岸本辰雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。009AtoZ (会話 | 投稿記録) による 2016年3月14日 (月) 01:18個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎人物: ソース・リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

岸本辰雄
明治大学駿河台キャンパスに立つ岸本辰雄胸像(北村西望作)

岸本辰雄(きしもと たつお、1851年11月13日嘉永4年10月19日) - 1912年明治45年)4月5日)は日本法学者明治大学の創設者。

人物

因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に 鳥取藩作事方下吟味役 岸本平次郎尚義 の三男として生まれる。 幼名、辰三郎。当初 藩校「尚徳館」 で蘭式兵法を修める[1]


戊辰戦争に従軍後、1869年 箕作塾 に入門。翌1870年 貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学) に入学。1872年 新設の司法省明法寮(後に司法省法学校) に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ[2]ボアソナードら にフランス法を学び 1876年卒業。同年 選ばれて 宮城浩蔵 らとともに フランスに留学。パリ法科大学で フランス法律学士の学位 を取得[3]。1880年に帰国後、判事任官、東京大学法学部講師太政官御用掛等[4][5]


判事の傍ら 1881年(明治14年)1月17日、有楽町数寄屋橋の 旧島原藩上屋敷 (松平主殿頭家(とのものかみけ)旧邸、現在の千代田区有楽町数寄屋橋交差点そば)[6] において、宮城浩蔵矢代操 らとともに 明治大学 の前身である 明治法律学校 を創設、初代校長となる。岸本は法学全般に通じていたが、宮城浩蔵 が刑事法を担当したのに対し、矢代操 と分担して主に民事法を担当。「権利自由」、「独立自治」 の建学理念 を生み 明治大学 発展の礎を築く。


この間 法制局判事法制局参事官司法省参事官大審院判事等 を歴任。1889年には地元の鳥取県から第1回衆議院議員総選挙に立候補するが、すぐに辞退している。


1893年に弁護士登録。1897年東京弁護士会長。1905年法学博士となる。商法編纂委員、会社法編纂委員、破産法編纂委員、民商法施行調委員、法典調査会委員 などを務める[7]。 著書 に 「仏国民法売買篇講義」、「仏国商事会社法講義」、「仏国法典改正論」、「法学通論」、「帝国憲法要領」、「民法財産取得篇講義」、「民法人事篇講義」、「民法正義」、「商法講義」、「商法正義」 など 多数 がある[8][9][10][11][12][13][14][4][15][16]


1912年(明治45年)4月、市電で 明治大学 へ向かう途中に脳溢血で倒れ死去。墓所は谷中霊園乙4号9側


明治大学 駿河台キャンパスの リバティタワー23階に 「岸本辰雄記念ホール」 がある。またアカデミーコモン地下1階の大学史資料センター大学史展示室では、岸本ら3人の創立者の業績などを紹介する。出身地鳥取の藩校 「尚徳館」 跡地には、2006年 胸像 が建立される[17][18]

外部リンク