千貫神社
千貫神社 | |
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千貫神社正面写真 | |
所在地 | 宮城県岩沼市南長谷字諏訪128-2 |
位置 | 北緯38度5分26.8秒 東経140度50分34.7秒 / 北緯38.090778度 東経140.842972度座標: 北緯38度5分26.8秒 東経140度50分34.7秒 / 北緯38.090778度 東経140.842972度 |
主祭神 | 大山祇神 |
社格等 | 村社 |
創建 | 天平元年(729年) |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | (旧称)深山神社 |
例祭 | 4月15日 |
地図 |
千貫神社(せんがんじんじゃ)は、宮城県岩沼市南長谷にある神社である。 旧社格は村社。デザイナーの中野裕通の生家である[1][2]。
祭神
千貫山の神である大山祇神を主祭神に、別雷神、建御名方命、天御中主神、菊理比売神、伊邪那岐神を祀る。
立地
宮城県南東部の岩沼市南西部の千貫山の南麓に鎮座する。かつての東山道にあり、東山道が名取の里岩沼で浜街道と交わる驛玉前(現南長谷玉崎)柵にある[3]。同街道沿いには藤原実方墓、金蛇水神社、東平王塚古墳などが存在している。
千貫神社は旧名取郡千貫村の鎮守であり、かつては千貫山の山中に鎮座していた[4]。
由緒
天平元年4月18日、僧善快が千貫標松領に勧請し大山祇神を祀り漁船守護の神として真珠院(真言宗深谷山、竹駒寺末寺)がこれを兼司して深山大権現と称した。
伊達政宗が太刀と脇差を寄進しており、また七ヶ浜より相馬に至る七ヵ村の漁民が山嶺の松の保存のため金子一千貫を仙台藩に献じている。
明治維新の神仏判然令により寺院が廃止されて深山神社と改め村社に列した。明治41年7月諏訪神社と柳神社を合祀し、翌明治42年2月には雷神社と白山神社の両社を合祀して社号を標松千貫松にちなみ千貫神社と改称する[5]。大正3年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
旧千貫村は純農村地帯であり、かつては農事に即した様々な祭事や年中行事が見られたという[6]。
阿武隈川の伝承
岩沼市の西側に、深山(みやま=千貫山)という山があり、そこには千貫神社があった。この深山と対岸の亘理町の烏鳥屋山(からすとややま)との間で、阿武隈川が大きく蛇行して流れるようになったことについて、次のような伝説がある。
- ある日、山の神と川の神が出会った時、山の神は「ここまで山を作ってきたから、もっと北まで延長したい」といい、川の神は「この辺で川を海へと向かわせたい」と言った。お互い一歩も譲らないので、近くの深山という山を早く10周した方の意見に従うということになった。一斉に山の神と川の神が競争を始めたが、7周目に入ったところ、山の神がちょうど深山に咲いていたツツジに目を奪われ、ツツジの根に足を取られ転んでしまった。山の神が転んで遅れを取った間に川の神がどんどん差をつけてしまい勝利したという。
そのため、川の神である安福河伯神社付近から阿武隈川は東に流れを変え、太平洋に向かうように流れていると伝えられている。
この山の神が千貫神社(旧称深山大権現)の祭神の大山祇神であり、川の神は阿武隈川を挟んで対岸の亘理町に鎮座する安福河伯神社の祭神の速秋津比売神であるという。
慶長三陸地震津波の伝承
慶長16年(1611年)12月2日に発生した慶長三陸地震に伴う大津波では、発生当時舟で沖に出ていた伊達政宗の家臣等が流されて千貫神社のあった千貫松の側まで流されたと『駿府政事録』に記されている[7]。
脚注
- ^ 中野善博「子よ父に優るものとなれ」石井寿夫・佐古幸嬰監修『山河美わし―日本への愛情みちのく篇―』(昭和36年)109頁
- ^ SOW.TOKYO トップクリエーターインタビュー 中野裕通 Vol.1肖像
- ^ 中野髙行「千貫神社の由緒について」(平成7年)
- ^ みやぎ里山文庫No.19-007 千貫山
- ^ 宮城縣神社廰「千貫神社」
- ^ 中野善博『先祖たちの遺産―民俗年中行事のこころ―』(昭和51年)2-6頁
- ^ 蝦名裕一, 「歴史資料に基づく地形復元を用いた歴史津波の分析」『日本地理学会発表要旨集』 2016年 2016a巻, 2016年度日本地理学会秋季学術大会, セッションID:S103, p.100102-, doi:10.14866/ajg.2016a.0_100102
参考文献
- 中野清『千貫村年中行事』(大正12年)
- 中野善博「子よ父に優るものとなれ」(昭和36年)(石井寿夫・佐古幸嬰監修『山河美わし―日本への愛情みちのく篇―』所収)
- 中野善博『先祖たちの遺産―民俗年中行事のこころ―』(昭和51年)
- 岩沼市史編纂委員会編『岩沼市史』(昭和59年)
- 中野髙行「千貫神社の由緒について」(平成7年)
関連項目
外部リンク