水野信元

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水野 信元
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正3年12月27日1576年1月27日
改名 忠次→信元
別名 藤四郎、藤七郎
戒名 信元院殿大英鑑光大居士
墓所 楞厳寺 (刈谷市)
官位 下野守
主君 足利義昭
氏族 水野氏
父母 父:水野忠政、母:松平信貞の女
兄弟 近守信元信近忠守近信忠勝
藤助、忠分忠重、娘(松平家広室)
於大の方、娘(石川清兼室)
娘(水野豊信室)、娘(中山勝時室)
娘(水野忠守室)
松平信定の女
実子:十郎三郎甚左衛門(茂尾平兵衛)[1]土井利勝
養子:信政(元茂)(弟・信近の子)
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水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代大名水野忠政の次男。母は松平信貞(昌安)の女[2]。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。受領名下野守。妻は松平信定の女。

経歴

家督継承

天文12年(1543年)父・忠政の死去を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した[3]。天文21年(1552年)3月8日付の善導寺への寺領寄進が信頼できる初見の記録である。異母妹に於大の方がおり徳川家康の伯父にあたる。

信元が家督を継いだときの水野氏は、小河(緒川)水野氏、刈谷(刈屋)水野氏、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏に分かれていた[4]

父・忠政は松平氏と共に今川氏についていたが、信元が緒川水野の家督を継いで間もなく松平家広松平広忠に嫁いだ信元の姉妹が離縁されていることから、家督を受け継いだ当初より尾張国の織田氏への協力を明らかにしていたと考えられる。

知多半島統一戦争

信元は、織田信秀の三河侵攻に協力するとともに、自らは知多半島の征服に乗り出し、松平広忠に離縁された妹の於大の方を、阿久居の久松俊勝に嫁がせる。

天文12年(1543年)知多郡宮津城主の新海淳尚を攻める。新海は降伏勧告を断り、宮津城は攻撃を受け討死した。信元は宮津城を廃し亀崎城を築く。城主に稲生政勝を入れ、同年、成岩城に相対した小山に水野砦を築き、榎本了円(榎本了圓)を滅ぼす。成岩城主は、横根城(大府市)より水野家の臣・梶川秀盛(梶川文勝)が守将として入城した。さらに知多郡長尾城主の岩田安広を包囲。城主岩田安広は今川家に援軍を求めるが水野勢に対抗できず降伏した。安広は、出家し杲貞と名乗った。

分流である常滑城三代目の水野守隆には娘を嫁がせ、これで半島横断路は水野信元のものとなった。常滑水野氏は、現在の半田辺りまで勢力を伸ばし、大野・内海の佐治氏と対抗関係にあった。信元は富貴城主の戸田法雲を攻略。さらに河和の戸田氏を攻略するため、布土城を築き、弟の水野忠分を城主の任に当たらせた。これらの勢いに押された戸田氏は戦いに敗れ、富貴・布土・北方(知多郡美浜町)を失い半島における戸田氏の勢力が衰退した。

さらに天文16年(1547年)、田原城主・戸田康光は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(徳川家康)を強奪。これを手土産に織田方に転じるが、今川氏に攻め滅ぼされ討死する。追いつめられた知多半島の戸田氏は信元と講和を結び河和を残すことを図る。そこで河和城主・戸田守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。信元は知多半島南部でも、野間を支配下に入れ、大野佐治氏とも和解した。これにより知多半島は、常滑水野氏・大野佐治氏といった独立勢力性の強い豪族は残っているとはいえ、婚姻を結んでいる信元は知多半島の覇者となった。

今川氏との戦い

信元の協力を得たことで織田信秀は、三河に侵攻する。

  • 天文13年(1544年)9月。織田信秀は、三河安祥城を攻略。
  • 天文16年(1547年)織田信長(14歳)初陣で、三河の吉良・大浜へ出陣。ここは水野氏の領土であるから、水野氏への援軍であったと考えられている。
  • 天文17年(1548年)、織田信秀は三河重原城を攻略。
  • 天文17年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼大高城に攻めよせたが撃退。政兼は戦死する。
  • 天文18年(1549年)に松平広忠は病死。これを利用した今川軍は、松平家の従属化を強化。同年、今川の軍師太原雪斎は安祥城を奪回する。
  • 天文20年(1551年)3月3日、織田信秀は流行病により末森城で急死した[5]。これによって織田信長が当主になるが、織田家は内紛に突入。
  • 天文21年(1552年)、織田方であった鳴海城山口教継・教吉父子が今川義元の傘下に入った。
  • その策略で天文22年(1553年)大高城、沓掛城が今川方に奪われ、知多半島西側の寺本城主花井氏も今川方に転じた。

天文23年(1554年)、重原城も今川方に攻略され、緒川城は、寺本城・藪城・重原城に囲まれ孤立。刈谷城も包囲。今川氏は水野信元を攻め滅ぼさんと計画したのである[6]。さらに今川氏は重原城経由で物資を運び、緒川城の眼前に村木砦を築き、ここに至って信元は、信長に救援を依頼した。同年1月24日、信長は居城の守りを斎藤道三からの援軍に任せるという思い切った策で援軍に駆けつけると、信元と協力して村木砦を攻略し[7]、この村木砦の戦いに勝利はしたが、水野氏の織田家へ従属性は強まったといわれる。織田陣営は勢力を盛り返し、三河池鯉鮒を取り戻す。今崎城には織田の将兵が入り、水野配下では牛田城牛田政興坂部城久松俊勝知立城永見貞英などが知られる。[8]

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いは、織田方が今川方の大高城などを兵糧攻めにしたことで、今川義元が救援にきた後詰め戦争である。この戦いの最中、信元がどこにいたか不明とはいえ、織田陣営の重要な一翼を担っていたことは疑いなく、緒川城にいたと考えるのが常識的であろう。この時期の緒川城や刈谷城は、対今川の最前線であった。また、戦場となった桶狭間は水野家の家臣・中山勝時の領地であり、中島砦を守ったのは梶川高秀梶川一秀。丹下砦を守ったのは水野帯刀左衛門忠光であり、織田軍にあって一番首の手柄を取ったのは、水野清久水野清重の息子)である[9]。戦後、今川の将兵を快翁龍喜が弔っている。

桶狭間合戦の勝利後、大高城にいた今川方の松平元康(のちの徳川家康。信元の甥)を落ち延びさせてやり[10]、大高城に一門の水野元氏高木清秀の舅)を入れる。今川方の岡部元信が反撃に転じて、刈谷城を攻略。水野信近は討死した[11]。信元はただちに、信近の首級と刈谷城を取り戻す。この結果、緒川の信元が刈谷領を接収することになった。重原城も信元が奪取した。同年6月18日に、松平元康(徳川家康)が重原城に攻め寄せるも、これを撃退した[12]

清洲同盟

水野信元と松平元康は、織田と今川の代理戦争のように、刈谷城外や石ヶ瀬川大府市南東)など尾張南部および西三河の国境周辺において戦っていたが[13]、永禄3年(1560年)5月の今川義元の討死によって、今川・武田・北条の三国同盟陣営は弱体化し、更に松平元康が今川家から独立してしまう。その上、同5月から上杉謙信の関東出兵が始まっており、この情勢下において北条氏康は永禄4年(1561年)に水野信元へ「松平の裏切りは嘆かわしいことである。自分自身が出陣しようか」と協調を呼びかけている[14]

永禄5年(1562年)、信長と家康が清洲同盟を結ぶ際に、その仲介役となり[15]、織田家の代表は滝川一益。徳川の代表は石川数正[16]であり、信元は家康が三河を平定した後も家康の相談に乗るなど強い影響力を持っていた[17]。この時期、弟の水野忠重と従兄弟の水野清久が連れだって、信元の下を去り徳川家康の下に転じた。

永禄6年(1563年)家康が、三河一向一揆に苦戦すると、信元は甥の家康に援軍している。将軍・足利義昭が義輝時代の武家秩序を模したという「永禄六年諸役人附」には、水野信元が「外様衆」として登録されており、少なくとも義昭段階では、幕府直臣の地位を得ていた。

武田氏との戦い

実子を先立たれた信元は永禄10年頃から家督を養子の信政(元茂)に譲る。この信政の父は、桶狭間合戦直後に刈谷で討死した信近である。つまり、緒川水野氏の信元が、刈谷水野氏の所領を接収するにあたり、その後継者を養子に迎え、緒川・刈谷両家を融合させるという形式を整えたと伝わる。永禄11年(1568年)には、信長の上洛に従軍。その際に信長とは別に朝廷に対して2千の献金を行った[18]

元亀元年(1570年)の姉川の戦いにおいて佐和山城を攻落した[19]。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに援軍として参陣した[20]。信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、結果として野戦で敗走し憔悴した家康に代わり指揮。夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配し、武田軍を威嚇をして窮地を脱している。

天正2年(1574年)の長島一向一揆討伐の際には「しのはせ攻衆」に加わっていた。なお、同年3月20日、足利義昭より水野信元に御内書が遣わされた[21]。意訳すると「武田勝頼と協力して信長を討伐せよ。委細は(室町幕府御供衆)一色藤長が申します」というものであり、義昭から家康に遣わされた御内書とほぼ同文であった。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに参加[22]。信元の石高は24万石と称される[23]

水野家滅亡とその後

天正3年12月(1576年1月)、信長の武将・佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、三河大樹寺岡崎市鴨田町字広元)において殺害され、同時に養子の信政(元茂)も養父とともに斬られた[24]。墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳寺。法名は信元院殿大英鑑光大居士。刺客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという[25]。案内役をしていた久松俊勝は「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」[26]と述べて、出奔してしまう。夫に出奔された妹の於大の方とその子供たちは、その実子家康の下に引き取られた。兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、これが後の家康嫡男松平信康とその母築山殿粛清や石川数正の出奔の原因と考える人もいる[27]

水野領は、佐久間信盛の領土となり、俊勝の長男・信俊は佐久間信盛の指揮下で、石山本願寺と戦っていたが、天正5年(1577年)、かつて久松家が一向宗を保護していたことを理由に信盛の讒言をうけ、信長から謀反の嫌疑をかけられ憤慨して陣中で自害してしまう。そればかりか、その直後、阿久比に佐久間勢が攻め込み、信俊の子供二人も殺害されてしまう。その時まだ胎児であった子供がその母とともに助かり、その子孫は後に伊予松山藩に仕えたという。また、天正6年(1578年)謀叛の噂があがった荒木村重が、信長に弁明に行こうとするのを、家臣の中川清秀が、行けば殺されると諫言したのは、水野信元粛清事件を念頭に置いたものと考えられている。荒木村重の容疑は、水野信元の容疑とまったく同じである。

天正8年(1580年)信長は佐久間信盛を追放した[28]。 信長による19ヶ条の折檻状には

「一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく、結局、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄としてしまうのは言語道断…」

という一文がある。

さらに信長は、信元が冤罪だった[29]として、甥の徳川家康の下にいた信元の末弟忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させた。

文化

連歌を通じて里村紹巴とも交流があった。

『富士見道記』によると水野家は家中の者たちも数寄者が多く、また紹巴以前の文明十七年(1485年)万里集九『梅花無尽蔵』、明応八年(1499年)飛鳥井雅康『富士歴覧記』、永正三年(1506年)宗長『宇津山記』、大永二・四・六・七年『宗長手記』と来訪記録があり、文化人のパトロン的な存在であった。特に宗長は大永七年四月に刈谷の水野和泉守に逗留した折り、「みやげにと五百疋、去年ののぼりにも千疋はなむけ、以下の芳恩、惣じて此年(来)万疋にもおよび侍らむおそろしゝ」と恐縮していて、その財力の豊かさが想像されるが、信元を含め、当時の水野氏自体の文芸はほとんど残されていない[30]

信元殺害の原因

『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城天正3年(1575年)に信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたというものである(巻6)。

信元の死後、その所領は、信盛が失脚する天正8年(1580年)までの間、佐久間領となったことが「小河かり屋跡職申し付け」との「信長公記」(巻13)の記述より推測されている[31]

信元の死に佐久間信盛が関与したかどうかはともかく、この出来事は三河からの武田氏の脅威が除かれた時点で起こったことから考えて、尾張、三河において信元が持つ権力の排除が目的であったという見方もできる。『新編東浦町誌 本文編』(1998年刊行)は信元殺害が、織田・徳川双方の合意によってなされたものであるとする(203項)。現存する文書[32])から、彼が三河の領国支配に関与していたことが推定でき、後に彼の存在が織田・徳川両家にとって目障りかつ不用なものとなっていたのではないかとも推測できる。

信元の子

  1. 養子「信政(元茂)」(信元の弟・信近の子)
  2. 「某・十郎三郎」(母は「松平信定」の娘)
  3. 監物「守次」(守隆)の妻
  4. 荒尾善次の妻(後室)
  5. 大膳「吉守」の妻
  6. 戸田孫八郎重康(守光)の妻[33]
  7. 大崎七郎右衛門昌好の妻
  8. 安部摂津守信盛の「養妹」[34]
  9. 鈴木弥一右衛門重政の妻
  10. 寺沢志摩守広盛の妻
  11. 彦三郎「元教」の妻
  12. 鈴木内蔵助重信の妻[35]
  13. 「茂尾平兵衛」(甚左衛門[1]、以上3名の男子と10名の女子が『寛政譜』新訂6巻37項に掲げられている。

なお、水野家(結城水野家と思われる)の家譜によると、信元の末子は土井利昌(小左衛門正利)の養子となった土井利勝であるという(『寛政譜』新訂6巻37項)。しかし、土井家の家譜にはその旨の記載がない(同5巻246項「土井」)[36]

主な家臣

水野信近
(?~1560)通称、水野十郎左衛門。刈谷城主。刈谷水野の当主。信元の弟。桶狭間の戦いの直後、今川家臣岡部元信に攻められて討死。娘は村瀬重治[37]室。桶狭間の以前に水野十郎左衛門は今川義元や斎藤道三と連絡をとりあっていた形跡がある。[38]
水野信政
(?~1575)信元の嫡男だが、「重修譜」では信近の子、伯父・信元の養子とある。信元の連座の罪に問われ、27日、父とともに切腹した(重修譜・水野系図ほか)。
水野忠守
(1525~1600)信元の弟。緒川城主。
水野忠分
(1537~1579)信元の弟。布土城主。
水野忠氏
(?~?)大高城主。大高水野の当主。当初今川方であったのが、緒川水野氏が今川から織田方へ旗幟を鮮明したのに歩調をあわせて、織田方となったものと思われる。鳴海城主・山口教継・教吉父子の策略で城を追われる。大高山春江院という大高城近くの寺は、曹洞宗で、弘治2年(1556年)大高城主・水野大膳亮忠守(水野忠氏の子)が創建したという。春江院は、寺院ではあるが、周りを崖などで囲まれ、大高城の詰城の感がある。水野大膳亮忠守とは、水野忠政の娘を妻としている。つまり、大高城主であった水野大膳亮忠守は、松平元康、徳川家康の叔父ということになる。その次男正勝は後に信長に仕えて、嫡男大膳亮吉守は永禄6年(1563)三河一向一揆との戦いに参加して、家康より知行3,300石を与えられているが、吉守の妻は水野信元の娘であり、親子二代に渡り、本宗である緒川水野氏と婚姻関係を結んでいる。
水野守隆
(?~1598)監物。実名は直盛・守次などとも伝わる。常滑城主。常滑水野の当主。常滑焼で有名。澤田ふじ子著「修羅の器」という小説の主役。 子に水野守信
水野忠光
(?~?)帯刀左衛門。常滑水野氏の喜三郎忠綱の子。信長に仕え永禄年間、黒母衣衆の一人に選ばれる。永禄3年(1560年)5月、今川軍に備えて丹下の砦の守備のため入れ置かれた一人(公記)。永禄4年(1561年)5月23日の軽海の戦いに参加している姿が「甫庵」に見えるが、その後は史料に現れない。
戸田孫右衛門
(?~?)知多郡河和城主。河和城は知多半島東南部にある湊街で、三河湾を隔てて渥美半島に対峙する位置にあたる。水野信元の麾下に属する海賊衆のひとり。
戸田守光
(?~1590)戸田孫右衛門の男。通称孫八郎。室は水野信元の娘。1590年「小田原の役」で討死した。子は家康のもとで成長。慶長2年(1597年)に上意にて水野下野守信元の名跡を継ぎ、戸田姓を水野に改める。 水野惣右衛門光康と名乗り、河和水野氏の祖。尾張藩主・徳川義直に仕える。
水野清重
(?~?)水野忠政の兄弟。於大の方を松平家から引き取るとき、高木清秀とともに出迎えた。
水野長勝
(1532~1609)(松平長勝)・国丸・藤助・新右衛門・石見守。水野忠政の娘婿・水野常陸介(*~1534)の息。父の死後、母の再婚者・松平家広に養育される。織田家に出仕し、1558年の「石瀬の合戦」に軍功。変後、関東の北条家に出仕。水野石見守家。
水野藤九郎
(?~?)信元の一族であろうが、誰に当てはまるかは不明。永禄6年(1563年)9月15日、信長より鷹の進上に対して礼を述べられている(古今消息集)。
永見貞英
(?~?) 三河国池鯉鮒神社の神主。永見貞英の妹は水野忠政の子信近に嫁ぎ、貞英は忠政の娘を娶った。その娘が結城秀康生母長勝院である。松平広忠も水野忠政の娘を娶っており、長勝院は家康にとって従兄弟という関係になる。永見家は水野家の再興に尽力した家と評価されている。
牛田政興
(?~?) 玄蕃頭。牛田城主。永禄3年、今川家に落とされた猪川城奪回戦で功があった。
中山勝時
(?~1582)岩滑城主。妻は水野忠政の娘。
久松俊勝
(1526~1587)坂部城主。水野氏と松平氏の間で去就が定まらず、信元は於大の方を嫁がせたが、やはり両属的な立場にあった。信元死後、久松家は佐久間信盛の下に入れられているから、公式には水野家の麾下。
久松定員
(?~1577)松平・弥九郎。尾張知多郡阿古居荘の豪族。俊勝の嫡男。佐治対馬守の娘婿。佐久間信盛の与力武将として天王寺城在番。水野信元の罪に連座し自害。
岩田安広
(?~?)左京亮。長尾城主。水野氏に抵抗することをあきらめて降伏開城。岩田安広は剃髪して杲貞(こうてい)と号して、僧形となって水野氏の本陣に赴いた。その後、岩田氏の軍勢は、戸田氏に占拠されている冨貴城を攻略するため、水野軍の先鋒として投入されたという。水野氏に降伏した岩田氏は歴史の表舞台から姿を消したと考えられたが、武雄神社の棟札に長尾城主岩田安広と記したものが確認され、それには「奉修造長尾天王安全守護攸 弘治2年(1556年)丙辰正月尾州智多郡枳豆志荘長尾城主岩田左京藤原安廣」とあり、その後も水野氏の麾下で長尾城主として続いていたようである。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いが起こると、岩田安広は再び今川氏に属したが、今川義元が敗死したため、翌永禄4年(1561年)安広は長尾城主の地位を去った。この時点で長尾城は廃城になったようである。
梶川高秀
(?~1568)水野忠政以来の家臣。
梶川高盛
(?~1596)梶川高秀の男。水野信元家臣。通称弥三郎。坂井政尚の討死に後に楽田城主となった。1573年「槙島城の戦い」では宇治川の先陣を果たした。1575年、水野信元が追放されると佐久間信盛の寄騎衆に配された。1576年、天王寺城を佐久間信栄とともに一揆から城を死守した。1580年、佐久間信盛が追放されると織田信長の馬廻衆となった。1582年「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」にも参陣した。「蟹江城の戦い」で戦功を挙げた。その後は織田秀信に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では「岐阜城の戦い」で戦功を挙げた。
梶川一秀
(1538~1579)三河衆。元・水野信元の与力。丹羽郡羽成城主。
梶川秀盛
(?~?)五左衛門。別名・梶川文勝。平九郎の三男で、高秀・一秀の弟。「張州雑志抄」「尾張志」によれば、横根村の人で水野信元に属すという。横根城(大府市)より成岩城に移った。信元の死後、佐久間信盛の与力になったのであろう。天正8年(1580年)八月に佐久間父子が追放された後、甥の高盛とともに信長に召し出され、直仕する(池田本)。1582年、本能寺の変後は信雄に仕え、1,080貫文の地を知行(分限帳)。同18年の小田原陣の時、信雄の命により、せいきのことを司るという(梶川系図)。「文禄の役」で渡海。池田輝政に属して「湯川城の戦い」などの戦功があったが、某年その地で病没(討死)した。時に60歳という(寛永伝・梶川系図)。その後、成岩城は廃城となった。
稲生政勝
(?~?)亀崎城主。七郎佐衛門。稲生氏は伊勢国稲生城主であったが、故あってこの地に来たという。政勝は、初め重勝といいその子新七郎政清もこの亀崎城主となった。
高木清秀
(1526~1610)のちに徳川十六神将に数えられる。
川口宗勝
(1548~1612)宗吉の子。母は信長の伯母、妻は福富秀勝の娘(重修譜)、津島の人で、水野信元に仕えるという(尾張志)。
浅井道忠
(1530~?)桶狭間の戦いののち、家康への使者となった。
上田近正
(?~?)平六。名前は近伊、正勢。水野信元家臣。尾張愛知群の城主丹羽氏識の四男で、上田無仁斎の養子。のちに清兵衛と称した[39]。水野記には「無仁斎者織田信長庶流故家紋ハ瓜也」「特に上田家は重要な家らしい」と記されている。桶狭間の戦いの直後大高城から引き上げる家康を送り届けたり、三河一向一揆の折には、一揆の首魁を打ち取った見事な戦功がある[40]。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。
滝見弥平次
(?~?)水野信元家臣。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。
矢田伝市郎
(?~?)水野信元家臣。1575年、水野信元が追放されると、佐久間信盛の寄騎衆に任じられた。
神谷長直
(1536~1593)通称は金七郎。信元が殺害されたあと、佐久間信盛の与力になる。新訂寛政重修諸家譜に項目がある。
清水左京亮
(?~?)緒川の人なので、水野信元の臣であろうと考えられている。永禄10年(1567)7月8日、尾張に立ち寄った里村紹巴を招いて、連歌会を催している(富士見道記)。
毛受勝照
(?~1583)元々は水野姓で、尾張東部の稲葉村(現・尾張旭市)の出身。子孫は水野姓に戻ったという。
拝郷家嘉
(?~1583)詳細は不明ながら知多半島付近という水野領出身で、水野家とも姻戚関係にあったらしいとのこと。

補注

  1. ^ a b 『鈴鹿郡野史』によると水野一信と記され、板倉重冬に仕えたとする。
  2. ^ 『刈谷市史』第2巻(1994年)では『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略す)に現れる「近守」を忠政の子から除外し、信元を長男としている。
  3. ^ 「新編東浦町誌 資料編3」295項(延命寺文書)、309項(無量寿寺文書)、「張州府志」巻30の正盛院の項、および「知多郡史」所載、文政10年「藤次郎」の250回忌が営まれたとの心月斎寺記(上巻187項)に拠る。
  4. ^ 戦国時代によくある一族一揆といわれる形で、いずれも独立勢力でありながら、結束は固い。
  5. ^ 桑田忠親は天文18年(1549年)に没したと述べている。
  6. ^ 「史跡 村木砦」外山清治著「ああ緒川城 於大への想い」東浦町発行
  7. ^ 信長公記』首巻
  8. ^ のちの桶狭間の戦いのおりには、今川の先鋒・井伊直盛の攻撃を受けて、今崎城の将兵は全滅。戦死した兵士を埋めたと伝わる「さむらい塚」がある。牛田政興は刈谷城に入る。永見貞英は今川方に城を明け渡したとして、戦後信長に城を焼かれた。久松俊勝の下には家康が母を訪ねてきた、という逸話があるが、おそらくこのときひそかに寝返っていたのだろう。
  9. ^ 『常山紀談』
  10. ^ 三河物語によると、退却する家康が池鯉鮒に差し掛かったとき一揆の大将・上田半六が邪魔をしたが、退去勧告にきた水野殿家人・浅井六之助が説得して道を譲る、とある。後年、武田征伐の帰りに、水野忠重が織田信長を池鯉鮒で歓待している。おそらく、桶狭間の直後に、池鯉鮒は水野家が奪還したのだろう
  11. ^ 「東浦町誌」資料編3所収、岡部五郎兵衛宛の今川氏真書状(345項)および「松平記」巻2の記述。
  12. ^ 『水野勝成覚書』
  13. ^ 「武徳編年集成」永禄元年2月、3年6月の18日、19日、および永禄4年2月の記述。
  14. ^ 北条氏康書状
  15. ^ 『松平記』巻2。『三河物語』は信元の関与を記さない。
  16. ^ 石川数正の祖母・妙春尼(妙西尼。石川清兼室)は、信元や於大の方の妹。
  17. ^ 『牧野文書』
  18. ^ 言継卿記
  19. ^ 『信長公記』巻3「あね川合戦の事」
  20. ^ 『信長公記』巻5「味方ヶ原合戦の事」
  21. ^ 榊原家所蔵文書
  22. ^ 『耶蘇会士日本通信』には信元は「三千の兵を率いたる大身」と記述されている。
  23. ^ 結城水野家譜。いかにも過大だが、のちに信元の旧領を与えられた忠重は、「織田信雄分限帳」(天正13-14年成立)によって、刈屋、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち都合1万3千貫文(約12万石)と記されている。
  24. ^ 『寛政譜』の記事に拠る。信長に追討を命じられた家康は、家臣の石川数正 をして信元を岡崎に迎えしめ、その途中において平岩親吉によって殺害されたことになっている。『松平記』では切腹したとするが、その場所については記さない。『三河物語』は信元の死について触れていない。
  25. ^ 平岩家譜・寛政重修諸家譜
  26. ^ 藩翰譜
  27. ^ <徳川家康と戦国時代>清洲同盟がもたらした悲劇 著者: 橋場日月「水野信元事件によって徳川家中に深刻な対立を生む」
  28. ^ 『寛政重修諸家譜』によると明智光秀の讒言とされる。余談だが、明智光秀の妻妻木煕子の母親(妻木広忠夫人)は、水野信元の姪(貞徳生母)である。
  29. ^ 寛永諸家系図伝、新訂寛政重修諸家譜
  30. ^ 紹巴富士見道記の世界 著者: 内藤佐登子
  31. ^ 『刈谷市史 第2巻』107項など。
  32. ^ 愛知県幸田町の本光寺所蔵の「深溝へも達而異見を申候」とする信元書状。また、牧野康成を同家の跡目として認める永禄9年の信元書状。『新編東浦町誌 資料編3』312項および313項より。
  33. ^ 「妙源尼」。子「光康」は水野姓を名乗り尾張藩に仕える。「士林泝洄」巻77「水野」
  34. ^ 後に水野重央の妻となる。同6巻91項。新宮水野家2代「重良」の生母
  35. ^ はじめ松平大学「某」に嫁し、夫の死後に内蔵助「重信」に再嫁。重信の戦死の後は「伝通院」に仕え、「一木」の名を与えられる。家康の関東入封につき従い、江戸城内、紅葉山に住んだとの「寛政譜」の記述がある(新訂18巻10項「鈴木」)。内蔵助「重信」との間に杢之助「重政」(杢之助重次)をもうけ、その子孫は旗本となっている。なお、「寛政譜」が意図した「一木」の読みは「ひとつぎ」と思われる。同書はその名の由来を、杢之助「重政」の采地が三河国高橋庄の一木郷であったことにもとめており(同15項の按文)、この「一木」の地名を「ひとつぎ」と記している。
  36. ^ 『尾陽雑記』によると、土井利勝の母は織田信秀の愛妾だった。信秀の亡きあと、水野信元が側女にする、とある。
  37. ^ 織田信雄家臣で4,000石。関ヶ原の役では、水野勝成に協力して大垣城を攻める。大坂夏の陣では水野勝成の目付。のちに徳川頼房の家老で1万石
  38. ^ 一昔前まで、水野十郎左衛門は信元と同一人物と考える説があったため、桶狭間のおり、信元は今川に内通していた、と推測する人もいた。
  39. ^ 寛政重修諸家譜巻第八十五丹羽氏
  40. ^ 寛政重修諸家譜巻第三百二十八水野信元

出典

  • 『三河文献集成・中世編』所収「松平記」国書刊行会、1980年
  • 日本思想大系26 三河物語』岩波書店、1974年
  • 『武徳編年集成』名著出版、1976年
  • 桑原忠親校注『新訂 信長公記』新人物往来社、1997年
  • 『新訂寛政重修諸家譜』続群書類従完成会、1964年
  • 名古屋叢書続編 第17巻-20巻『士林泝洄』愛知県郷土史料刊行会、1984年
  • 『刈谷市史 第2巻』刈谷市、1994年
  • 『刈谷市史 第6巻』刈谷市、1992年
  • 『新編東浦町誌 資料編3』愛知県知多郡東浦町、2003年
  • 『張州府志』愛知県郷土史料刊行会、1974年
  • 『知多郡史』知多郡役所、1923年

関連項目