en、特権)を授けている。1358年8月6日、ビトリアログローニョナヘラサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダミランダ・デ・エブロトレビーニョスペイン語版ブリオネススペイン語版ダバリーリョスペイン語版ラバスティーダスペイン語版サリニーリャス・デ・ブラドンスペイン語版アニャーナスペイン語版ラ・プエブラ・デ・アルガンソンスペイン語版ペニャセラーダスペイン語版サンタ・クルス・デ・カンペーソスペイン語版の町の代表がアーロに集い、犯罪者や権力者に対して町々が協力するために条例が作られた。

1430年、フアン2世は、ペドロ・デ・ベラスコをアーロ伯 (Conde de Haro) とした。1811年のカディスでのコルテスで、世襲貴族による大土地所有が廃止されるまで、アーロはベラスコ家に支配された。

近世[編集]

1710年、アーロは、フェリペ5世に忠誠と服従を誓った。スペイン継承戦争時、マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイアに避難所を提供した。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動先: 案内、 検索


18世紀初頭のスペイン継承戦争で、アンジュー公フィリップの妃マリア・ルイサとわずか3歳であったアストゥリアス公ルイ(のちのルイス1世)がアーロへ避難した。戦後、新王フェリペ5世はアーロの町にMUY NOBLE Y MUY LEAL(最も王に忠実で最も高貴)という称号を与えた。

現代[編集]

1808年、アーロはナポレオン軍に占領された。町にはフランス軍の本部が置かれ、ジョセフ・ボナパルトが行政府を設置した初めての地となった。1901年と1902年の2年に渡り、アーロ周辺のブドウ畑がフィロキセラに冒されて被害を受けた。1834年3月13日バシリオ・ガルシアスペイン語版が率いる、ヘレラチャーティスト修道院スペイン語版が、第一次カーリズム戦争英語版時に、自由主義者が戦い、エブロの辺りまでが、自由主義者の戦場と化した。今日、エブロとブリニャススペイン語版をつなぐ、ブリニャスの橋には、戦争の慰霊碑が建てられている。

政治[編集]

アーロ首長一覧
在任期間 名前 政党
1979-1983 フランシスコ・マテ・バリオ (1979-1980)
ミゲル・ロハス・カストリーリョ(1980-1983)
無所属
スペイン社会労働党 (PSOE)
1983-1987 ミゲル・ロハス・カストリーリョ スペイン社会労働党 (PSOE)
1987-1991 パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)
1991-1995 パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)
1995-1999 パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)
1999-2003 パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)
2003-2007 リディア・ロハス・アギーリョ(2003-2004)
パトリシオ・カペリャン・エルビアス(2004-2007)
スペイン社会労働党 (PSOE)
国民党 (PP)
2007-2011 パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)
2011-2015 パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)
2015- パトリシオ・カペリャン・エルビアス 国民党 (PP)

人口[編集]

アーロの人口推移 1842-2011
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[2]、1996年 - [3]

シンボル[編集]

アーロの紋章

紋章と軍旗[編集]

アーロの盾は赤色の上に銃眼胸壁(デコボコ)ついており、レンガの合わせ目が少しずれていて、かつ門と窓がついたお城が中央に配されるという構成になっている。この城の両側には、大きな二頭のライオンが立ち上がっている。盾の上部は、君主の証である王冠で覆われており、下の部分は、金羊毛のオールが描かれ,金羊毛騎士団の紋章を元にデザインされている。旗に使われている赤色は、カスティーリャの地域には特徴的であり、中央に街を守るための、盾が描かれている。

賛歌[編集]

公式な賛歌はCastrum Bilibium、もしくは Haro la Viejaと呼ばれている。エリシオ・パイネド・ロペズスペイン語版がこの賛歌の詩節を作り、Miguel de la Fuente Álvarez が詩歌の反復句の部分を担当し、Enrique Hermosilla Diez と José Fernández Olleroが、作詞して、1942年9月7日に完成した。同年11月6日に行われた祝賀会で、市長の提案のもと、公に広められた。

アーロの水壺[編集]

1980年代に市長Miguel Rojasによって、街のお土産として渡されるために制度化された、アーロの水壺の起源は、市長José Fernández Olleroによると、地域の村の長を決める選挙にある。かつて焼いた泥でできた穴が空いてる袋をその壺の中に入れ、かつその袋の中に投票用紙を入れていた。その後、この壺は1914年10月24日まで、長いあいだ使われていなかったが、前述の市長José Fernández Olleroが市の公的書類を調査中に、偶然発見した。そして市議会にそのことを伝え、議員らの承認を得て、現在まで市長執務室に展示してある。

表現や標語[編集]

『アーロに来たのかい?アーロから来たのさ!』という標語が書かれたバールの広告
  • アーロ、パリそしてロンドン(Haro, París y Londres):アーロは電気式街灯を、ロンドンやパリに続いて導入した。これはアーロの重要製品である皮製品の工場を経営していたFelipe Etcheverríaの功績だ。                *ようやく明かりのあるアーロに到着したよ。(Ya estamos en Haro que se ven las luces):これはミランダやログローニョから電車で来た旅行者や、通りがかった人々が言っていた言葉だ。市歌の歌詞としても使われているフレーズだ。
  • アーロ、ワインの海岸(Haro, costa del vino):このスローガンは自治体の出版会社によって作成されたもので、スペイン東部で真夏となるころに合わせたものである。
  • アーロ、リオハ産ワインの首都(Haro, Capital del Rioja):リオハの首都になぞらえたこの標語は、ログローニョの人々に論争を引き起こした。なぜなら、2004年10月22日に、「ログローニョ、リオハ産ワインの首都」という標語の登録申請手続きが、ログローニョ観光協会を通して、スペイン特許庁になされていたからである。しかし異なるメディアではアーロはリオハ産ワインの首都として報じられていた。なぜなら、20世紀初頭にはすでに、ワイン生産は活発で、生産技術は向上しており、アーロをワインの生産地として確立させようと、多くの製造業者が働いていた。このアーロとログローニョの標語論争は、決着はつかないまま、収束した。しかしアーロ市はこの標語をすべての旅行促進用の鐘に書いて、2005年から使っている。さらに、Santiago Alegríaという会社によって、この標語は、パロマール通りの長さ300mの壁に描かれ、2010年7月に公開された。
  • アーロに来たのかい?アーロから来たのさ!(¿Vino a Haro?:¡Vino de Haro!):この標語はLos Caños de Haroというバールのポスターが由来だ。

ワイン[編集]

スペイン最大のワイン産地として知られるリオハ (DOC)の中でも、アーロは特にワイナリーが集中する町である。1877年に設立され、現存する家族経営の生産者としてはリオハ最古のワイナリーであるロペス・デ・エレディア英語版[4]、1879年に設立され、フェリペ皇太子レティシアの結婚式で「インペリアル1994」が使用されたCVNEスペイン語版(クネ)社、ビルバオ出身の実業家によって1901年に設立され、アーロ駅前にワイナリーを構えるボデガス・ビルバイナスなどがある[5]。アーロにはリオハ州立ワイン博物館があり、リオハ地方のブドウ栽培・ワイン生産に関する展示がなされている[6]。毎年6月29日の聖ペドロの祝日には、聖フェリセス・デ・ビリビオの巡礼祭という伝統的な祭礼が行われ、参加者たちが水鉄砲などを使ってワインをかけあうバターリャ・デル・ビノ(ワインの戦い)が行われる。

史跡・文化[編集]

1975年、旧市街がスペイン歴史文化財に指定された。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が町を通っている。

  • アーロ市庁舎 - 18世紀。新古典主義建築。1756年に、José de Ituñoその建物を調査した。壁は、石積みで作られ

いる。

  • サント・トマス教会 - アーロ最古の場所にあたる。司教座が置かれている。ルネサンス様式とバロック様式の混合。建築は、ルネサンス期の建築家、Pedro de Rasinesや、その息子、Rodrigo、Pedro de Origoitia、Andrés de Veneaなどが建築に関わった。1931年6月3日に、スペイン第二共和政により、国定公園と認定。
  • ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ベガ聖堂 - レコンキスタ時代にアーロに出現したとされるベガの聖母を祀る。建築年10世紀前後だと考えられる。
  • ブリニャス橋 - 13世紀からエブロ川に架かっている橋。
  • サン・アグスティン修道院
  • アーロ闘牛場スペイン語版
  • スペイン銀行アーロ支店の建物

路線[編集]

1863年にナバーラ州南部のトゥデラとバスク州のビルバオを結ぶ鉄道路線が開通した。アーロはその中間にある。その鉄道路線は、2003年に廃止され、街にさらに近いエルパルドに、駅は建てられた。2007年には、バルセルナビルバオを結ぶ路線が廃止された。その後、バスクカタルーニャを結ぶ路線も廃止された。現在は、4つの列車が路線を走っている。また、アーロにはビルバオとアラゴン州サラゴサを結ぶ高速道路が通っている。

バス[編集]

バス停は、Palacio Cid Paternina宮殿前、calle Castañares de Riojaという二つのバス停が街には存在する。ナヘラ、サンタンデール、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ、ビトリアとビルバオに加えて、VLR-113ラインで、ミランダ・デ・エブロとログローニョの辺りをバスは運行する。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 斎藤研一 『世界のワイン生産者400』 美術出版社、2014年
  • 鈴木孝寿 『スペイン・ワインの愉しみ』 新評論、2004年

外部リンク[編集]