吉田清成
吉田 清成(よしだ きよなり、弘化2年2月14日(1845年3月21日)- 明治24年(1891年)8月3日)は、幕末の薩摩藩士、明治初期の官僚(外交官・農商務官僚)。元の名は巳之次。通称は太郎。留学中の変名は永井五百助。
来歴・人物
慶応元年(1865年)に藩の留学生としてイギリス、アメリカに留学、最初は航海学を学ぶが、後に政治学、経済学に転じた。明治3年(1870年)の帰国後に大蔵省に出仕して租税権頭、大蔵少輔を歴任、金本位制を主張する。明治5年(1872年)に外債募集のために渡米。カリフォルニア銀行やジェイコブ・シフと交渉する。ところが担保捻出措置としての秩禄処分に反対する岩倉使節団と衝突し、ニューヨークの新聞で報道されてしまう。それでもシフは引受に前向きであった。協議が必要であるというので、吉田はシフの代理人に連れられてイギリスへ。かいなく利率の交渉で平行線に。情報の早いロンドンにはたくさんのオファーが来た。結局オリエンタル・バンクの申し出を受けて、条件こそ良かったが申込の遅かったオランダ商館の方は流れた。翌年、外債は年利7%で発行され、借入金は大半が直ちに地金・洋銀へ交換され準備金に充てられた。
1874年にアメリカ滞在のまま同国駐在公使に任命された。明治11年(1878年)に締結された吉田・エバーツ条約で知られている。
明治12年(1879年)、前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントの来日決定に伴って一時帰国し、接待にあたった。明治15年(1882年)に外務大輔に任命されて帰国、外務卿・井上馨の元で条約改正にあたった。明治18年(1886年)に農商務大輔に転じて、そのまま初代次官に任じられた。
明治20年(1887年)に子爵に叙せられて、7月26日に元老院議官[1]に転出、翌年には枢密顧問官となる。だが、病を得て47歳の若さで急死した。
生前、多数の手紙・日記・記録などを遺しており、これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学日本史研究室に保管されている。
墓所・霊廟・銅像
昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生17名の像『若き薩摩の群像[2]』の一人として銅像が建てられている。
栄典
- 明治4年
- 1874年(明治7年)10月18日 - 従四位[3]
- 1878年(明治11年)2月6日 - 勲三等[3]
- 1880年(明治13年)3月27日 - 勲二等[3]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[3]
- 1887年(明治20年)5月9日 - 子爵[3][4]
- 1888年(明治21年)10月20日 - 正三位[3]
- 1889年(明治22年)
- 1891年(明治24年)7月31日 - 従二位[3][6]
- 外国勲章佩用允許
脚注
関連文献
- 犬塚孝明著『薩摩藩英国留学生』中央公論社、1974年10月、ISBN 4121003756
- 千田稔「明治6年7分利付外債の募集過程 : 吉田清成らとロンドン金融市場」(『経済集志』第54巻第1号、日本大学経済学研究会、1984年4月)
- 宇野健吾「戦前外債小史序 : 吉田清成のことども」(『筑波大学経済学論集』第17号、筑波大学社会科学系(経済学)、1986年3月)
- 山本四郎「明治八年の政治情勢 : 吉田駐米公使を通じて」(山本四郎編『近代日本の政党と官僚』東京創元社、1991年11月)
- 山本四郎「吉田・エバ-ツ協定の一考察 : 吉田清成関係文書による」(『史林』第76巻第6号、史学研究会、1993年11月)
- 『吉田清成関係文書』思文閣出版
- 田中智子「幕末維新期のアメリカ留学 : 吉田清成を中心に」(山本四郎編『日本近代国家の形成と展開』吉川弘文館、1996年10月、ISBN 4642036644)
外部リンク
- 憲政資料室 吉田清成関係文書(MF:個人蔵)(国立国会図書館)
- 枢密院文書 枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一 吉田清成(国立公文書館)