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田河水泡

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田河 水泡
本名 高見沢 仲太郎
生誕 1899年2月10日
東京都墨田区
死没 (1989-12-12) 1989年12月12日(90歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家落語作家
代表作 のらくろ
受賞 紫綬褒章
勲四等旭日小綬章
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田河 水泡(たがわ すいほう、男性、1899年明治32年)2月10日 - 1989年平成元年)12月12日)は、昭和期に活躍した日本漫画家現代美術家から転じた。世界で初めての専業落語作家でもある。東京市本所区林町(現東京都墨田区)出身。

本名・高見沢 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。現代美術家としての名は高見沢 路直。落語作家としてのペンネームは高沢路亭

来歴・生涯

日本美術学校(現・日本美術専門学校)卒業。このころ、本名「仲太郎」を嫌って、「高見沢路直」と名乗っていた。大正期には村山知義らが主宰する前衛芸術集団『マヴォ』に参加。 兵役検査の結果,甲種合格。朝鮮に駐屯する第19師団・歩兵第73連隊に入営する。(羅南)軍隊は大嫌いだったが,この軍隊経験が,のちの「のらくろ」執筆には大変に役に立ったという。 大正15年、収入を得るため文筆業を始めることを思いつく。娯楽雑誌を見ていると、落語の掲載はあるが、いずれも古典落語であり、新作落語はどこにも掲載されていないことに気付く。さっそく新作落語を自作し、講談社に直接持ち込んだ。大物編集者中島民千に評価され、少年倶楽部等の雑誌での連載がスタートした。このとき、編集部を訪れた田河本人を、著者の使いの者と編集者が勘違いした(若い男が落語を書けるなどと思いもよらなかった)というエピソードがある。編集者の判断でペンネームをもじって「高沢路亭」と名づけられた。彼の作品は今日にも残っており初代柳家権太楼桂文治 (10代目)が得意とし、現在でも演じられている『猫と金魚』がある。

1年後、中島は、漫画を描くように薦めた。文筆と違い、漫画には自信がなく当初は断ったが、中島に押し切られて描き始める。漫画でのペンネームは、本名のローマ字表記Takamizawaを“Takamiz・Awa”とぎなた読みし、この“たかみず・あわ”に、いつパチンと消えるかわからないという意味を込めた漢字を当てて「田河水泡」とした。落語作家のほうが本業で、漫画が続くなどとは思っていなかったからである。当初はこれに「たかみざわ」と読み仮名を振っていたが、誤読の“たがわすいほう”の方が定着し、後述の『のらくろ』連載途中で読み仮名が「たかみざわ」から「たがわすいほう」に変えられた。

代表作に、漫画『のらくろ』がある。日中戦争第二次世界大戦のさなかに、漫画の世界でリアルに目の前にある戦争を風刺として扱ったということで、一世を風靡しただけでなく、意義ある作品との評価が高い。その他『蛸の八ちゃん』、『凸凹黒兵衛』、『窓野雪夫さん』、『漫畫常設館』、『漫畫の罐詰』など。ほかに「滑稽」を論理的に研究した著書『滑稽の構造』『滑稽の研究』、園芸入門書『のらくろ先生の観葉植物』、滑稽話をキリスト教的観点から見た『人生おもしろ説法』などの著書がある。

弟子に『サザエさん』の長谷川町子や『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂滝田ゆう山根青鬼山根赤鬼森安なおや伊東隆夫野呂新平ツヅキ敏永田竹丸などがいる。 また、手塚治虫は田河ののらくろなどを模写し、技術を磨いた。

叔父に浮世絵複製の『高見沢版』で有名な高見沢遠冶。夫人の高見沢潤子は、文芸評論家小林秀雄の妹にあたる。長男は東京都立大学(現・首都大学東京)教授の高見沢邦郎。また、富永一朗によると、ダークダックスのバクさんこと高見澤宏は甥にあたるという[1]

山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる玉川学園には 1969年より在住。遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりだった。

長谷川町子の『サザエさんうちあけ話』を原作とするNHK連続テレビ小説マー姉ちゃん』(1979年)では、田河水泡役を愛川欽也が演じた。また、2010年12月26日放送のテレビアニメサザエさん』(フジテレビ)の「サザエさん生誕65周年記念企画」で『サザエさんうちあけ話』がアニメになった時は柴田秀勝が声を当てている。

後半生はクリスチャンであった。『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川が弟子になったときにクリスチャンである長谷川に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったところ、後に夫妻で洗礼を受けることになったという。死後に夫人が出した『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝(1991年)』では、入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。

1989年12月12日、肝臓癌のため死去。90歳没。

代表作「のらくろ」が戦前の作品であるせいで、昭和の終わりごろにはすでに物故者と勘違いされることが多く、新聞記事等で「故・田河水泡」と誤って表記される事件が何度も起こった。

展示館

遺族は、遺品を生地の隣区である江東区に寄贈した。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を、田河の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。当地は生地の至近である。田河に関する唯一の展示館である。

主な作品

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 『NHK文化講演会15』所収「人生みな恩人」p.200(日本放送出版協会、1987年)