水野忠政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ジャムリン (会話 | 投稿記録) による 2012年4月14日 (土) 19:57個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (リダイレクト回避)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
水野忠政
時代 戦国時代
生誕 明応2年(1493年
死没 天文12年7月12日1543年8月22日
改名 牛息丸、妙茂、忠政
別名 藤七郎
戒名 長江院殿大渓堅雄大居士
墓所 宇宙山乾坤院
官位 右衛門大夫下野守
氏族 水野氏
父母 父:水野清忠
兄弟 清重忠政元興
正室:松平昌安の娘
継室:大河内元綱の養女・華陽院
近守信元信近忠守近信忠勝
藤助、忠分忠重、娘(松平家広室)
於大の方、娘(石川清兼室)
娘(水野豊信室)、娘(中山勝時室)
娘(水野忠守室)
テンプレートを表示

水野 忠政(みずの ただまさ)は、戦国時代武将戦国大名。幼名は牛息丸、通称「藤七郎」で、初め「妙茂(ただもと)」を名乗ったとされる他、「右衛門大夫」および「下野守」を称した。

徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の父であり、江戸時代に成立した水野諸家および徳川家の祖にあたる。

生涯

明応2年(1493年)、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸

はじめ尾張国緒川城愛知県東浦町)を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城松平広忠形原城松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

天文12年(1543年)7月12日、死去。享年51。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。法名は長江院殿大渓堅雄大居士。

忠政の子

寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)が掲げるのは次の9男6女である。記載の順に示す。

  • 近守(?-1556年[1]) - 藤九郎、和泉守。『刈谷市史』(第2巻、1994年)は、忠政の子ではないとする。
  • 信元(?-1576年[2]) - 藤七郎、四郎衛門、下野守。
  • 形原松平家広室(?-1597年[3]) - 於上の方(於丈の方)。法名は覚法院殿月貞妙心大姉で「伝通院の姉」とされる。最初の夫[4]は緒川城主水野常陸介成清(天文2年(1533年)没)で、先夫との間に水野石見守長勝があるという(『寛政譜』6巻)。墓所は埼玉県寄居町昌国寺。寄居町赤浜(男衾地区)では、現在でも「於丈の方」を「形ノ原様」(ギョウノハラ様)と言い伝える。
  • 信近(1525年-1560年) - 忠政の三男。藤四郎、藤九郎。法名を了輝。永禄3年(1560年)4月19日に岡部元信の攻撃を受け、刈谷城にて36歳で戦死。子は信政(元茂。叔父信元の養子となり、天正3年、養父と共に殺害される。「寛政譜」新訂6巻37頁によると、その母は「佐治氏」であるという)、但馬守、次郎左衛門、新右衛門信行(妙勝。法名・善心。信元に仕える)、村瀬左馬助重治の妻。いずれも生没年不詳。また新右衛門「信行」の子、新右衛門信常の妻は久松俊勝の娘で、またその間に生まれた子が将監信村であると記されている(寛政譜)。しかし信常(1550年生)を信近の孫とするのは生年からみて矛盾がある。また「寛政譜」の久松家にはそのような記述はない。
  • 忠守(1525年-1600年) - 四男。清六郎、織部。
  • 於大の方(1528年-1602年) - 松平広忠室、久松俊勝室。
  • 石川清兼室(?-1598年) - 妙春尼(妙西尼)。法名・芳春院妙西。三河一向一揆後に、本願寺派教団の「仏法之肝煎」として、門徒の赦免と西三河への寺僧の還住(天正13・1585年)がなされるまで、その指導的立場にあったと推測されている(『新編岡崎市史2』829頁)。現存する文書から、石川清兼の後室で、また日向守「家成」(1534年生)の実母とも考えられるが[5]、だとすると於大の方1528年生)の妹ではあり得ない(『新編岡崎市史』20巻、383頁)。慶長3年(1598年)2月4日没。墓所は岡崎市美合町の本宗寺
  • 水野豊信室
  • 近信(忠近)(?-1602年)- 五男。伝兵衛。法名・宗白。兄信近が戦死した刈谷城での戦いの際、負傷し障害を負ったが家康の関東入封後知行500石を得る。慶長7年8月9日(1600年9月15日)刈谷にて死去。墓所は「信近」と同じく、愛知県刈谷市天王町6-7の楞厳寺。子は近之(寛永20・1643年卒)、多門平兵衛信正室、松平加賀右衛門正次室。子孫は旗本として存続。
  • 忠勝(?-1568年) - 弥平大夫。今川氏真に属したが武田信玄に密書を送った罪により永禄10年12月22日(1568年1月30日)自害。子は康忠。子孫は江戸の町年寄になるという。
  • 藤助(?-1584年[6]) - 忠守・於大の方・近信と母を違える。
  • 中山勝時室(?-1644年[7]) - 名を屋鍋とする[8]
  • 水野大膳亮忠守[9]
  • 忠分(1537年-1579年[10]) -  八男。藤次郎。
  • 忠重(1541年-1600年) - 九男 。藤十郎、惣兵衛、和泉守。     

「近守」および「信元」には、長子・次子の区別はない。寛政12年の「水野氏法名一覧」[11]には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。ただし、ここでは「近守」を忠政の子としており、これを否定する「刈谷市史」の立場とは、その理由を異にする[12]

妻および子供たちの生母について

「寛政譜」がその出自を示すのは次の2名である。

  • 松平昌安(信貞)の娘 - 「信元」「松平家広室」の母。「死別」ではなく「離婚」となっている。
  • 大河内元綱の養女 - 「於富の方」(華陽院)として知られる。「継室」とされている。「忠守」「於大の方」「近信」「忠分」「忠重」の母とする。しかし、伝えられている松平清康1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる「忠分」「忠重」の母ではありえない。平野明夫は自書「三河松平一族」において所生の子供たちの生年から検討した結果、於富の方と松平清康との再婚は有り得ないと考証、結論している。

「水野氏法名一覧」の中に次の2名が記されている。

  • 三昭貞富禅定尼 - 「忠分」の母。没年は天文12年(1543年)2月4日。半年後に忠政が死亡。
  • 本樹院殿栄岩宗盛大姉 - 「水野和泉守殿之母」。没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述(柴屋軒宗長「宇津山記」)から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。

以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。

父祖、兄弟、および傍系血族

「寛永諸家系図伝」(以下「寛永系図」)では、水野氏を称してのち、貞守に至るまでを「この間数代中絶」としていた。「寛政譜」ではその5代の名を記しているが、貞守が緒川の地を支配し、また小川氏の末裔を称するに至った経緯は明らかではない。 加えて、小河水野家初代「貞守」から忠政らに至る4世代の関係を示す系譜も混乱している。恐らくは水野忠政の系統は緒川氏や水野氏の中でも傍流に過ぎなかったが、その後徳川家康に引き立てられ、家康が幕府を開くと忠政の子孫の多くが大名、旗本に取り立てられて世に出たために緒川・水野系譜でも嫡流の様な詐称がされたのではなかろうか。系譜上の混乱もその詐称改竄の結果ではないかと思われる。


小河水野氏は緒川水野家・常滑水野家・大高水野家の3つに分けられる。「寛政譜」では以下のごとくである。

緒川水野家(宗家)

1.貞守                九郎次郎 十郎左衛門 蔵人 長享元(1487年)5月18日卒、法名・玄室全通 年51  
 1.賢正(かたまさ)    彦三郎 藤七郎 蔵人       永正11(1514年)10月3日卒、法名・宝幢賢勝 
  1.清忠(信政)       重政 蔵人 下野守          永正6(1509年)5月29日卒、法名・一初全妙[13]
   1.清重             左近大夫
   2.忠政(妙茂)      藤七郎 下野守 右衛門大夫
   3.元興(邦重)      藤七郎 家康に仕える      元亀2(1571年)12月22日卒[13]法名・正念 年25
  4.女  (松平信忠の妻)
   5.女  (奥平貞勝の妻)

「寛永系図」も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。但し「清忠」の没年の記載がない。 「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。

「寛永系図・水野-坤」で忠政の兄弟とされた「藤助」(水野成政)は「寛政譜」に現れず、代わりに「清忠が長男」として左近大夫「清重」という人物が登場する。

1.清重
 1.某    三河鷲塚に蟄居
 2.治重   三郎九郎
 3.清信   左近。某年討死、29歳
 4.元定   大學

「清信」の子「正重」は「寛永系図」に「清久」として現れる。通称、太郎作もしくは左近。「寛政譜」によれば天文14・1545年生まれ、桶狭間の戦いの後家康に仕えて軍功を示し、慶長7・1602年に1000石を与えられて旗本になるという。実際は信元に仕え、その死後、家康の御家人となったようである。「松平記」にその名をみせる他、この人物の覚書(水野左近覚書。「水野記」巻十五)の内容が「武徳編年集成」や「寛政譜」の記事として用いられている。宗家は嗣子なく絶家となるが分家に紀州藩に仕えた子孫がいる。また「元定」子孫は、その経緯は不明としながらも水野を名乗って江戸旗本となっている(「重定」に始まって「穠喜」「穠久」「穠延」等の名前がみえる)。

3.元興(邦重)
 1.元教   彦三郎

元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後、元教は知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年徳川家治の時代に旗本となっている。

水野石見守家

忠政の兄とされる「水野成政」の系譜。「寛政譜」(6巻116項)と「新編 東浦町誌 資料編3」所収の乾坤院所蔵水野系図「水野氏嫡流略系図」および「石見守水野氏御系図」による。「水野氏嫡流略系図」ではこの家を嫡流とする。しかし結城水野家とのあいだに、嫡庶についての争いがあったという(「寛政譜」6巻35頁および116頁)。

0.某   水野藤助成政 尾州平島城[14]主 大永2(1522年)9月16日卒 法名・鐵肝栄心
 1.某  水野常陸介成清 緒川城主  天文2(1533年)3月24日  
                 緒川にて「生害」 妻は忠政の女 法名・孝山励忠
  1.長勝 水野石見守 母は忠政の女 慶長14年(1609年)11月3日卒 法名・寿光浄圓
 2.女(荒川十郎大夫某の妻)

長勝は、父「生害」の時2歳。母と共に刈谷へ逃れるが、母が松平家広に再婚するにあたり形原へ同行、家広の養育を受けるという。のち信長に仕えて「石ヶ瀬の戦い」に参加。信長の死後は北条氏政に仕え、小田原征伐では鉢形城北条氏邦の配下となっていた。北条氏滅亡後、天正19年に家康に仕えて武蔵国男衾郡に800石を与えられる。慶長7年伏見城番、同9年従五位下石見守となる。慶長14年伏見にて死去。78歳。

長勝の子忠貞が近畿8国の奉行職を務め5,000石、その子忠顯は大番頭で6,000石を与えられて、従五位下に叙任された。なお忠顯は水野忠清の4男で、次代・忠富、次々代・忠英はいずれも松本水野家3代水野忠直の子である。それゆえ水野忠重の直系となっている。

常滑水野家(監物家)

1.政祖(まさもと) 半左衛門 河内守  貞守の次男
 1.忠綱           監物             常滑城主    享禄2(1529年)7月23日卒、法名・全勝 
  1.某            山城守 大和守    常滑城主    某年死す              法名・花鴎 
   1.守次(守隆)  監物              慶長3(1598年)4月21日卒、法名・雲室全慶 
落城の後、嵯峨に住す。妻は水野信元の女。墓所は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68天龍寺
妙智院。
    1.某  (新七)                             天正12(1584年小牧の役にて戦死
    2.守信 半左衛門 河内守            寛永13年12月22日(1637年1月)卒、年60 
家康に仕え、関ヶ原の戦いの後に長崎奉行、次いで大坂と堺の町奉行を勤め、寛永9年より大目付。
後5,000石となる。法名・全叟宗完。

居城は常滑城愛知県常滑市山方町)で、忠綱およびその子の墓所は同市山方町5-106の天沢院である。「政祖」の名がみえるのは「寛政譜」のみ。「寛永系図」の「水野-坤」では「某・山城守・法名花鴎」-「守次・監物」とするが、忠政との関係は明らかではない。また「士林泝洄」巻36[15] は「大和守・常滑城主」-「大和守」-「守隆・監物」とし「大和守・常滑城主」を忠政の兄弟とする。但しこれが「寛政譜」にいう監物「忠綱」のことなのか明らかではない。

子孫は、河内守「守信」が「半左衛門」を名乗って旗本となり、戦死した「新七」の後には「信元」の孫が養子に入って尾張藩士となっている。守信の墓所は父「守隆」と同じ京都・天龍寺の永明院(同町60)、養子にはいった八郎衛門(あるいは新七郎)「保雅」のそれは常滑市社辺64の総心寺である。

  • 「保雅」の実母は水野信元の娘で法名「栄寿院転誉清心」(あるいは「博誉清心」)、養母も同じく信元の娘「向陽院花影総心」であるという(「士林泝洄」巻36)。向陽院は監物守隆の妻で、剃髪後熱田に居住した(「張州雑志」復刻1巻650頁)。
  • 「士林泝洄」巻36「水野」は、「総心」の養子となった八郎右衛門「某」の母を「信元」の娘とし、同時に「中山五郎左衛門」の子であるとする(名古屋市蓬左文庫所蔵本「藩士名寄」稿本版122‐125巻126項の記述も同様)。他方「士林泝洄」巻69「大崎」によると「信元」の娘を妻とした「大崎七郎右衛門」昌好(元和6・1620年卒)の下に八郎右衛門「保雅」(承応1・1652年卒)をかけている。その姓を「水野」と明記しており、養子となったのはこの「保雅」と考えられる(前掲「張州雑志」に同趣旨の記述あり)。しかし彼が昌好の実子であるのかどうかは記されていない。
    • 保雅の娘が「七郎右衛門妻」となっているが、これは七郎右衛門「昌継」(寛永11・1634年卒)の子、七郎右衛門「昌次」(延宝3・1675年卒)の妻と考えられる(「士林泝洄」巻69)。

大高水野家(大膳家)

1.為善             大膳 養月斎    貞守の弟
文明年中より大高城に住し、兄に属す。
 1.近守            藤二郎もしくは藤十郎
 2.忠守            紀次郎 大膳亮
  1.吉守           大膳亮
永禄6年三河一向一揆との戦いに参加し、家康より知行3,300石を得る。妻は水野信元の女。
   1.正長          大膳大夫もしくは大膳亮                 
信長、家康と仕えて大高に居城。関ヶ原の戦いに参加するも、負傷。傷が癒えずに死す。  
   2.女(水野善兵衛宗勝の妻) 
  2.正勝 (忠勝)   藤太郎 長左衛門        天正9(1581年)3月19日卒、年77
大膳忠守の次男。信長に仕える。
   1.宗勝           藤太郎 善兵衛        元和2(1616年)1月29日卒
織田信雄に仕えて後、小田原征伐において家康の旗下となり、500石を与えられる。

居城は大高城名古屋市緑区大高町城山)。しかしこの「大高城」については、愛知県武豊町東大高周辺を城邑域とする富貴城とみなす異説もある(『刈谷市史』)。江戸時代は吉守と正勝の子孫がそれぞれ旗本となった。

忠守は忠政の娘を妻としたが、『刈谷市史』ではこれを否定する。「寛永系図・水野-坤」では忠政との姻戚関係を記述していない。「寛政譜」では「正勝」の生母の記述はない。大膳亮忠守とその室(忠政の娘)は共に生没年不明であるが、忠守の子・正勝の生年を寛政譜の記述から逆算すると1505年となり、忠守室の兄・忠政の生年が1493年であるから、正勝が忠政の娘の実子でないことは確かである。

その他

水野豊信(藤右衛門。慶長3・1598年卒)とその子孫についての記述が「寛政譜」新訂6巻118項以下にある。それによると「豊信」は、家康に仕え、関東移封に付き従い、武蔵国豊嶋郡に知行210石を与えられたという。子孫は江戸旗本となっている。墓所は東京都文京区本駒込吉祥寺。「織田信雄分限帳」のなかに「水野藤右衛門」の名があり、知多郡吉川郷(愛知県大府市)に200貫文と記されているが、これを同一人物と考えてよいのか判断に苦しむ。「寛政譜」によればその享年を、はじめ87、のちに81につくるとしており、生年は1512年もしくは1518年ということになる。

注釈

  1. ^ 『寛政譜』に弘治2年(1556年)3月20日「父にさきだちて死す」とあるが、天文12年(1543年)没の父・忠政・の記述と矛盾する。
  2. ^ 旧暦なので新暦だと1576年にあたる。
  3. ^ 「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530頁)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)に「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、慶長2年(1597年)5月5日卒とある。
  4. ^ ただし、「忠政」-「信元」=「忠重」を嫡流とする、水野勝成に始まる福山・結城水野家の家譜では、於上の方が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという
  5. ^ 「新編岡崎市史6」所収、542-544項「上宮寺文書」29および31。「後室」とは妙春尼のことだと考えられる。また1194項「本派本願寺文書」7の家康朱印状。宛先は「ひうかのかみははかた」。「寛政譜」新訂3巻3頁の記述も同旨。
  6. ^ 「水野氏法名一覧」に、天正2年(12年の誤記と思われる。よって1584年)4月9日に「於尾州長久手戦死」とある。ちなみに「常滑水野家」監物守隆の子、「新七」がこの戦いに参加し、15歳で亡くなっている(「士林泝洄」36巻丁ノ二)。また「刈谷市史」第二巻の64項では天正2年を没年としている。
  7. ^ 「刈谷市史」第二巻の64頁。
  8. ^ 寛永諸家図伝
  9. ^ 兄の織部忠守とは同名異人で一族の水野大膳家の忠守のこと
  10. ^ 旧暦のため新暦では1579年にあたる。
  11. ^ 『新編東浦町誌』資料編3、2003年。
  12. ^ この「法名一覧」では、「近守」と没年が一致する「春河全芳」が「右衛門大夫御子」となっている。また「右衛門大夫」を忠政の呼称としてのみ用いている。
  13. ^ a b 「元興」の没年は「寛政譜」新訂6巻106項に示されているが、逆算すると生年は1547年となり、「清忠」の没年と矛盾する。「寛永系図」でも同様のため、「寛政譜」では清忠の没年の方を疑い、また元興の年齢を誤ったのではと指摘する。
  14. ^ 城跡は愛知県東海市荒尾町金山周辺
  15. ^ 但しこの巻は水野忠守の子、右馬允「守信」から分かれた「藤兵衛家」の呈譜によるもの。後に寺社奉行として「士林泝洄」編纂にも関わる家であるが、常滑水野家と直系になる訳ではない。

関連項目