「弥助」の版間の差分
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{{基礎情報 武士 |
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| 氏名 = 弥助 |
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'''弥助'''(やすけ、生没年不詳)は、[[安土桃山時代]]の[[織田信長]]の[[家臣]]。[[ネグロイド|黒人]]。'''彌介'''とも<ref>『松平家忠日記』</ref>。 |
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| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] |
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| 生誕 = 生年不詳 |
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| 死没 = 没年不詳 |
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| 改名 = |
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| 別名 = ヤスケ、彌介、彌助 |
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| 諡号 = |
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| 神号 = |
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| 戒名 = |
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| 霊名 = |
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| 墓所 = |
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| 官位 = |
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| 幕府 = |
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| 主君 = [[織田信長]] |
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| 藩 = |
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| 氏族 = |
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| 父母 = |
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| 兄弟 = |
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| 妻 = |
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| 子 = |
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| 特記事項 = |
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'''弥助'''<ref>弥助、弥介、また旧字での彌助、彌介は、どれも同じ。同音異字の置き換えは江戸時代にはよく見られた。</ref>(やすけ、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の日本に渡来した[[ネグロイド|黒人]][[奴隷]]で、[[戦国大名]][[織田信長]]への献上品とされたが、信長に気に入られ、その[[家臣]]に召し抱えられた<ref>名前の分かる人物では、日本の史料に登場する最も古い[[アフリカ人]]の1人であるが、所在が確認できる期間は[[1581年]][[3月27日]]から[[1582年]][[6月21日]]の1年間余りと極めて短い。信長にとっては最晩年の家来衆となる。</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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弥助の出自については、[[フランソワ・ソリエー]]が1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。[[イタリア人]] |
弥助の出自については、[[フランソワ・ソリエー]]が1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。[[イエズス会]]の[[イタリア人]][[宣教師|巡察師(伴天連)]][[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]が来日した際、[[インド]]から連れてきた召使で、出身地は[[ポルトガル領東アフリカ]](現[[モザンビーク]])であると記されている<ref>{{cite web|url=http://books.google.co.jp/books?ei=eJjFUe3tK4SEkgXlxoGICQ&hl=ja&id=pQE_AAAAcAAJ&dq=Histoire+Ecclesiastique+Des+Isles+Et+Royaumes+Du+Japon&jtp=444 |title=Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon, 第 1 巻、p.444.|accessdate=2013-06-22}}</ref><ref name="husi">『[[世界ふしぎ発見]]』2013年6月8日放送分では、当時のポルトガルが認識していた黒人部族はモザンビーク島周辺に住む[[マクア人]]だけであったため、弥助もまたマクア人であった可能性が高いとの説が紹介されていた。</ref>。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してにインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。 |
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『[[信長公記]]』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され |
[[天正]]9年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1581年]][[3月27日]])に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『[[信長公記]]』の同日の記録には「切支丹国より、'''黒坊主'''参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている<ref>{{Harvnb|近藤瓶城|1926|ref=c19|loc=p.204}}。{{Harvnb|太田|中川|2013|loc=p.259}}</ref>。 |
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天正9年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]](1581年[[4月14日]])付で[[ルイス・フロイス]]が[[イエズス会]]本部に送った年報や、同時期の[[ロレンソ・メシヤ]]の書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという<ref name="nempo">『イエズス会日本年報』</ref><ref name="Hakken">[[藤田みどり (比較文化学者)|藤田みどり]]『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』[[岩波書店]]、2005年5月。</ref>。 |
天正9年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]](1581年[[4月14日]])付で[[ルイス・フロイス]]が[[イエズス会]]本部に送った年報や、同時期の[[ロレンソ・メシヤ]]の書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという<ref name="nempo">『イエズス会日本年報』</ref><ref name="Hakken">[[藤田みどり (比較文化学者)|藤田みどり]]『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』[[岩波書店]]、2005年5月。</ref>。 |
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本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにした |
本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという<ref name="nempo"/>。また、[[金子拓]]によると、『信長公記』の筆者である[[太田牛一]]末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本([[尊経閣文庫]]所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある<ref>「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。</ref>。 |
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『[[松平家忠]]日記』の天正10年4月19日([[1582年]][[5月11日]])付けの記述には「上様御ふち候、{{読み仮名|大うす|デウス}}進上申候、'''くろ男'''御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている<ref>{{Harvnb|松平|1897|loc=p.54}}</ref>。これは弥助も従軍していた[[甲州征伐]]からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に目撃されたものであるが、この家忠日記の記述でも弥助は[[年季奉公]]人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている<ref>淡泊な記述の『家忠日記』にわざわざこのように書いてあるということは、「黒い」「背が高い」という驚きと同じく、自分と同じ扶持もちの家来であることも大きな驚きであったと思われる。</ref>。 |
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また、[[金子拓]]によると、『信長公記』の筆者である[[太田牛一]]末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本([[尊経閣文庫]]所蔵)には、この黒人の名前を弥助とし(「彌介」ではない)、彼が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある<ref>「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。</ref>。 |
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[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])の[[本能寺の変]]の際には弥助も[[本能寺]]に宿泊しており、[[明智光秀]]の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条御所]]に行って戦った末、明智軍に捕縛された。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で命は取らず、[[南蛮寺#都の南蛮寺(1576年)|南蛮寺]]に送った<ref name="nempo"/> |
[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])の[[本能寺の変]]の際には弥助も[[本能寺]]に宿泊しており、[[明智光秀]]の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと[[二条城#織田信長・誠仁親王の「二条新御所」|二条御所]]に行って戦った末、明智軍に捕縛された。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で命は取らず、[[南蛮寺#都の南蛮寺(1576年)|南蛮寺]]に送った<ref name="nempo"/>。 |
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現代から見て、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられる一方で、[[藤田みどり (比較文化学者)|藤田みどり]]は弥助を殺すことを忍びないと思った方便であるとの好意的な解釈を主張している<ref name="Hakken"/>。 |
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==消息== |
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[[image:Namban-10.jpg|thumb|180px|[[狩野内膳]]の『南蛮屏風』]] |
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その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていないが、その後の他地域の史料の中には黒人が登場するものがいくつかあり、そこから憶測した説がある。 |
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本能寺の変に触れるドラマや漫画など表現物の中には、弥助が信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。 |
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しかしながら、この時代に日本へやってきた黒人は実は大勢いた<ref name="Hakken"/>と考えられている。右の『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれているのがわかるが、日本い渡来した黒人の中の誰かを弥助であったかどうか特定することは不可能である。番組内で述べられたものはあくまでも仮説に過ぎず、特に根拠を持っていない。 |
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;「ヤスフェ」の訛りという仮説 |
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;書籍 |
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* 『くろ助』 - [[1968年]]に[[岩崎書店]]から出版された[[来栖良夫]]による[[児童文学]]作品。主人公。 |
* 『くろ助』 - [[1968年]]に[[岩崎書店]]から出版された[[来栖良夫]]による[[児童文学]]作品。主人公。 |
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* 『黒ん坊』 - [[1971年]]5月に[[毎日新聞社]]から出版された[[遠藤周作]]によるユーモア小説系列の作品。 |
* 『黒ん坊』 - [[1971年]]5月に[[毎日新聞社]]から出版された[[遠藤周作]]によるユーモア小説系列の作品。 |
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;ドラマ |
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* 『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』([[大河ドラマ]])‐「ソテロ」の名で登場。二条城の[[織田信忠|信忠]]に変の報告をするために寺を抜け出し、完全武装の鎧武者を素手で撲殺する。その後の消息は不明(演:[[リード・ジャクソン]])。 |
* 『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』([[大河ドラマ]])‐「ソテロ」の名で登場。二条城の[[織田信忠|信忠]]に変の報告をするために寺を抜け出し、完全武装の鎧武者を素手で撲殺する。その後の消息は不明(演:[[リード・ジャクソン]])。 |
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* 『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』(大河ドラマ)‐ヤスケは信長とともに戦い、信長に先んじて明智軍に殺されている(演:[[サミ・ポップ|サムエル・ポップ]])。 |
* 『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』(大河ドラマ)‐ヤスケは信長とともに戦い、信長に先んじて明智軍に殺されている(演:[[サミ・ポップ|サムエル・ポップ]])。 |
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;漫画 |
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* 『[[へうげもの]]』(漫画)‐信長殺害の真犯人を目撃した者として描かれ、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に幽閉される。その後、[[古田重然|古田織部]]の口利きにより許される(声:[[黒田崇矢]](アニメ版))。 |
* 『[[へうげもの]]』(漫画)‐信長殺害の真犯人を目撃した者として描かれ、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に幽閉される。その後、[[古田重然|古田織部]]の口利きにより許される(声:[[黒田崇矢]](アニメ版))。 |
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* 『[[戦国八咫烏]]』(漫画)-佐渡ヶ島に攻め入った外国勢力の奴隷兵として最前線に立っていた弥助が、羽柴藤吉の心意気に打たれて投降し、信長の部下となる。 |
* 『[[戦国八咫烏]]』(漫画)-佐渡ヶ島に攻め入った外国勢力の奴隷兵として最前線に立っていた弥助が、羽柴藤吉の心意気に打たれて投降し、信長の部下となる。 |
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* 『[[信長協奏曲]]』(漫画・連載中)‐[[石井あゆみ]]による漫画。主人公のサブロー([[織田信長]])と同じく平成の世の[[埼玉]]から[[タイムトラベル|タイムスリップ]]してきた[[アフリカ系アメリカ人]]の[[プロ野球]]選手のヤング。 |
* 『[[信長協奏曲]]』(漫画・連載中)‐[[石井あゆみ]]による漫画。主人公のサブロー([[織田信長]])と同じく平成の世の[[埼玉]]から[[タイムトラベル|タイムスリップ]]してきた[[アフリカ系アメリカ人]]の[[プロ野球]]選手のヤング。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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==参考文献== |
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* {{Citation |和書|last1=太田|first1=牛一|last2=中川|first2=太古|year=2013|author1-link=太田牛一|series=新人物文庫|publisher=[[中経出版]]|edition=[[Amazon Kindle|Kindle]]|title =現代語訳 信長公記|page=259}}{{ASIN|B00G6E8E7A}} |
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** {{Citation |和書|last=|first=|editor=近藤瓶城 |year=1926|series=史籍集覧| volume=第19|title =信長公記|publisher=近藤出版部|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/162 国立国会図書館デジタルコレクション|page=204|ref=c19}} |
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* {{Citation |last =クラツセ|first =ジアン|author-link=|year=1925| volume=上|title =日本西教史|publisher =太陽堂書店|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971162/230 国立国会図書館デジタルコレクション|pages=431-437}} |
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* {{Citation |和書|last =松平|first =家忠|author-link=松平家忠|year=1897|series=文科大学史誌叢書|volume=第2|title =家忠日記|publisher =吉川半七|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/54 国立国会図書館デジタルコレクション}} |
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[[Category:室町・安土桃山時代の武士]] |
[[Category:室町・安土桃山時代の武士]] |
2015年7月22日 (水) 20:55時点における版
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 没年不詳 |
別名 | ヤスケ、彌介、彌助 |
主君 | 織田信長 |
弥助[1](やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷で、戦国大名織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた[2]。
生涯
弥助の出自については、フランソワ・ソリエーが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている[3][4]。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してにインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。
天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『信長公記』の同日の記録には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている[5]。
天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという[6][7]。
本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという[6]。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある[8]。
『松平家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様御ふち候、
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと二条御所に行って戦った末、明智軍に捕縛された。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で命は取らず、南蛮寺に送った[6]。
現代から見て、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられる一方で、藤田みどりは弥助を殺すことを忍びないと思った方便であるとの好意的な解釈を主張している[7]。
消息
その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていないが、その後の他地域の史料の中には黒人が登場するものがいくつかあり、そこから憶測した説がある。
フロイスの『日本史』の、沖田畷の戦いの記述の中で、大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来るが、それが弥助ではないかというのである。ヴァリニャーノは信長の前に有馬晴信にも謁見しており、沖田畷の戦いの前哨戦において有馬方を支援していた[7]。この黒人が弥助であるならば、主人を失った弥助が面識のあった有馬家を頼ってここまでやって来た可能性があるのではないかという解釈が、番組内では述べられた[11]。
しかしながら、この時代に日本へやってきた黒人は実は大勢いた[7]と考えられている。右の『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれているのがわかるが、日本い渡来した黒人の中の誰かを弥助であったかどうか特定することは不可能である。番組内で述べられたものはあくまでも仮説に過ぎず、特に根拠を持っていない。
弥助の名前の由来
- 「ヤスフェ」の訛りという仮説
2013年6月8日放送のTBS『世界ふしぎ発見』の中で、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島[12]へ取材に行ったところ、現地のマクア人の男性には「ヤスフェ」という名前が比較的多いことが判明した。このことから、弥助はもともと「ヤスフェ」という名前であり、日本ではそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする仮説を番組では唱えていた。
また、マクア人[4]の間では、日本の着物によく似た「キマウ」と呼ばれる衣装を着て踊る祭りが昔から伝わっており、弥助は最終的に故郷に戻って日本の文化を伝えたのではないかとも番組では考察されたが、これらを具体的に証明する証拠は見付かっていない。
登場作品
- 書籍
- 『くろ助』 - 1968年に岩崎書店から出版された来栖良夫による児童文学作品。主人公。
- 『黒ん坊』 - 1971年5月に毎日新聞社から出版された遠藤周作によるユーモア小説系列の作品。
- 『結城秀康』(小説)‐PHP研究所より出版された大島昌宏による小説。本能寺の変を生き延び、主人公結城秀康の側近として仕え、日本語を習得している。
- 『桃山ビート・トライブ』‐天野純希による小説。主要人物の一人として描かれている。本能寺の変を生き延び、その後はアフリカ帰郷のための資金稼ぎに港で働いていたが、詐欺同然の低賃金で働かされていたことを知り脱走。主人公らの一座に太鼓叩きとして加わることになる。
- 『王になろうとした男』 - 伊東潤による表題となった短編小説。2013年7月、文藝春秋より出版。
- ドラマ
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(大河ドラマ)‐「ソテロ」の名で登場。二条城の信忠に変の報告をするために寺を抜け出し、完全武装の鎧武者を素手で撲殺する。その後の消息は不明(演:リード・ジャクソン)。
- 『秀吉』(大河ドラマ)‐ヤスケは信長とともに戦い、信長に先んじて明智軍に殺されている(演:サムエル・ポップ)。
- 『軍師官兵衛』 (大河ドラマ)-NHKによる大河ドラマ。(演:ベルナール・アッカ)
- 映画
- 『大帝の剣』(映画)‐主人公の万源九郎はヤスケの孫という設定である。
- 漫画
- 『へうげもの』(漫画)‐信長殺害の真犯人を目撃した者として描かれ、羽柴秀吉に幽閉される。その後、古田織部の口利きにより許される(声:黒田崇矢(アニメ版))。
- 『戦国八咫烏』(漫画)-佐渡ヶ島に攻め入った外国勢力の奴隷兵として最前線に立っていた弥助が、羽柴藤吉の心意気に打たれて投降し、信長の部下となる。
- 『信長協奏曲』(漫画・連載中)‐石井あゆみによる漫画。主人公のサブロー(織田信長)と同じく平成の世の埼玉からタイムスリップしてきたアフリカ系アメリカ人のプロ野球選手のヤング。
脚注
- ^ 弥助、弥介、また旧字での彌助、彌介は、どれも同じ。同音異字の置き換えは江戸時代にはよく見られた。
- ^ 名前の分かる人物では、日本の史料に登場する最も古いアフリカ人の1人であるが、所在が確認できる期間は1581年3月27日から1582年6月21日の1年間余りと極めて短い。信長にとっては最晩年の家来衆となる。
- ^ “Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon, 第 1 巻、p.444.”. 2013年6月22日閲覧。
- ^ a b 『世界ふしぎ発見』2013年6月8日放送分では、当時のポルトガルが認識していた黒人部族はモザンビーク島周辺に住むマクア人だけであったため、弥助もまたマクア人であった可能性が高いとの説が紹介されていた。
- ^ 近藤瓶城 1926, p.204。太田 & 中川 2013, p.259
- ^ a b c 『イエズス会日本年報』
- ^ a b c d 藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店、2005年5月。
- ^ 「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。
- ^ 松平 1897, p.54
- ^ 淡泊な記述の『家忠日記』にわざわざこのように書いてあるということは、「黒い」「背が高い」という驚きと同じく、自分と同じ扶持もちの家来であることも大きな驚きであったと思われる。
- ^ TBS『世界ふしぎ発見』2013年6月8日放送分。
- ^ 「モザンビーク」という国名はこの当時ポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来している。
参考文献
- 太田牛一; 中川太古『現代語訳 信長公記』(Kindle)中経出版〈新人物文庫〉、2013年、259頁。ASIN B00G6E8E7A
- 近藤瓶城 編『国立国会図書館デジタルコレクション 信長公記』 第19、近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年、204頁 。
- クラツセ, ジアン (1925), 国立国会図書館デジタルコレクション 日本西教史, 上, 太陽堂書店, pp. 431-437
- 松平家忠『国立国会図書館デジタルコレクション 家忠日記』 第2、吉川半七〈文科大学史誌叢書〉、1897年 。