三村建治
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三村 建治(みむら けんじ、1947年3月31日 - )は、日本の工業デザイナー。現在は株式会社エムアイエムデザイン代表取締役。東京都出身。
1960年代末からレーシングカーの設計者(デザイナー)として活動し、1970年代に、20代の若さでプライベート(自動車メーカーの後ろ楯がない体制)のF1コンストラクター、マキF1チームを組織。ヨーロッパや日本で開催されたF1レースに参戦した。日本の純プライベートコンストラクターが海外のF1レースに参戦したのは、2020年現在、マキF1チームのみ[1]。
1985年、エムアイエムデザインを設立。これまでにショベル(KOBELCO)、電話機(ケンウッド)、自動車(福田汽車、南京汽車、長城汽車、海馬汽車他)などのデザインおよびエンジニアリングを同社で行なっている。
略歴
[編集]- 1947年、東京都品川区で生まれる。実家はプラスチック成型の工場を経営していたという。
- 1964年、立教高校在学中、学友と共に「ロッドベンダーズ」というレーシングチームを結成し、ジムカーナなどに出場(当時は16歳で軽自動車免許が取得できた)。ロッドベンダーズの仲間には、舘信秀(現トムス会長)、小平基(後にTMSCに加入)、若松孝太郎などがいた。この時期、鈴鹿サーキットで浮谷東次郎、林みのる(童夢創業者)、鮒子田寛らと面識を得ている。立教大学に進学後は、ホンダ・S600でレースやジムカーナにドライバーとして参戦しながら、レーシングマシン作りの模索も行っていたという。
- 1967年、立教大学を中退し、林みのるや友人たちと共に、マクランサ(ホンダ・S600のシャシーに自製FRPボディを架装したレーシングマシン。林みのるの設計)を製作。 同年7月の鈴鹿12時間レースに自らドライバーとして参戦(マシン故障により出走できず)。
- 1969年、実兄である三村信昭が設立した「エバカーズ」(コンストラクター)に参加。 エバ1Aアンタレス(自製シャシーに日産・フェアレディのエンジンをミッドシップマウント)、エバ2Aカンナム(自製シャシーにホンダ・N360のエンジンをミッドシップマウント)を製作(両方とも三村がボディデザインを担当)。同年の第2回東京レーシングカーショーで大反響を呼ぶ。「エバカーズ」には、林みのる、小野昌朗(現東京R&D社長)、由良拓也(現ムーンクラフト代表)も参加していた。
- 1971年、「エバカーズ」から独立し、マナ06という名のフォーミュラカーを製作[2]。第4回東京レーシングカーショーで特選を受賞。以後は「マナ」というコンストラクターの代表として活動し、各種フォーミュラカーや、富士グランチャンピオンレース用2座席レーシングマシンなどを製作する。この前後には、レース専門誌でマシン製作法について連載記事を執筆するなど、日本のプライベートコンストラクターの草分け的存在として注目されていた。
- 1972年、東京レーシングカーショー特選の副賞として渡欧。ホンダF1元監督の中村良夫に紹介状を書いてもらい[3]、ローラ、マーチ、ティレル、コスワースと、F1コンストラクターや関連企業を見学。
- 1973年、三村が中心になりマキF1チームを組織[4]。純プライベートのF1コンストラクターとしての活動を秘密裏に開始する[5]。この際、小野昌朗も合流し[6]、三村と小野が中心になってF1マシンの設計製作を進める。
- 1974年3月、ロンドンのホテルで、マキF1チームの記者発表を開催。自製マシン(マキF101)によるF1レースへの参戦を公式に発表した[7]。ただし資金不足などでF1全戦には出場できず、同年7月のイギリスGPと8月の西ドイツGPに参戦するものの、2戦とも予選落ちに終わる。
- 1975年、前年に続きマキF1チームを率いてヨーロッパのF1世界選手権レース4戦に出場するが、いずれも予選落ち[8]。フランスで開催されたノンタイトル戦(世界選手権に含まれないレース)では、予選を通過し決勝13位。この年の末でマキF1チームは実質的な解散状態になった。
- 1976年、三村が単独で新型F1マシン(F102)を設計製作し、日本初のF1レースであるF1世界選手権イン・ジャパンにスポットで参戦するが、予選落ち。これでマキF1の活動は終了した。
- 1978年、林みのるが設立した童夢に専務として参画[9]。公道用スーパーカーの童夢-零や、ル・マン24時間レース用マシンなどの設計に携わる。
- 1980年、三村が設計に参加した童夢RL80が、ルマン24時間で日本車として初の完走を達成。
- 1982年、東京R&Dに専務として参画。2輪車、オーディオ、農機などの開発に携わる。
- 1985年、横浜でエムアイエムデザインを創立。以後同社代表として活動。
- 1986年、マツダ・757(耐久レース用マシン)の車体設計を行う。
- 2009年、東京モーターショー に出品された鈴商スパッセⅤ(市販前提のスポーツカー)のエクステリアデザインを担当。
脚注
[編集]- ^ 日本のプライベートF1コンストラクターとしてはコジマエンジニアリングも存在したが、コジマが参戦したのは日本で開催されたF1だけで、海外のF1レースには出場していない。スーパーアグリF1チームにはホンダのバックアップがあった
- ^ マナ06の製作には由良拓也も協力している。
- ^ 中村は三村の才能を絶賛していたという。
- ^ 組織としての正式名称は「マキ・エンジニアリング」で、1975年には「マキ・レーシング」に改組している。
- ^ 活動を秘密にしたのは「国内レースで高い成績を残していない段階でF1に参戦すると、周囲から批判や横やりが入りかねないと危惧したため」だという。
- ^ 「エバカーズ」からシグマ(現サード)に移籍していた。
- ^ チームスタッフは三村以下の全員が20代の若者だった。
- ^ そのうち2戦で旧友の鮒子田寛がドライバーに起用され、鮒子田は日本人として初めてF1世界選手権レースにエントリーという実績を残している。
- ^ 林は自伝『童夢へ』の中で、三村と見られる「M」という人物を「天才」と評している。
参考文献
[編集]- 『CAR MAGAZINE』2002年5月号〜2003年9月号 ネコ・パブリッシング
- 林みのる 『童夢へ』 幻冬舎、2009年 ISBN 9784344016088
- 『ノスタルジックヒーロー』2010年8月号〜10月号 芸文社