豊島与志雄

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豊島 与志雄(とよしま よしお、1890年明治23年)11月27日 - 1955年昭和30年)6月18日)は、日本小説家翻訳家仏文学者児童文学者法政大学名誉教授明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。

生涯

福岡県下座郡福田村大字小隈(現:朝倉市小隈)の士族の家に生まれる。

1909年(明治42年)福岡県立中学修猷館[1]、1912年(明治45年)第一高等学校文科[2]を経て、東京帝国大学文科大学仏文学科に進学[3]

東京帝大在学中の1914年大正3年)に、芥川龍之介菊池寛久米正雄らと第3次『新思潮』を刊行し、その創刊号に処女作となる「湖水と彼等」を寄稿し注目される。1915年(大正4年)、東京帝大卒業[3]

1917年(大正6年)、生活のため、新潮社中村武羅夫を訪ねて仕事を貰ったのが、『レ・ミゼラブル』の翻訳であった。これがベストセラーになり、大金を得た。この訳は、何度か改訂を経て岩波文庫で読み継がれている名訳である。こうして、翻訳が主で創作が従の活動が続く。

1923年(大正12年)、法政大学法文学部教授となる。1925年から再び旺盛な創作活動が始まる。1927年(昭和2年)〜1928年(同3年)、『レ・ミゼラブル』の再刊で再び印税多量に入る。1932年(昭和7年)、明治大学文芸科教授となる。1934年(昭和9年)、法政大学で野上豊一郎森田草平の対立激化、解雇される。1936年(昭和11年)、河出書房の編集顧問となる。1938年(昭和13年)、再び法政大学教授となる。

戦後は、第二次世界大戦により活動を停止していた日本ペン倶楽部(当時の会名)の再建に尽力し、1947年2月、再建された日本ペンクラブの幹事長に就任する。1949年(昭和24年)、法政・明治両大学を辞職、法政大学名誉教授。同年、日本芸術院会員となる。1952年(昭和27年)、旧訳『ジャン・クリストフ』が売れ、莫大な印税が入る。

1955年(昭和30年)6月18日、心筋梗塞のため東京都文京区千駄木の自宅で死去[4]享年64。

業績

代表作として、短編小説集『生あらば』(新潮社、1917年)、中編小説『野ざらし』(新潮社、1923年)、随筆集『書かれざる作品』(白水社、1933年)、長編小説『白い朝』(河出書房、1938年)、短編小説集『山吹の花』(筑摩書房、1954年)が挙げられる。ほかに、数多くの児童文学作品を書いた。

翻訳には、『レ・ミゼラブル』や『ジャン・クリストフ』などがある。創作家として名は残らなかったが、名訳者として名を残した。

係累

娘婿にフランス文学者の斎藤正直、孫娘にタレント志摩のぶこ(旧名 志摩のぶ子)がいる。

太宰治との親交

太宰治は、晩年に豊島与志雄を最も尊敬し、山崎富栄を伴って度々本郷の豊島の自宅を訪れては酒を酌み交わしていた。豊島も太宰の気持ちを受け入れ、その親交は太宰が亡くなるまで続いた。

最後の訪問は自殺の2か月前の1948年4月25日で、太宰は珍しく「愚痴を聞いて下さい」と言った(ただし結局、愚痴をこぼすことはなかった)という[5]

太宰の葬儀に際しては葬儀委員長を務めている。

作品

自著

選集・全集

翻訳

伝記・作品研究

  • 関口安義 『評伝 豊島与志雄』 未來社、1987年
    • 『豊島与志雄研究』 笠間書院、1979年
    • 『豊島与志雄と児童文学 夢と寓意の物語』 久山社 日本児童文化史叢書18、1997年
  • 中野隆之 『豊島与志雄童話の世界』 海鳥社、2003年

出典

  1. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員7頁
  2. ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)154頁
  3. ^ a b 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名269頁
  4. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)225頁
  5. ^ 豊島与志雄「太宰治との一日未来社 1967(初出 河出書房 1951)

外部リンク