三好政権

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三階菱に五つ釘抜紋

三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる[1]。そのため、織田政権の前提となる「プレ統一政権」であると評価されることもある[2]

経歴

畿内への上陸

三好長慶像

三好氏信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、阿波三好郡を本拠とし、三好之長の時代に阿波守護で細川氏分家の阿波細川家細川成之政之父子に仕え、次いで本家(京兆家)の管領細川政元に仕えて勢力を拡大したのが畿内進出の契機となる。

永正の錯乱による政元死後の混乱(両細川の乱)において、三好之長は阿波細川家から政元の養子に入った成之の孫・細川澄元に与して四国勢を率い、野州細川家から政元の養子となった細川高国、それを支援する大内義興周防)、六角高頼近江)を相手に奮戦したが(如意ヶ嶽の戦い船岡山合戦等)、永正17年(1520年)に高国に敗れ、処刑された(等持院の戦い)。この時、息子の三好長秀など三好一族の多くが戦死、処刑された。澄元も之長の後を追うように病死、三好氏と阿波細川家はしばらく鳴りを潜めた。

之長の孫・三好元長は澄元の息子細川六郎(後の細川晴元)に仕え、大永7年(1527年)には四国勢を率いて畿内に上陸しを奪還(桂川原の戦い)、一時、朝倉宗滴越前)の支援を受けた高国に京都を奪われるものの、享禄4年(1531年)に浦上村宗播磨)、そして高国を討ち取るという武功を挙げ(大物崩れ)、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長した。その過程で細川氏は室町幕府12代将軍足利義晴も追放、代わりに義晴の兄弟足利義維を擁立する堺幕府(堺公方政権)を樹立していた。しかし宿敵・高国を滅ぼした晴元は、堺公方府としての政権奪取というこれまでの方針を転換、現将軍義晴と和睦してしまう。元長はこれに反対し義維を将軍に推すが、天文元年(1532年)、同族の三好政長の讒言により晴元に誅殺された。

三好宗家は元長の嫡男である三好長慶が継ぐことは許されたが、長慶は10歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。義維も享禄・天文の乱の混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され(阿波公方)、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として政長・木沢長政らが台頭した。しかし長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、晴元の家臣として反逆した長政の討伐(太平寺の戦い)をはじめ、高国の跡を継いだ細川氏綱遊佐長教河内)らとの舎利寺の戦いで多くの武功を発揮し、摂津守護代として晴元配下の最有力重臣にまで成長した。そして天文17年(1548年)に長慶は遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、同時に細川氏綱と和睦し、主君であり仇でもある晴元に反旗を翻した。

天文18年(1549年)、江口の戦いにおいて晴元・政長と戦い、長慶は勝利した。政長は戦死し、晴元と彼に擁立されていた義晴の子・13代将軍足利義輝近江に逃亡した。長慶は細川氏綱と共に上洛しての支配権を握った。しかし氏綱は長慶の傀儡でしかなく、政元以来の細川政権は実質的に崩壊し、三好政権が成立した。

三好政権の成立

上洛後の長慶は復帰を狙う晴元・義輝との交戦を続けたが(中尾城の戦い相国寺の戦い)、天文21年(1552年)に義輝と和睦して京都に迎え、同時に細川氏の家督を晴元から氏綱に挿げ替え氏綱を管領に据えた。将軍と管領であるこの2人は長慶の傀儡であり、ここに室町幕府の権力者を擁した三好政権が実質的に機能することとなった。しかし、幕府再興を目指す義輝及び晴元との対立はその後も続き、義輝を近江に追放しては連れ戻すという事態が相次ぎ、その間長慶は何回か暗殺未遂事件に遭遇している。最終的に義輝と和睦したのは永禄元年(1558年)、北白川の戦いの後に六角義賢の仲介を受けてのことである。永禄4年(1561年)に晴元との和睦も成立、13年に渡る対立に終止符を打った。

幕府と和解した永禄元年以降、三好政権は最盛期に突入するという見方がある[3]。だが今谷明は、義輝と和解して以降の三好政権は、将軍を復権させ、政権のイニシアチブを彼に譲渡する形となり、弱体化したと評する。今谷は「河内・大和の支配権を手に入れたが、二ヵ国の領国入手程度で穴埋めできるようなものではない痛手を蒙った」「長慶は独裁者から陪臣の地位に転落した」と評している[3]。一方で天野忠幸は、この和睦を「三好政権の敗北」と見なすかどうかは慎重な検討を要すると今谷のような見解に反論をしている[4]

長慶は将軍と戦いながら外征も行い、版図を畿内・四国に拡大し、永禄年間までには山城丹波・摂津・播磨淡路・阿波・讃岐伊予和泉・河内・大和若狭の一部など11カ国以上に及ぶ大領国を形成している。当時、今川氏は3カ国、甲斐武田氏は2カ国、安芸毛利氏は4カ国であったから、長慶の勢力は諸国でも抜きん出たものであった。

相次ぐ一族の死による混乱

三好氏代々の墓/勝瑞城内に建つ

三好政権は畿内、四国東方、淡路に勢力を展開し、安定した秩序を維持していたが、主要な構成者達の死去が重なり、その基盤が揺らいでゆく。永禄4年には長慶の末弟で讃岐衆を率い「鬼十河」と呼ばれた三好軍の勇将・十河一存が病死した。永禄5年(1562年)3月にも阿波衆を率いていた長慶の長弟・三好実休(義賢)が畠山高政との戦いで戦死する(久米田の戦い)。永禄6年(1563年)8月には長慶の嫡男・三好義興が死去するなど、有力な一族の相次ぐ死去という事態が続いた。

特に義興の死去で、三好氏は代理の後継ぎを据えることが要求された。結果、長慶の甥の中から、一存の子で母親が九条家と高い身分の十河重存(三好義継)を後継者とすることに決定した[5][6]。潜在的な敵対関係にあった足利将軍家は、代々近衛家と縁戚関係にあり、その近衛家と角逐する九条家の血を引く義継を後継者へ据えることで、足利将軍家へ対抗しようとしたと考えられる[6]

このイレギュラーな家督継承には少なからぬ混乱があったようだ。永禄7年(1564年)5月、長慶は次弟・安宅冬康を誅殺する。松永久秀の讒訴と、『続応仁後記』『三好別記』などの後世の軍記物などでは言われている[7]が、天野忠幸などが義継が世継ぎとして安定した盤石な三好家を継承する為に、抵抗勢力の旗頭になり得ると判断した冬康を「たとえ無実でも」粛清しなければならなかったのではないかと指摘している[7]他に長江正一も「久秀の讒訴であったとすれば、それを長慶が見抜けなかったことは三好家の悲劇だが、長慶としては、若年の義継の地盤の盤石化の為に、冬康を殺す必要があったのだろう」と指摘している[8]。冬康粛清について、一次史料などから久秀の関与は否定されている。後に冬康は無実であったと分かり、元々病を患っていた長慶は自らも7月に死去してしまった。

将軍謀殺

三好義継像

長慶の死後、三好氏の家督は義継が継いだ。しかし義継は若年のため、三好政権は義継の後見人である三好長逸三好政康岩成友通三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立されたのである。

一方、長慶の傀儡として君臨していた将軍足利義輝は長慶の死を好機と見て、かねてから親密な関係にあった上杉謙信武田信玄朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再建を目指して積極的な活動を行なうようになった。このような義輝の行動に危機感を持った久秀・三好三人衆らは永禄8年(1565年5月19日にクーデターを起こして義輝を二条城暗殺した(永禄の変)。

内紛・政権崩壊

しかし連立政権内において松永氏の勢力を危険視した三人衆は、永禄の変から7ヶ月ほどたった永禄8年12月、かつて久秀に筒井城を奪われて(筒井城の戦い)放浪していた筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。これにより、三人衆と久秀の対立が先鋭化する。また、丹波の大名となっていた久秀の弟長頼荻野直正に討ち取られた(連立政権は丹波を失う)。

一方、義輝には弟・覚慶がおり、義輝の旧臣に擁立され、永禄9年(1566年)2月に還俗し足利義秋(後の義昭)と名乗り、同年4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官した。これに対し三人衆は、かつての堺公方であった阿波公方・足利義維の子である足利義栄を14代将軍候補として擁立した。義栄は永禄10年(1567年)1月従五位下・左馬頭に叙任された。

三人衆は久秀との戦いにおいて義継を擁し、永禄9年9月には、阿波・讃岐の軍勢を率いた実休の子三好長治、実休の重臣篠原長房三好康長、阿波細川家の細川真之、将軍候補方・足利義栄も合流し、圧倒的に優勢であった。しかし永禄10年4月に当主の義継が突如出奔、久秀に保護を求めた。これにより久秀方は息を吹き返したが、やはり依然として劣勢であった(東大寺大仏殿の戦い)。三人衆方の篠原長房は松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦した。この時期の長房について、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されている。

このように三好政権内部で内紛が続いている中、永禄の変で細川藤孝一色藤長ら幕臣の援助を受けて逃亡していた足利義昭は、尾張美濃を領して勢いに乗る織田信長の援助を受け、永禄11年(1568年)9月に上洛を開始した。内紛に明け暮れている三好政権は信長の侵攻を食い止めるため、管領職を与えることで六角義賢を味方につけて防衛しようとしたが、義賢は信長の侵攻を受けてあえなく敗れさった(観音寺城の戦い)。義継と久秀は信長と通じており、三人衆は呆気なく敗走、長房も越水城を放棄して阿波へ撤退した。三人衆に擁立されていた足利義栄は阿波へ撤退した後9月に病死(10月とも)、義昭が15代将軍に就任した。こうして三好政権は崩壊、三好氏の畿内の領土は義継の河内と久秀の大和だけが残された。

政権奪還への再上陸

永禄12年(1569年)1月、三人衆と康長は阿波から上陸し義昭を急襲するが、あと一歩というところで失敗してしまう(本圀寺の変)。

元亀元年(1570年)7月、三人衆・康長らが阿波から再び上陸し野田城福島城に兵を挙げると、信長はこれを5万の兵で攻めるが、石山本願寺の助力もあり激戦の末織田軍は撃退され、近江にも戦端が開かれた為同年9月に信長は撤退する(野田城・福島城の戦い)。この信長の撤退と入れ替わりで篠原長房が再び長治・真之を奉じ阿波・讃岐の兵2万を率いて摂津に上陸、摂津・和泉を席巻するが、近江で浅井長政・朝倉義景軍と対峙していた信長は朝廷工作を実施し、正親町天皇より「講和斡旋を希望す」という言を得て、11月30日に話し合いが行われ、12月14日に和睦が成立し、近江の浅井長政・朝倉義景・六角義賢の撤兵と共に、長房も阿波へ軍を退いた(志賀の陣)。

しかし以後も長房は活発な軍事活動を続け、元亀2年(1571年)5月には阿波・讃岐勢を率い摂津に上陸、信長と結ぶ毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ備前児島)に上陸している。同年9月にも阿波・讃岐勢を率い荒木村重中川清秀・松永久秀(三好方)と共に和田惟政(足利・織田方)を討ち取り居城の摂津高槻城を包囲している(白井河原の戦い)。元亀3年(1572年)頃には三人衆と義昭、義継、久秀が反信長で一致して浅井長政・朝倉義景・六角義賢らも含めた信長包囲網が形成され、元亀4年(天正元年、1573年)には三好氏の勢力範囲は山城淀古城まで達した。

本拠地の崩壊

しかし同年5月、長房は主君の長治・真之に居城の上桜城を攻撃され、抗戦の後7月に自害してしまう(上桜城の戦い)。これらにより三好氏は統率力を喪失、讃岐の国人・香川氏香西氏を始め、阿波の国人までもが三好氏から離反し、本拠地阿波の援軍を得られなくなった三人衆・康長・義継・久秀は畿内で孤立してしまう。しかも7月に信長包囲網の首謀者義昭が槇島城の戦いで信長に敗れ室町幕府は滅亡、義景、長政も一乗谷城の戦い小谷城の戦いでそれぞれ信長に討滅され信長包囲網も瓦解(義賢は消息不明)、三好氏は軍事制約のなくなった信長の標的となった。

三人衆はなおも信長に抵抗したが同年末迄にはそれぞれ敗れ去り(第二次淀古城の戦い)、義継までもが義昭を匿った為同年11月に信長に討たれ(若江城の戦い)、12月に久秀が降伏、天正3年(1575年)4月には本願寺の支援を受けていた新堀城(摂津)の十河一行香西長信が敗死、河内高屋城の康長も降伏(高屋城の戦い)、ここに三好氏は畿内における勢力を完全に失った。

その後、阿波の長治は天正5年(1577年)、長宗我部元親の助力を得た真之と阿波荒田野で戦い敗死、長治の死後、讃岐・阿波を領有した十河存保も元親の侵攻を受け、それを退けるため信長に降った。なお三好氏に将軍候補として匿われていた阿波公方は、義栄が死去しても弟の足利義助によって家名は存続した。

政権構造

三好政権は室町幕府の旧体制をそのまま受け継いだ武家政権だった。将軍を傀儡として幕政を牛耳り、幕府の要職を名誉職として全国の有力諸大名に与えることで諸大名を懐柔するなど、幕府機能を最大限に利用している点がそれを物語っている。そのため、三好政権は内部構造が非常に脆弱で、その政権は長慶個人の才能と実弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らと嫡男の三好義興という限られた人物の存在によって成立しているに過ぎなかった。ただし、こうした見方は一致を見ているものではなく、三好政権は旧来の政治構造を取り込みつつも将軍・管領といった上位権力の意思(上意)とは全く無関係に行動し、国人層の支持を得ることで上位権力やその権威・枠組を相対化することで成立した政権であり、細川政権(=室町幕府体制)との明らかな政治的断絶が存在するとの指摘もある[9]織田政権足利義昭の追放後に三好政権にならった統治方法を採用したように、三好政権は「プレ統一政権」であるとも言える[10]

経済力ではを支配下に置くなどして他の諸大名を凌駕するほどのものだったが、その領国支配は複雑で、旧細川領国地域でも芥川山城などを根拠に長慶の直轄支配が進められた摂津・山城および堺、実休に統治を任せた三好氏本来の拠点である阿波、冬康・一存を養子に送り込んで支配した淡路・讃岐、三好政権成立の過程で三好氏の軍事力に従ってその立場を安堵された元守護代を国主とする体裁を取った丹波(内藤氏)・和泉(松浦氏)では統治の形態が異なり、永禄元年頃から始まった旧細川領国以外への進出の過程でも、重臣の松永氏を国主に送り込んだ大和に代表されるように、均一な支城体制の編成など、画一化された統治が採用されることなかった[11]

三好政権は朝廷との関係も他の大名に比べると極めて特殊であった。長慶の官途は筑前守、修理大夫で、これは官途としては平凡なものである[12]。また、長尾景虎(上杉謙信)が上洛して綸旨を得ようと工作した際に、それを妨害した形跡が見られない一方で、内裏の修築や各種儀礼において費用を工面して献金するといったこともしていない[12]。今谷明は「こうした姿勢は長慶の天皇への無関心さを彷彿とさせるが、実は三好政権の置かれた立場の非常に特殊なことを表す証左」と指摘している[12]

山城を初めとする畿内では禁裏、公家が把握する荘園が多い。そうした地域での年貢軍役の徴収、検地は困難を極める[12]。一方で、こうした勢力に遠慮をし過ぎれば、領国経営に支障をきたしてしまう[12]。今谷は、長慶は阿波・讃岐・淡路と言った旧来の領国と、堺を本拠地として押さえ、それ以外の所領については「緩やかな支配」で臨まざるを得なかったと指摘している[13]。また今谷は、長慶は三好家の家臣団が公家の荘園を勝手に押領することがあっても、それをある程度は「黙許」していただろうとも指摘する[12]

脚注

  1. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』17-18頁
  2. ^ 天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年、pp.344-345
  3. ^ a b 今谷・227頁
  4. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』169頁
  5. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』173頁
  6. ^ a b 天野(2014)・133頁
  7. ^ a b 天野(2014)・134頁
  8. ^ 長江・229頁
  9. ^ 古野貢『中世後期細川氏の権力構造』吉川弘文館、2008年。P286 - P287、P307 - P308。
  10. ^ 天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年、p.83、pp.344-345
  11. ^ 天野忠幸「十河一存と三好氏の和泉支配」(小山靖憲編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院、2006年。ISBN 978-4-7576-0374-5所収)
  12. ^ a b c d e f 今谷・天野監修『三好長慶』17頁
  13. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』18頁

参考文献

関連項目