ノーサンバランド伯

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ノーサンバランド伯Earl of Northumberland)は中世イングランド時代から用いられている貴族称号である。ノーサンバランド伯爵位は主にパーシー家House of PercyもしくはPerci)に代々継承されてきた。爵位の根拠となったノーサンバーランド伯爵領はイングランド北部のノーサンバーランドにある。このノーサンバランド伯爵領は1766年ノーサンバランド公爵領に格上げになり、現在に至っている。

概要

パーシー男爵

パーシー家はもともと9世紀にコー地方[1]に住み着いたデーン人メインフレッド(Mainfred)の子孫であり、ノルマン人のイングランド侵攻の際に一緒にイングランドに渡り、1066年からパーシー男爵としてヨークシャーに所領を与えられて暮らしていた。パーシー家は代々この地で辺境防備官(Warden of the Marches)として北からの侵攻に備えていたが、実際の所はスコットランドの動きには関心が薄く、どちらかというとイングランド中央の政局に敏感だった。

1140年から1150年頃、第4代パーシー男爵ウィリアム・ドゥ・パーシーの娘アグネスに結婚話が持ち上がった。持ちかけたのはヘンリー1世の王妃だったアデリザ・オブ・ルーヴァンで、相手はアデリザの異母弟ジョスリン・オブ・レーヴェンである。アデリザにしてみれば、末っ子で実家のブラバント公を継承できないジョスリンにとって、広大な所領を持つパーシー家の1人娘との結婚はもってこいの縁談だったのだ。この結婚の後にパーシー男爵が亡くなると、予定通り1人娘のアグネスが資産を継承し、その子リチャード・ドゥ・パーシーが第5代パーシー男爵を継承した。こうしてパーシー家は所領を保ったままブラバント公の血脈も得て、ますます力を付けていく。

パーシー・オブ・アニック男爵

1299年に新たな所領としてノーサンバーランド州アニックを得たパーシー家は、その称号をパーシー・オブ・アニック男爵とした。そして1309年には、それまでアニックを治めていたヴィシー家の遺児達の面倒を見ていたダラム司教アントニー・ベックからアニック・カースルを購入した。ヨークシャーには相変わらず所領は持っていたが、この「要塞付きの土地」を手に入れた事はパーシー家の更なる興隆に大きな影響を与えた。

アニック・カースルの大改修を始めたのは次の当主、第2代パーシー・オブ・アニック男爵ヘンリーの時である。当時勃発した百年戦争でフランスに遠征したエドワード3世に代わって、彼には当時フランスと連携していたスコットランドの侵略を防ぐ必要があったのだ。1346年ネヴィルズ・クロスの戦いでは、彼は任務を全うしイングランド軍の勝利に貢献している。

話は少し前後するが、1334年にヘンリーの息子(後の第3代アニック卿ヘンリー)が結婚した。相手はメアリ・オブ・ランカスター、ヘンリー3世の孫であるランカスター伯ヘンリー・プランタジネットの娘である。そして2人の間に生まれた子供、第4代アニック卿ヘンリーが、後にリチャード2世の戴冠式が済んだところで初代ノーサンバランド伯(第1期)に列せられる。

ノーサンバランド伯

第1期(1377年 - 1405年)

1377年に創設されたノーサンバランド伯とプランタジネット家との蜜月期間はしばらく続くが、1397年にヘンリーの最大の政敵であるラルフ・ネヴィルウェストモーランド伯に列せられた頃から陰りが見え始める。結局プランタジネット家に見切りをつけたヘンリー・パーシーは、1399年に息子のヘンリー・"ホットスパー"・パーシー[2]とともに、リチャード2世に反旗を翻したヘンリー・ボリングブロク支持に鞍替えしてしまう。これによってプランタジネット朝は終焉し、即位したヘンリー4世によるランカスター朝の時代が幕を開ける。

だがランカスター朝創設の立役者とも思われたパーシー家とヘンリー4世の関係も程なく悪化する。当初のヘンリー4世支持の見返りの約束[3]が充分に果たされなかったのだ。こうしてパーシー家はランカスター朝に反旗を翻す事になる。まず1403年にホットスパーがウェールズオウェイン・グレンダウァーの反乱に加担し、この時のシュルーズベリーの戦い英語版で敗死してしまう。実際はノーサンバランド伯もこの反乱に加担していたのだが、戦闘には直接参加していなかったため爵位は保留される。もっともノーサンバランド伯自身も1405年に反乱を企て、爵位を消失してしまった(1408年に3度目の反乱を企て、戦死)。

第2期(1416年 - 1537年)

1416年ヘンリー5世によってそれまで私権剥奪状態だったホットスパーの息子ヘンリー・パーシーの私権が回復され、ノーサンバランド伯に復帰される。これがノーサンバランド伯の第2期である[4]。ヘンリー・パーシーはこの時の復権を大変喜び、後に1455年薔薇戦争が勃発してからもパーシー家はランカスター朝の忠臣として働く。だが戦況はランカスター派にとって不利な状態であり、セント・オールバーンズの戦いでパーシーが戦死、遂には1461年タウトンの戦いで息子のヘンリー・パーシーも戦死、ヨーク朝エドワード4世によって再び爵位は消滅させられてしまった。

消滅状態のノーサンバランド伯の所領を引き継いだのはジョン・ネヴィルである。ネヴィル家はパーシー家とは仇敵とも言える関係であったが、それまでのランカスター派掃討の功が認められて、1465年にノーサンバランド伯に列せられる。もっともこの「ノーサンバランド伯ネヴィル」は長くは続かない。1470年ヘンリー・パーシーがヨーク派に忠誠を誓う事を条件に私権復活を果たすと、ノーサンバランド伯にも復帰を果たす。

このヘンリー・パーシーは1485年8月22日ボズワースの戦いでヨーク派のリチャード3世の側にたって参戦するものの布陣したまま動かず、結局ランカスター派の流れをくむヘンリー・テューダーがこの戦いを制し、テューダー朝を樹立する。パーシーは新国王ヘンリー7世に従うも1489年に非業の最期を遂げている。

第2期第5代ノーサンバランド伯は、アン・ブーリンに恋をする。彼の求婚は受け入れられるが、彼女を見初めたヘンリー8世の横槍が入り結婚を断念している。彼は後にシュルーズベリー伯の娘と結婚しているけれども子供がいなかったため、1537年にノーサンバランド伯家は断絶する。

第3期(1557年 - 1670年)

1557年、最後のノーサンバランド伯の甥のトマス・パーシーがノーサンバランド伯に列せられる。16世紀の半ばといえばイギリスの宗教問題が勃発した時期であり、カトリック教徒のノーサンバランド伯は1572年に家族共々反逆罪で処刑されてしまう。だがこの時には弟のヘンリー・パーシーイングランド国教会プロテスタント)の信徒としてカトリック弾圧側に回っていたため、爵位は弟が継承する事で安堵された。

爵位は息子のヘンリー・パーシーが継いだが、宗教弾圧が激しさを増す中で、1605年火薬陰謀事件が起こる。この事件の5人の首謀者の1人がノーサンバランド伯の使用人で遠縁に当たるトマス・パーシーだったのである。ノーサンバランド伯も共謀の嫌疑を掛けられ、その後16年間をロンドン塔の監獄で過ごす事になる。

次のアルジャーノン・パーシーは国王派としてチャールズ1世チャールズ2世父子のために清教徒革命を戦った。

そしてその次のジョスリン・パーシーに跡継ぎがいなかったため、ルーヴァン家の血を引くパーシー家は途絶える事となった。広大な所領を相続した娘エリザベスサマセット公チャールズ・シーモアと結婚し、2人の息子アルジャーノン・シーモア1749年にノーサンバランド伯を再興、孫娘エリザベスはヨークシャーのヒュー・スミソン卿と結婚した。このヒュー・スミソンこそが、1766年にパーシー家の跡を継いでノーサンバランド公爵に列せられるのである。[5]

第4期(1674年 - 1716年)

1674年にチャールズ2世の私生児であるジョージ・フィッツロイがノーサンバランド伯に列せられる。続いて1683年にノーサンバランド公に列せられるが、1716年に突然死去した。フィッツロイには嫡子がいなかったため、爵位は消滅した。

脚注

  1. ^ 「Pays de Caux」:ノルマンディーの一地方。現在のフランスのセーヌ=マリティーム県
  2. ^ 「Henry 'Hotspur' Percy」の「ホットスパー」とは「向こう見ず」といった意味で、スコットランド軍に対して果敢に戦った事からついたあだ名である。イングランドのプロサッカークラブトッテナム・ホットスパーの名称は彼にちなんで名付けられた。
  3. ^ 当初はカンブリアに新たな所領が与えられる約束になっていたのが、実際にヘンリー4世が即位するとその所領はパーシーの政敵に与えられてしまい、代わりにマン島が与えられた。パーシーにはイングランド武官長(Constable of England)に任命されるなど相応の官職も授かったが、封建社会では土地所有の欲求の方が大きかったためにパーシーはこの論功行賞に不満を感じる事になる。
  4. ^ 史書によってはこれを第1期の継続とみなし、「第2期の初代ノーサンバランド伯」を「第1期の2代目ノーサンバランド伯」と表す事もある。
  5. ^ ヒュー・スミソンの私生児の1人であるジェームズ・スミソンが、後にスミソニアン博物館の設立のための基金を残した。

ノーサンバランド伯一覧

ノーサンバランド伯第1期(1377年)

ノーサンバランド伯第2期(1416年)

ノーサンバランド伯第3期(1557年)

ノーサンバランド伯第4期(1674年)

ノーサンバランド伯第5期(1749年)

以後はノーサンバーランド公爵第3期を参照。

関連項目