松平頼聰
松平頼聰 | |
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 天保5年8月4日(1834年9月6日) |
死没 | 明治36年(1903年)10月17日 |
改名 | 万之助(幼名)、頼聰 |
戒名 | 厚徳院殿閃蓮社温誉知遠源懿大居士 |
墓所 |
香川県高松市仏生山町の法然寺 東京都台東区下谷の谷中墓地 |
官位 | 従二位、讃岐守、伯爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 讃岐高松藩主 |
氏族 | 水戸松平家 |
父母 |
父:松平頼恕、母:浅田八重 養父:松平頼胤 |
兄弟 | 頼煕、武揚、勝成、頼聰、大久保忠礼 |
妻 | 正室:井伊直弼の娘・弥千代 |
子 |
徳川義礼、頼親、頼寿、胖、永井翠直、 聰子(徳川篤敬正室)、岳子(松平親信正室) 養子:頼温 |
松平 頼聰(まつだいら よりとし)は、讃岐高松藩の第11代(最後の)藩主。
生涯
天保5年(1834年)8月4日、第9代藩主・松平頼恕の四男として生まれる。幼名は万之助。嫡子となっていた兄・頼煕が弘化3年(1846年)に早世したため、嘉永6年(1853年)に父の跡を継いだ第10代藩主・頼胤の養子となる。文久元年(1861年)7月8日に頼胤が隠居したため、7月9日に家督を継いで第11代藩主となった。幕末期の動乱の中では、親藩であり徳川慶喜とも縁戚関係に当たったため、佐幕派として京都・摂津方面の警備を務めた。元治元年(1864年)の禁門の変では御所の警護を務めた。
慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に与して薩摩藩・長州藩の軍勢と戦ったため、戦後に新政府から朝敵とされて頼聰は官位を剥奪された。このため、頼聰は松平頼該らを中心に藩のとるべき道を討議させ、官軍を迎え討つという藩論をおさえ、官軍恭順にまとめた。そして1月18日に責任者として執政の小河又右衛門久成(おごう またうえもん ひさしげ)と伏見役の総督 小夫兵庫正容(おぶ ひょうご まさしず)の2人を切腹させて首を差し出し、自らは城下の浄願寺に入って謹慎した。同年4月15日になって罪を許され、22日に官位が復されている。
以後は藩政から遠ざかり、松崎渋右衛門が執政となった。明治2年(1869年)の版籍奉還で高松藩知事に任じられるが、9月に高松城内で松崎が暗殺され、明治3年(1870年)1月には阿野郡北部で役人の不正による百姓一揆が起こるなどした。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官されたが、頼聰が9月に東京市に移ろうとした際には、これに反対する坂出・宇足津などで百姓一揆が起こるなど、高松は混乱続きであった(東讃蓑傘騒動)。