早霜 (駆逐艦)
艦歴 | |
---|---|
計画 | 1942年度(マル急計画) |
起工 | 1943年1月20日 |
進水 | 1943年10月20日 |
就役 | 1944年2月20日竣工 |
その後 | 1944年10月26日戦没 |
除籍 | 1945年1月20日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,077t 公試:2,520t |
全長 | 119.3m |
全幅 | 10.8m |
吃水 | 3.76m |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 52,000hp |
最大速力 | 35.0kt |
航続距離 | 18ktで5,000浬 |
燃料 | 重油:600トン |
乗員 | 225名/277名[1] |
武装(新造時) | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 Ⅱ×2 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九三式魚雷16本) 爆雷×18乃至36 |
早霜(はやしも)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の17番艦である。
艦歴
1942年度(マル急計画)仮称第345号艦として舞鶴海軍工廠で建造。1944年(昭和19年)2月20日に竣工して一等駆逐艦に類別される。
竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将(海軍兵学校41期))に編入。直ちに瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、戦艦大和の護衛を兼ねて横須賀海軍工廠に回航され、残りの工事を受けて[2]瀬戸内海に戻った[3]。5月10日、戦艦武蔵、航空母艦隼鷹らの護衛のため佐伯を出撃し、タウイタウイに向かう。6月19日のマリアナ沖海戦では乙部隊(第二航空戦隊、戦艦長門、重巡洋艦最上など。城島高次少将(海軍兵学校40期))に合流して参加した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後[4]、6月24日に柱島泊地に帰投した[5]。7月1日、呉を出撃し、第五戦隊(橋本信太郎中将(海軍兵学校41期))をマニラを経てリンガ泊地まで護衛。8月15日、秋霜、清霜とともに第二駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊(早川幹夫少将(海軍兵学校44期))に編入された。
10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊(栗田健男中将(海軍兵学校38期))はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾で補給の後、10月22日に出撃した。10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦った。しかし、10月25日夕刻に爆撃を受けて損傷し、コロン島への単独回航を命ぜられた。一時は秋霜が護衛に就いたものの、燃料の補給のため分離していった。翌10月26日、ミンドロ島南方を航行中に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃を受け、艦首部と艦中央部の命中弾によって艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、沈没を防ぐためにセミララ島の浅瀬に擱座した[6]。10月27日、レイテ島への輸送作戦からの帰途に空襲で沈没した軽巡洋艦鬼怒の救援のために派遣された駆逐艦不知火が、セミララ島の西方海域で空襲を受けて沈没し、早霜はその光景を目撃[7]。4日後の11月1日、重巡洋艦那智の艦載機が擱座している早霜を発見して着水し、不知火の最期を聞きだした[8]。アメリカ軍によるフィリピン奪回が進んで後、アメリカ海軍の調査班が擱座している早霜を調査したが[9]、早霜の船体がその後どうなったかは定かではない。
歴代艦長
艤装員長
- 荒井靖夫 中佐:1944年1月10日 -
艦長
- 荒井靖夫 中佐:1944年2月20日 -
- 平山敏夫 少佐:1944年4月2日 -
脚注
参考文献
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127100
- 多号作戦第二輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『昭和十九年十一月四日 多号作戦戦闘詳報第一号(自十九年十月三十一日至十九年十一月四日第二次輸送作戦)』(昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087400
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 田村俊夫(解説)「艦艇秘録写真選」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ57 帝国海軍 艦載兵装の変遷』学習研究社、2007年、ISBN 4-05-604599-2