厳島 (敷設艦)
艦歴 | |
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計画 | 1923年度 |
起工 | 1928年2月2日 浦賀船渠 |
進水 | 1929年5月22日 |
就役 | 1929年12月26日竣工 |
その後 | 1944年10月7日戦没 |
除籍 | 1945年1月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:1,970t 公試:2,080t |
全長 | 107.5m |
全幅 | 12.8m |
吃水 | 3.22m |
主缶 | なし |
主機 | ラ式一号ディーゼル3基3軸 3,000HP |
速力 | 17.0kt |
航続距離 | 5,000 NM / 10kt(重油:145t) |
乗員 | 221名 |
兵装 | 14cm単装砲3門 8cm単装高角砲2門 五号機雷500個または六号機雷300個[1] |
概要
1923年(大正12年)度計画。当初排水量3,000t程度を予定していたが予算の関係で2,000tほどの艦形となる。中甲板に機雷敷設軌条6条が設置され、艦尾に投下口が設けられた。機雷は五号機雷が500個搭載可能だった。
主機にディーゼルを採用、日本海軍で水上艦のディーゼル採用は2艦目。第一次世界大戦の賠償艦であるドイツ潜水艦U125のディーゼルも一部流用し、日本海軍では珍しい3軸艦であった[1]。またエルツ舵採用も日本海軍艦艇では珍しかった[1]。
本艦は復元性に問題があり友鶴事件後、重量改善工事として8cm高角砲の機銃への交換など実施されている[1]。
竣工後は横須賀防備隊や水雷学校練習艦などをしていたが、日中戦争が始まると連合艦隊付属となり中国方面へ進出した。太平洋戦争では、1941年12月のサンベルナルジノ海峡における機雷敷設をはじめ[1]、各地への機雷敷設や輸送任務に就いていたが1944年(昭和19年)に戦没した。
艦歴
- 1928年2月2日 浦賀船渠にて起工
- 1929年5月22日 進水
- 12月26日 竣工
- 1941年 開戦時第3艦隊第17戦隊。各地の機雷敷設や輸送任務に就く。
- 1944年8月24日 ビートンにて敵機の攻撃により損傷。
- 1945年1月10日 除籍
歴代艦長
艤装員長
- 小山泰治 大佐:1929年5月1日 -
艦長
- 小山泰治 大佐:1929年12月26日 -
- 小松輝久 大佐:1930年12月1日 -
- 園田滋 大佐:1931年11月14日 -
- 中村俊久 大佐:1932年12月1日 -
- 堀内茂礼 大佐:1933年5月25日 -
- 金子豊吉 大佐:1933年11月15日 -
- 遠藤昌中 中佐:1934年10月22日 -
- 伏見宮博義王 中佐:1935年11月15日 -
- 辻村武久 大佐:1936年12月1日 -
- 石川信吾 大佐:1937年12月1日 -
- 一宮義之 大佐:1938年1月30日 -
- 高間完 大佐:1938年7月22日 -
- 森友一 大佐:1938年12月15日 -
- (兼)長谷川喜一 大佐:1939年11月15日 -
- 高橋一松 大佐:1939年12月1日 -
- 香春克己 大佐:1940年11月15日 -
- 森川亦男 大佐:1941年9月12日 -
- 柳川正男 中佐:1942年6月1日 -
- 大石新一 大佐:1944年6月1日 -
脚注
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II』(光人社、1990年)
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。