日本女子大学
日本女子大学 | |
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ファイル:Nihionjyoshiuniv.jpg 日本女子大学(目白台キャンパス) | |
大学設置 | 1948年 |
創立 | 1901年 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人日本女子大学 |
本部所在地 | 東京都文京区目白台二丁目8番1号 |
学生数 | 6,572 |
キャンパス |
目白キャンパス 西生田キャンパス |
学部 |
家政学部 人間社会学部 文学部 理学部 |
研究科 |
家政学研究科 人間社会研究科 人間生活学研究科 理学研究科 文学研究科 |
ウェブサイト | http://www.jwu.ac.jp/ |
日本女子大学(にほんじょしだいがく、英語: Japan Women's University 略称:JWU)は、東京都文京区目白台二丁目8番1号に本部を置く日本の私立大学。1901年創立、1948年大学設置。大学の略称は本女(ぽんじょ)、日女(にちじょ)、古い卒業生および職員は「目白のじょしだい」と呼ぶことが多い。
概要
通信教育課程については、男性は科目等履修生としてのみ在籍可能。通信制大学院も設置された。通信教育で、中学や高校の家庭科や保健科の教員免許の取得が可能な数少ない大学。近畿大学豊岡短期大学や近畿大学九州短期大学の通信教育課程中学家庭科教員養成コースが廃止されたため、現在は、通信で家庭科教員免許が取得できる、日本国内で唯一の大学となっている。ただし、科目等履修生の教育実習や介護等体験の履修は、日本女子大学の卒業生のみに限定している。そのため、通信教育で家庭科や保健科の教員免許を取得できる男子学生は、すでに国語・英語・音楽といった家庭科や保健科以外の何らかの教科の中学免許や高校免許を取得済の者に限られる。
かつて「ジーンズを着て通学すること」の是非を巡り全学ストライキに発展したことがあった。まだジーンズが「貧乏人の服」であり、「秩序への反逆」(アメリカの俳優ジェームス・ディーンが映画「理由なき反抗」などで着用していたことからそのイメージができた)でもあった時代のことである。
附属中高とともに、夏期休暇の時期に大学所有の軽井沢にある三泉寮で宿泊セミナーが行われ、互いの考えを交換し高めあういい機会になっている。
「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の三大綱領を掲げている。
沿革
- 1901年4月20日 女子高等教育の第一人者、成瀬仁蔵によって、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針をかかげ、日本女子大学校[1]として創立された。
- 1904年 専門学校令による専門学校として認可[2]。
- 1948年 学制改革によって新制大学としての日本女子大学が発足、家政学部・文学部を設置
- 1990年 西生田に人間社会学部を設置
- 1992年 理学部を設置
教育および研究
学部
大学院
付属校
施設
キャンパス
目白キャンパス
- 使用学部:家政学部、文学部、理学部
- 使用研究科:家政学研究科、文学研究科、理学研究科、人間生活学研究科
- 使用付属校:日本女子大学附属豊明幼稚園、日本女子大学附属豊明小学校
西生田キャンパス
- 使用学部:人間社会学部
- 使用研究科:人間社会研究科
- 使用付属校:日本女子大学附属中学校・高等学校
-
正門
-
キャンパス
-
日女祭(ひめのさい)
学生生活
学園祭
- 目白キャンパス
- 目白祭と称し、1954年から開催されている。
- 西生田キャンパス
- 日女祭(ひめのさい)と称し、1991年から開催されている。
大学関係者一覧
関連項目
- 女子教育
- 西園寺公望 - 成瀬仁蔵の後援者。「日本女子大学校」創設時の設立発起人、創立委員。
- 大村忠二郎 - 成瀬仁蔵の友人で、同じく女子教育の第一人者。大阪府立清水谷高等女学校の初代校長だが、創立時に成瀬からの附属高等女学校の校長として招請され、就任する直前だった[3]。
- 大阪府立清水谷高等学校
脚注
- ^ 名称に「大学」を用いていたが、大学令による旧制大学ではなく、専門学校令による旧制女子専門学校であった。旧制大学も参照のこと
- ^ 『学制百年史』、文部省編、株式会社帝国地方行政学会 (1981)、第一編 第二章 第四節 三
- ^ 日本女子大学校はもともと、大阪市東区清水谷東之町(現天王寺区清水谷町)に建設される予定だった。この敷地に、大阪府第一高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)が建設された。