馬場のぼる
馬場 のぼる | |
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1953年 | |
本名 | 馬場 登 |
生誕 |
1927年10月18日 青森県三戸郡三戸町 |
死没 |
2001年4月7日(73歳没) 東京都練馬区 |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家、絵本作家 |
活動期間 | 1950年 - 2001年 |
ジャンル | 幼年漫画、4コマ漫画、風刺漫画 |
代表作 |
『11ぴきのねこ』 『バクさん』 他 |
受賞 |
第1回小学館漫画賞(1955年) 産経児童出版文化賞(1964年、1968年) 文藝春秋漫画賞(1973年) ボローニャ国際児童図書展エルバ賞(1985年) 日本漫画家協会賞文部大臣賞(1993年) 紫綬褒章(1995年) |
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馬場 のぼる(ばば のぼる、本名:馬場 登、1927年10月18日 - 2001年4月7日)は日本の漫画家・絵本作家。手塚治虫や福井英一とともに「児童漫画界の三羽ガラス」と呼ばれた。代表作は絵本『11ぴきのねこ』シリーズ等。
経歴
- 1927年10月18日 青森県三戸郡三戸町大字川守田字元木平に3人姉弟の末っ子として生まれる。
- 1944年 岩手県立福岡中学校4年修了後、海軍予科練14期生として土浦海軍航空隊に入隊。
- 1945年 6月、特攻隊員に選ばれて秋田県の上大野でグライダー訓練に明け暮れる。敗戦後、リンゴの行商人を経験するが半月で廃業。
- 1946年 開墾農民を志して岩手県の山村に入るも挫折。大工の見習いを経て、故郷で小学校の代用教員を務めたが軍歴がGHQに問題視されて失職し、農業会の書記に転職。やがて代用教員として復職し、絵の勉強を始め、劇団や映画館のポスター、看板を描く。
- 1948年 八戸市近くの米軍キャンプにアーティストとして勤務。ポスターを描きながら漫画を描く。
- 1949年 疎開中の児童文学者白木茂と知り合い、5月5日、白木の勧めで共に上京。
- 1950年 野球漫画『ポストくん』で漫画家としてデビュー。
- 1955年 『ブウタン』で第1回小学館漫画賞受賞。
- 1958年 漫画集団に入団。
- 1964年 『きつね森の山男』で産経児童出版文化賞受賞。
- 1968年 『11ぴきのねこ』で産経児童出版文化賞受賞。
- 1970年 『日本経済新聞』に『バクさん』を14年間連載する。
- 1973年 『バクさん』『11ぴきのねことあほうどり』で第19回文藝春秋漫画賞受賞。
- 1985年 『11ぴきのねこマラソン大会』でボローニャ国際児童図書展エルバ賞を受賞。
- 1993年 第22回日本漫画家協会賞文部大臣賞受賞。
- 1995年 紫綬褒章受章。
- 2001年4月7日 胃癌により東京都練馬区の自宅で死去。73歳没。上記の他にも受賞多数。
人物
帽子のチューリップハットを目深にかぶった姿がトレードマークで、後年の似顔絵や自画像でも欠かさなかったという。
主な作品
- 『11ぴきのねこ』(こぐま社)
- 『11ぴきのねこ ふくろのなか』 (こぐま社)
- 『11ぴきのねことあほうどり』 (こぐま社)
- 『11ぴきのねことぶた』 (こぐま社)
- 『きつね森の山男』(こぐま社)
- 『五助じいさんのキツネ』(こぐま社)
- 『となりの花さかじじい』(こぐま社)
- 『ポストくん』(『おもしろブック』1950年11月号 - 1954年10月号)
- 『山から来た河童』(『少年少女冒険王』1951年10月号 - 1954年3月号)
- 『ブウタン』(『幼年ブック』1954年1月号 - 1957年8月号)
- 『れんさいおさむらい』(1965年、『熊本日日新聞』夕刊)
- 『ろくさん天国』(1969年、『中日新聞』朝刊、『北海道新聞』朝刊、『西日本新聞』朝刊)
- 『バクさん』(1970-1983年、『日本経済新聞』夕刊)
- 『土曜漫評』(『読売新聞』)
- 『ぐんまちゃん』(あかぎ国体キャラクター→群馬県のキャラクター。2008年に2代目「ぐんまちゃん」(元・ゆうまちゃん)に変わるまで使用された)
- 『のらねこノンちゃん』(『婦人生活』1957年1月号 -)
テレビドラマ出演
手塚治虫との親交
馬場は手塚治虫と非常に深い親交があり、手塚にとって馬場は無二の親友であったという(手塚プロダクションの公式サイト参照)。手塚は馬場と知り合った初期から自分の漫画に馬場を何度も登場させている。代表的なものとしては、『フィルムは生きている』の宍戸梅軒(漫画家)や鉄腕アトムの通行人などがある。ほとんどが乞食の役柄で登場することが多いが、馬場が手塚に対し「ねえ、たまにはルンペンよりいい役にしなさいよ」と言ったことにより「W3」では重要人物として登場している。手塚は11ひきのねこを「七色いんこ」にも登場させている。
馬場が「ポストくん」で人気作家になっていた頃、少年画報社の前進である明々社の社屋で手塚治虫と一緒にカンヅメにされていた時に馬場は編集者と揉め、「馬場が連載をおりる」というところまで発展した。事情を判断した手塚は、編集者が帰った後に「気持ちはわかるが、作品はやめないで続けろ」と馬場を説得。その後、手塚は戻ってきた編集者に対しても「ポストくん」の連載を続けるように説得したという[1]。ポストくんは馬場の漫画での代表作となった。逆に、手塚が福井英一に飲み会の席で「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」「この贅六め!」と言われ、後日手塚が福井の作品である「イガグリくん」の中傷ともとれる内容を描き福井と喧嘩になった際には、馬場が二人の仲裁に入って和解に持ち込んだ(福井英一の項目を参照)。
手塚と馬場の付き合いは出会いから手塚が亡くなるまで続き、手塚の葬儀では馬場は加藤芳郎と共に弔辞を読んだ。
脚注
- ^ 福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書、2009年)