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三好康長

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三好康長
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正13年(1585年)?
改名 孫七郎、康長、咲岩(法名)
別名 康慶、笑巌(笑岩)
官位 山城守
主君 織田信長羽柴秀吉
氏族 三好氏
父母 父:三好長秀
兄弟 元長康長
康俊、養子:信吉(豊臣秀次)
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三好 康長(みよし やすなが)は、戦国時代武将三好長秀の子で元長の弟、康俊の父。別名に康慶。号は咲岩(しょうがん)で笑巌または笑岩とも表記される[1]阿波岩倉城主、河内高屋城主。

経歴

三好政権

三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主・三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児・三好長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達宗及父子の茶会に度々出席している[2]

長慶の死後、三好宗家の家督は大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦。5月に久秀が侵入したを三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出し、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが[3]、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。

信長包囲網

しかし、15代将軍・足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊。29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主・岩成友通が降伏。30日摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸細川昭元と共に退去。10月2日には康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波国へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉国に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人衆(伊丹親興池田勝正荒木村重)らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。

しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津国中嶋に上陸し、野田城福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。

元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。

しかし、天正元年(1573年)、篠原長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)され、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)し、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている[4]

織田政権

織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。

天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の三男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある[5]

本能寺の変以降

天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる[6]

なお、本来の後継者である嫡男・康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。

脚注

  1. ^ 親交のあった津田宗及が記した茶会記録『宗及茶湯日記他会記』では咲岩の号または山城守の官位で度々茶会に参加している。一方、一次史料で他の号は確認されていない。天野 2012, pp. 18, 228–229, 247
  2. ^ 今谷, pp. 208–209, 218, 237–242、天野 2010, pp. 140–145、天野 2012, pp. 226–229
  3. ^ 今谷, p. 261.
  4. ^ 谷口, pp. 138–142、今谷, pp. 259–260, 275、天野 2010, pp. 145–148、天野 2012, pp. 229–232
  5. ^ 藤田達生「織田信長の東瀬戸内支配」(小山靖憲編『戦国期畿内の政治社会構造』(和泉書院、2006年) ISBN 978-4-7576-0374-5 所収)
  6. ^ 谷口, pp. 146–147, 249–251、天野 2012, pp. 232–247

参考文献

  • 谷口克広『信長の天下布武への道(戦争の日本史13)』吉川弘文館、2006年。ISBN 978-4642063234 
  • 今谷明『戦国三好一族 - 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年。ISBN 978-4862481351 
  • 天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年。ISBN 978-4792406981 
  • 天野忠幸『論集戦国大名と国衆10 阿波三好氏』岩田書院、2012年。ISBN 978-4872947700 

関連項目